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日本サルトル学会会報第65号 [会報]

研究例会のご案内
 第46回研究例会を下記の通り、zoom を利用してオンラインで開催しますのでご連絡いたします。
 次回の研究例会では、本年(2020年)に講談社学術文庫より日本語訳が刊行された『イマジネール』をめぐってミニ・シンポジウムが行われます。
 登録フォームを用意致しましたので、参加ご希望の方は下記URLよりご登録をお願い致します。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎いたします(無料)。多くの方のご参加をお待ちしております。

第46回研究例会
日時:2020年12月19日(土) 16 :00~  
※フランスからの参加も想定し、夕方からの開催となっております。ご注意ください。

【プログラム】
16:00 冒頭挨拶
16:05 ミニ・シンポジウム「『イマジネール』をめぐって」
趣旨説明
澤田直(立教大学)「サルトルのイメージ論:想像界と現実界 その境界はあるのか」
水野浩二(札幌国際大学)「イメージは本当に貧しいのか」
関大聡(東京大学大学院)「思考、言語、イメージ――サルトルの高等教育修了論文(1927)とその指導教官アンリ・ドラクロワ」
全体討論
17:50 休憩
18:00 総会
18:45 近況報告・情報交換会
※今回はオンライン開催のため懇親会は行いませんが、総会終了後に、zoom上で簡単な近況報告および情報交換の場を設ける予定です。

参加登録フォームURL  https://forms.gle/RF92Baz9B2qRHq8S8 
※zoom開催に関する細かな注意は、こちらのフォームにてお知らせします。

  

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日本学術会議への人事介入に反対する声明 [声明]

今回の日本学術会議人事にかんする菅政権の政治的介入に強く反対する

日本サルトル学会
会長 鈴木道彦
代表理事 澤田直
理事 生方淳子
理事 黒川学
理事 鈴木正道
理事 竹本研史
理事 永野潤
理事 水野浩二
理事 翠川博之
理事 森功次
会員 赤阪辰太郎
会員 海老坂武
会員 北見秀司
会員 小林成彬
会員 永井玲衣
会員 根木昭英
会員 森田秀二
他会員1名
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日本サルトル学会会報第64号 [会報]

研究例会のご案内
 第45回研究例会を下記の通り開催いたしますので、ご連絡致します。
 先般お伝えしました通り、日本サルトル学会では新型コロナウイルス感染症への対応について理事会で協議した結果、次回研究例会をzoomを利用したオンライン開催とすることに決定致しました。
 次回の研究例会では、小林成彬氏(一橋大学)による研究発表が行われます。
 登録フォームを用意致しましたので、参加ご希望の方は下記URLよりご登録をお願い致します。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します(無料)。多くの方のご参加をお待ちしております。

第45回研究例会
日時:2020年10月11日(日) 16 :00~  
※フランスからの参加も想定し、夕方からの開催となっております。ご注意ください。

【プログラム】
16:00 冒頭挨拶
16:05 研究発表:小林成彬(一橋大学)
    「ティントレットの物語──サルトルとランシエールから」
    司会:森功次(大妻女子大学)
17:30 休憩
17:40 総会
18:15- 近況報告・情報交換会
※今回はオンライン開催のため懇親会は行いませんが、総会終了後に、zoom上で簡単な近況報告および情報交換の場を設ける予定です。

参加登録フォームURL  https://bit.ly/2F13cKb
※zoom開催に関する細かな注意は、こちらのフォームにてお知らせします。  

発表要旨
小林成彬(一橋大学)「ティントレットの物語──サルトルとランシエールから」

ジャック・ランシエールは『哲学者とその貧者たち』(1983)で苛烈極まるサルトル批判を展開している。しかしながら、彼はもともとサルトリアンであり、近年のインタビューにおいても自身が大きくサルトルから影響を受けていることを隠そうとしない。しかし、ランシエールとサルトルが比較検討される機会は世界的に見てほとんどなかったと言ってもいいのではないだろうか。本発表では、『哲学者とその貧者たち』のサルトル批判を軸にしつつ、両者を比較検討し、サルトル美学の政治的射程を改めて探っていきたい。

サルトル関連文献
・澤田直:「文学とは何か──加藤周一、サルトル、そして〈独自的普遍〉──」三浦信孝・鷲巣力編『加藤周一を21世紀に引き継ぐために 加藤周一生誕記念国際シンポジウム講演録』)(水声社、2020年 p. 251-270)
・竹本研史「個人の実践と全体化の論理――ジャン=ポール・サルトルにおける特異性の位相」、東京大学大学院総合文化研究科博士論文、2019年。


理事会からのお知らせ
・ 日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・ 会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。
・ 今年度の冬の例会では、新訳『イマジネール』(澤田直・水野浩二訳、講談社学術文庫、2020年)に関するワークショップを開催する予定です。日程は12月19日(土)を予定しています。
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日本サルトル学会会報第63号(例会・理事改選延期のお知らせ)

研究例会延期のご案内
第45回研究例会の開催につきまして、ご連絡いたします。
日本サルトル学会では、新型コロナウイルス感染症の状況について理事会で協議した結果、7月に予定していた次回例会の開催を延期し、9月上旬にオンラインで開催することにいたしました。プログラム内容は、⼩林成彬氏(⼀橋⼤学)による研究発表となる予定です。
詳しい情報が固まり次第、メールおよび学会ホームページにてお知らせいたします。

理事任期の延長について
今年度は理事の改選年度にあたりますが、例会の7月開催が延期となったため、特例として理事任期を次回例会の9月まで延長することといたしました。次期理事につきましては、9月の例会のさいの総会で協議する予定です。ご理解の程、よろしくお願い申し上げます。

サルトル関連文献
・ジャン・ポール・サルトル『イマジネール:想像力の現象学的心理学』澤田直・水野浩二訳、講談社学術文庫、2020年5月
・海老坂武『NHK「100分de名著」ブックス サルトル 実存主義とは何か: 希望と自由の哲学』NHK出版、2020年3月
・川口茂雄・越門勝彦・三宅岳史(編集)『現代フランス哲学入門』ミネルヴァ書房、2020年7月(森功次氏執筆の「サルトル」の項目があります)
・鈴木正道「ジャン=ポール・サルトル:反体制の体制化」『言語と文化』法政大学言語・文化センター、17、p. 39-60、2020年1月
・竹本研史「「特異的普遍」としての知識人 : 加藤周一がサルトルから学んだこと」『人間環境論集』法政大学人間環境学会、20(2)、p.1-27、2020年-3月
・南コニー「サルトルとグローバル・ジャスティス : ラッセル法廷50周年記念を迎えて」『神戸大学文学部紀要』47、p.65-80、2020年4月

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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日本サルトル学会会報第62号 [会報]

研究例会のご報告
 第44回研究例会を下記の通り開催致しましたので、ご報告致します。
 今回の研究例会では赤阪辰太郎氏の博士論文合評会、および谷口佳津宏氏による研究発表が行われました。以下、報告文を掲載致します。

第44回研究例会
日時:2019年12月7日(土) 13 :30~
場所:南山大学(Q棟4F 416教室)


博士論文合評会 
発表者:赤阪辰太郎(立命館大学)
「前期サルトルの哲学研究――形⽽上学の問題を中⼼に」(筆者自身による博士論文内容紹介)
特定質問者:生方淳子(国⼠舘⼤学)、⼩林成彬(⼀橋⼤学)
司会:根⽊昭英(獨協⼤学)
 
 例会の前半部では、私の博士論文の合評会を開催していただいた。
 冒頭の20分程度で私のほうから博士論文の内容を紹介した。拙論では「形而上学」という主題がサルトルの前期著作にとって文学・哲学・実存をつらぬいて独自の重要性をもっている、という仮説のもと、1920年代から40年代後半までのテクストを読み解いていった。要旨については大阪大学の機関リポジトリ上でも公開されているため、ご興味のある方は参照いただければさいわいである(http://hdl.handle.net/11094/73504)。
 その後、まず特定質問者の小林成彬氏から質問をいただいた。小林氏からは拙論の問題点を非常に詳細にわたって指摘していただいたが、ここでは頂いた質問・疑義のなかから数点を紹介するにとどめたい。紙幅の都合上、いただいたコメントの理路が正しく再現できていない点があるかと思うが、どうかご容赦いただきたい。
コーパスの問題:拙論が主に研究対象としたのは「前期サルトル」のテクストだったが、この前(中)後期という区分および論じるテクストの選択に恣意性があるのではないか。とりわけ、形而上学という主題がマルクス主義受容にともなう主体概念の改鋳にともない背景化してゆく、という筋書きに妥当性がはたしてあるのだろうか、という疑義が呈された。
『存在と無』緒論をめぐる問い:拙論では『存在と無』の取り組みを現象学的存在論と形而上学に分け、即自と対自の存在領域を設定する「緒論」が、即自と対自という二元性から存在にアプローチする視座を設定するという意味で「形而上学」に属する、と論じた。この点について、「緒論」の議論は現象主義批判から現象学的存在論へと必然的に辿りつく過程を示したものであって、そこには視座の決定や選択はないのではないか、という疑義が呈された。
承認をめぐる問い:拙論では『文学とは何か』における作家と読者の承認を論じる際に、サルトルがテクスト中で語る理想的な承認関係とは反対に、書いている現在の作家と潜在的読者、読書中の読者と作品から垣間見える作家がすれ違うようなコミュニケーション構造がみられるのではないか、と論じ、その上で承認を語ることの意義を「理念の不可能性の体験」に求め、その倫理的意義を論じた。これに対し、作家も読者も互いに自由を承認していなければ読む・書くことはできないのではないか、したがって互いの自由の想定があるのではないか、と疑義が呈された。
 以上のような質問の後に、小林氏は準備中の博士論文の内容ともかかわる「サルトルと夢」という主題について論じられ、ご発表を締めくくられた。
 つづく生方氏の質問で特に焦点となったのは次のような点である。
サルトルに独自の形而上学があるとして、それは形而上学の歴史にとってどのような貢献を果たしているのか(デカルト、カント、ハイデガーとの差異など)。
小林氏の質問とも関連するが、『存在と無』緒論においてサルトルが行っているのは彼が定義する形而上学なのか、あるいは存在論なのか(存在論なのではないか)。
他者論を扱う章において「認識」の問題と「存在」の問題を正しく区別しているか。
対自存在の出現という絶対的出来事を誕生の出来事と同一視してよいのか(『倫理学ノート』で参照される、ヘーゲルにおける人類史的な視点を考慮すべきではないか)。
 こうした質問のほか、『デカルト的省察』における、形而上学にかんする記述をめぐるハイデガーとフッサールとの思想上の対決が見られる点などを指摘され、拙稿で扱うことができなかった哲学史的な空白を補う有意義なコメントをくださった。
 会場からは、文学における形而上学と哲学における形而上学を架橋した上で前期サルトルのテクストを再評価する、という拙論の試みについて、その成否を問う声もあがった。上記のすべての質問にたいして十分な回答ができたとは言えないものの、いただいた質問については今後の研究のなかで応答してゆきたいと考えている。
 最後に、特定質問者を引き受けてくださった生方先生、小林先生、そして合評会に参加してくださった諸先生方に感謝いたします。 (赤阪辰太郎)


研究発表
発表者:谷口佳津宏(南山大学) 
「『弁証法的理性批判』における方法の問題」
司会:森功次(大妻女子大学)

 谷口氏の発表は、『弁証法的理性批判』の冒頭部分にある「方法の問題」、そして公刊された『弁証法的理性批判』の前半部分、そして未刊に終わった『弁証法的理性批判』の第二部との関係を考察するものであった。谷口氏が現在進めているこの考察作業の一部は、すでに南山大学紀要『アカデミア』人文・自然科学編第16号に「『弁証法的理性批判』における方法の問題(その 1)」というタイトルで発表されている(http://doi.org/10.15119/00002376)。この著作間の関係を問い直す谷口氏の作業は現在も継続しており、今回の発表はその作業の中間報告にあたるものといえる。
 この時期のサルトルの一連の著作群の関係に関しては、「方法の問題」で提示された「遡行的-前進的かつ分析的-綜合的方法」という方法のうち、まず『批判』の公刊部分では「遡行的-分析的」方法が採用され、『批判』の未刊部分で「前進的-総合的」方法が採用された、と見るのが従来の基本的な解釈であった。だが谷口氏はこの解釈に異を唱える。
 まず、たしかに書物の構成としては「方法の問題」が先に来て、その後に「批判」が続く形になっているが、サルトル自身が、論理的な順序としては「批判」の部分が「方法」を基礎付ける形になっていると明言している。さらに『方法の問題』の当初雑誌に発表されたバージョンでは、『弁証法的理性批判』に言及する注の部分が過去形で書かれており、そこからは『方法』と『批判』は同時期に並行して書かれていたのではないか、と考えることも可能である。そして『方法の問題』の執筆経緯をみると、これは元はポーランドの雑誌への依頼論文であり、その点に鑑みれば『方法の問題』は、サルトルが長年抱え続けていた「マルクス主義を人間化する」という問題意識のうち公にできそうな部分をひとまず執筆して形にしたといえるかもしれない。
 さらに谷口氏は「基礎づけ」という関係に着目して『批判』を読み解く。『方法の問題』における考察は、史的唯物論が正しい理論であることを前提として進められている。『批判』をその史的唯物論を検討し立証するパートとして見るならば、『批判』は『方法』の基礎を提供する作業とも言える(ただしその史的唯物論の正しさを語る際に、サルトルが自己原因的存在について以前よりも寛容な態度を見せている点は注目に値すると谷口氏はいう)。この点を逆に見れば、『方法の問題』はあくまでその基礎づけ作業が成功するまではただの仮説に過ぎないもの、と見ることもできるのである。
 谷口氏は各パートで用いられている具体例の違いについても触れていた。『方法』では過去に遡る形で人物研究が行われるが、他方、『批判』では抽象的な個人を例に議論が進められる。この〈具体例の種類の違いが、そこで採用されている方法論とどのように関係するか〉という問題意識は、哲学的なアプローチとして非常に興味深いものであり、今後のさらなる成果を期待したいところである。
 最後に谷口氏は、「記述」という作業についても触れた。谷口氏の見るところ、『方法の問題』での作業の進め方は、サルトル自身が紹介しているアンリ・ルフェーヴルの方法論とかなりの部分軌を一にしている。じっさいサルトルは『方法の問題』の中でルフェーブルに言及しつつ、a)記述的、b)分析的-遡行的、c)歴史的-発生的、という作業手順を語っている。だが、谷口氏の見るところ、両者の作業には違いも見られる。それはサルトルが「記述」の部分を「現象学的記述」として解釈している点だ。ところがルフェーブルの作業に現象学的はあまり見られないし、「現象学的記述」というものをサルトル自身がどのように理解していたのかすら、あまり明らかではない(じっさい『批判』期やその後の著作にも「現象学的記述」という語はほとんど見られないという)。サルトルが『批判』の中に、現象学的な観点をどのようにして取り込み、どう維持しているか、という点は今後の検討課題である(谷口氏はコメントの形で、ここでいう「現象学的記述」はアルフレッド・シュッツがやっていた作業のようなものとして考えられるかもしれない、という示唆をしていた)。
 最後に全体的なコメントをいくつか付して、報告を終わりとしたい。谷口氏の発表では(氏がこれまで発表してきた論文と同じく)、ある書物の出版経緯や、書籍化に至るまでのささいな表現変更――そしてそこから読み取れるサルトル自身の思想の時系列的変化――に気を払う、非常に精緻な読解作業がなされていた。またディスカッションの中で谷口氏は「現時点で言えるのはここまでで、ここから先はあくまで推測にすぎない」といった類の留保を頻繁に述べていたが、そうした解釈上の線引きに常に配慮する氏の真摯な姿勢は、同じ分野の研究者として非常に感銘を受けるものであった。緻密な読解には時間がかかる。氏の発表は、その忘れられがちな事実をあらためて示す発表であった。(森功次)


サルトル関連文献
・澤田直『サルトルのプリズム:二十世紀フランス文学・思想論』法政大学出版局、2019年12月
・イ・アレックス・テックァン「理論と冷戦 第1回 右翼的なサルトル?」鍵谷怜訳『ゲンロン』10、p. 224-233.
・得能想平「トゥルニエの「非人称主義」――サルトルの『存在と無』との比較において」『哲学論叢』46、京都大学哲学論叢刊行会、pp. 32-43.


理事会からのお知らせ
 次回のサルトル学会例会は、7月上旬にて立教大学にて開催予定です。
 日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes 
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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講演:日本で暮らす外国人 サルトルから考える仮放免者問題と私たち [サルトル関連情報]

国際連携本部フランス研究主催イベント 日本で暮らす外国人 サルトルから考える仮放免者問題と私たち

日時:2019年11月28日(木)15:20-17:00
会場:明治大学 和泉キャンパス 第二校舎 5番教室(明大前駅より徒歩5分)
https://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/izumi/access.html

講師:永野 潤 氏(首都大学東京等非常勤講師)
国際連携本部フランス研究主催イベント

日本には、入局管理局から国外退去命令を受けたものの、難民の申請中である、日本に家族がいるなど、帰国できない事情を抱える外国人が暮らしています。書類上、「仮放免者」と呼ばれる人たちです。仮放免者の多くは、入管の収容所できびしく長い収容生活を送った経験を持ちます。2007年以降で収容中 (手続き中も含む)に起きた死亡件数は15件にのぼります。本講演では、「反ユダヤ主義はユダヤ人の問題ではない、われわれの問題であ る」「第三世界は郊外にはじまる」という言葉を遺した、フランスの哲学者サルトルの人種差別・植民地主義に関する思想を手がかりに、日本における外国人収容の歴史をたどり、現在の難民・移民問題と日本社会、つまり私たちと の関わりについて考えたいと思います。

※申込不要・入場無料

お問合せ先:明治大学国際連携事務室
E-MAIL: ico@mics.meiji.ac.jp TEL: 03-3296-4591/4191
※申込不要・入場無料

お問合せ先:明治大学国際連携事務室
E-MAIL: ico@mics.meiji.ac.jp TEL: 03-3296-4591/4191

https://www.meiji.ac.jp/cip/info/2019/6t5h7p00001v71pq-att/6t5h7p00001v71qp.pdf?fbclid=IwAR3IcDXYnbyeTaQ-IjoJe6HscfBx8OHSd1x44JnNoOMP9ugOtKvHKy16kro
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日本サルトル学会会報第61号 [会報]

研究例会のご案内
第44回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、最近博⼠論⽂を提出されました⾚阪⾠太郎⽒の博⼠論⽂合評会、および⾕⼝
佳津宏⽒による研究発表が⾏われます。
当学会では⾮会員の⽅の聴講を歓迎致します(無料)。多くの⽅のご来場をお待ちしております。
第44回研究例会
⽇時:2019 年12 ⽉7 ⽇(⼟) 13 :30〜
場所:南⼭⼤学(名古屋市昭和区⼭⾥町18)Q棟 4F 416教室
※名古屋での開催となりますのでご注意下さい。
南⼭⼤学へのアクセス
地下鉄名城線「⼋事⽇⾚」駅より徒歩約8分
地下鉄鶴舞線「いりなか」駅1番出⼝より徒歩約15分
https://www.nanzan-u.ac.jp/Information/access.html

研究発表
13:30〜16:00
発表者:⾚阪⾠太郎(⽴命館⼤学)
「前期サルトルの哲学研究――形⽽上学の問題を中⼼に」(筆者⾃⾝による博⼠論⽂内容紹介)
特定質問者:⽣⽅淳⼦(国⼠舘⼤学)、⼩林成彬(⼀橋⼤学)
司会:根⽊昭英(獨協⼤学)
※ ⾚阪⽒の博⼠論⽂の要旨はこちらで公開されています。http://hdl.handle.net/11094/73504
博⼠論⽂の本⽂pdf をご希望の⽅は、⾚阪⽒までご連絡ください。
(連絡先::shintaro_akasaka@hotmail.com)
16:15〜17:30
発表者:⾕⼝佳津宏(南⼭⼤学)
「『弁証法的理性批判』における⽅法の問題」
司会:森功次(⼤妻⼥⼦⼤学)

懇親会 兼 研究相談会 18:30 頃〜

サルトル関連⽂献
・ ⽔野浩⼆『倫理と歴史:1960 年代のサルトルの倫理学』(シリーズ〈哲学への扉〉)⽉曜社、2019.
・ ⻄⽥勝「サルトルとカミュの受容 (フォーラム 引揚げとは何か? 主として⽂学にとって) ――(コ
メント)」『植⺠地⽂化研究 : 資料と分析』(18), 42-45, 2019.
・ 堀⽥新五郎「知性とその外部──ソクラテスとサルトルを起点として」『奈良県⽴⼤学研究季報』
29(4), 1-25, 2019.

理事会からのお知らせ
⽇本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の⽅は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7⽉と12⽉の年⼆回⾏われております。

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研究例会のお知らせ [研究例会のお知らせ]

研究例会のご案内
第44回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、最近博士論文を提出されました赤阪辰太郎氏の博士論文合評会、および谷口佳津宏氏による研究発表が行われます。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します(無料)。多くの方のご来場をお待ちしております。

第44回研究例会
日時:2019年12月7日(土) 13 :30~
場所:南山大学(Q棟4F 416教室)
※名古屋での開催となりますのでご注意下さい。

研究発表 
13:30~16:00
発表者:赤阪辰太郎(立命館大学)
「前期サルトルの哲学研究――形而上学の問題を中心に」(筆者自身による博士論文内容紹介)
特定質問者:生方淳子(国士舘大学)、小林成彬(一橋大学)
 司会:根木昭英(獨協大学)
※赤阪氏の博士論文の要旨はこちらで公開されています。http://hdl.handle.net/11094/73504
    博士論文の本文pdfをご希望の方は、赤阪氏までご連絡ください。
(連絡先:連絡先:shintaro_akasaka@hotmail.com)

16:15~17:30
発表者:谷口佳津宏(南山大学)
「『弁証法的理性批判』における方法の問題」
司会:森功次(大妻女子大学)

懇親会 兼 研究相談会  18:30頃~
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2019年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2019)参加報告 [サルトル関連情報]

2019年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2019)参加報告
関大聡

 2019年度の国際サルトル学会(GES)のシンポジウムがパリ・ソルボンヌ大学で開催された(6月21日、22日)。これまでの学会の模様については本会報でも二度報告が掲載されており、発表者もある程度重複しているので、興味ある方は比べてみるとよいかもしれない(2017年度2018年度)。今回の学会テーマとして掲げられたのは「ボーヴォワール」で、これは2018年5月にガリマール社からシモーヌ・ド・ボーヴォワールの回想録がプレイヤッド版全集として刊行されたことを受けたものである。結果として、14の発表(アレクシ・シャボーは発表キャンセル)のうち、半数以上がボーヴォワールに関するものとなった。各発表の仏語題など詳細については公式ウェブサイトを参照されたい(GES公式プログラム)。
 ボーヴォワール関連の発表から紹介しておこう。まず、サルトルの恋人だったシモーヌ・ジョリヴェとシモーヌ・ド・ボーヴォワールという「二人のシモーヌ」が、作品のなかでどう描かれているか、またシモーヌ同士の関係はどういったものだったかについての紹介(ジャック・ルカルム)。初期サルトルの著作における「単独者」の表象と実生活におけるボーヴォワールとのカップル関係の間に横たわるある種の逆説を考察するもの(エステル・ドゥムーラン)。『存在と無』と『第二の性』における愛の現象学的・倫理的分析についての比較(ガブリエル・マエウ)。戦後のサルトルとボーヴォワールによるアメリカ体験と、当地での人種差別問題の発見についての発表(セリーヌ・レオン)。プレイヤッド版『回想録』がラジオ・テレビ・新聞・雑誌などでどう受容されたか、その特徴を概観するもの(フランソワーズ・シモーネ・トゥナン)。サルトルとボーヴォワールにおける疎外論の深化(社会科学と精神分析の連結)の先駆者として、ラカンの影響を検討したもの(アレクサンドル・フェロン)。「実存主義者」に対するキリスト教徒や共産主義者からの批判に対して、『現代』誌の主要な執筆者――サルトル、ボーヴォワール、メルロ=ポンティ――がどのように応答したか、そこに「共通のプログラム」は存在するのか、という議論(パトリス・ヴィベール)。『存在と無』のハイキングの描写を、サルトルとボーヴォワールが実際に好んで行っていたハイキング時の関係性と重ね合わせながら読み込んだ発表(ヤン・ハメル)。
 以上の八つの発表のうち、エステル・ドゥムーランの発表「単独者から文学的カップルへ」、およびフランソワーズ・シモーネ=トゥナンの発表「ボーヴォワールのプレイヤッド版『回想録』の受容」に関しては、内容に少し立ち入っておこう。ドゥムーランはソルボンヌ大学でサルトル-ボーヴォワールの文学的カップルについての博士論文を用意している若手研究者で、2017年のGESでもサルトルと同性愛嫌悪の問題に関して発表を行なっていた(『サルトル研究誌』22号に掲載)。今回の発表は、サルトルが「単独者」の理論を構想した20年代後半が、まさにボーヴォワールとの「必然的」恋愛関係を結ぶ時期と重なっているという逆説から出発して、文学における単独者(あるいは独身者)とカップルの関係を考察するものである。ジャン・ボリーの『フランスの独身者』(1976年)が論じるように、19世紀後半以降ある種の作家(フローベール、ゴンクール兄弟、ユイスマンスなど)には独身性と芸術性を、あるいは単独性と創造性を結び付ける連想が存在しており、それは(ここで問題になるのが男性作家であるからには)女性の排除を伴うものである。ドゥムーランはこうした発想が初期のサルトルの著作にもみられるとして、そこにニーチェとその超人思想からの影響を読みつつ、同時にサルトルとニーチェの女性をめぐる思考がどの点で違うかを検討する。こうした単独性=創造性の連結は、サルトルとボーヴォワールがカップルを形成するときにもその在り方に影響を及ぼさずにはいなかった、というのが彼女の主張である。その影響は大まかに言って、1) お互いの孤独の尊重、2) 共同で書く、という実践の拒否、3) ルイ・アラゴンとエルザ・トリオレが体現するような相互に賞賛しあうカップル像の拒否、に大別される。以上が発表の要旨であり、彼女はこの論の帰結にまで考察を進めてなかったように思うが、これは突き詰めて考えれば、二人の契約的恋愛関係の根本にある透明性や融合的な在り方をめぐる神話を崩すものともなるだろう。その点も含めいくつか議論を呼びそうにも思われるが、一般に無性的な論として受け取られる「単独者」の思想をジェンダー化させる、という観点はとりわけ刺激的に思われた。
 フランソワーズ・シモーネ=トゥナンは、日記、書簡、自伝、回想など、自己に関するエクリチュールを専門とする研究者である。2018年のプレイヤッド版『回想録』の刊行はラジオ・テレビ・新聞・雑誌などでも数多く取り上げられたが、量は必ずしも質を保証するものではない、と彼女は言う。記事の表題からみていくと、「偉大な回想録作家」というような紋切り型的紹介や、作品タイトルをもじった名前(「社会参加した女性の回想」など)、フェミニストとしての側面を誇張したもの、数少ない女性作家としてのプレイヤッド版の刊行という象徴的威光を強調したもの、などが並ぶ。内容に立ち入ってみると、その多くは刊行当時の状況(とりわけ#MeToo)に結びつけ、また回想録それ自体というよりも、全集の編集者でありボーヴォワールの養女シルヴィー・ル・ボン・ド・ボーヴォワールへのインタビューに基づいて構成されたものだという。とはいえ特筆すべきものもある。興味深い証言・発言者としてはAlice Ferney, Annie Ernaux, Catherine Millet, Camille Laurensが、また際立って批判的・攻撃的な評者としてはCharles Dantzig, Christophe Mercier, Jean-Paul Gavard-Perretが挙げられた。批判はもっぱら彼女の文体面での凡庸さや形式的実験の不在を嘆き、フェミニストとしてはサルトルとの間に対等と言いうる関係があるのかと訝り、そして回想では語られないが彼女(ら)によって苦しめられた人々がいるという道徳的な批判を投げかける。しかし好意的にせよ批判的にせよ、自伝・回想というジャンルに即して今回の回想録を考察する試み、たとえば2010年に刊行されたサルトルのプレイヤッド版自伝との比較などは行なわれず、二人の自伝的企ての生成についてはより詳細な検討が必要であろうと締めくくられた。そうした考察が必要なのは論を俟たない。とはいえ同時に、刊行当時の状況、要するに#MeTooなどとの関連はもっと真っ向から問われてもよかったのではないか。「ボーヴォワールなら#MeTooについて何と言ったと思いますか?」と言った類の問いかけが微笑を誘うのは仕方ないにしても、L’Obs誌に「ボーヴォワールから#MeTooまで」(2018年2月)という特集が組まれ、またパリ第7大学で開かれたボーヴォワールをめぐる三日間のシンポジウム(同年10月11-13日)でもこの点が数多く取り沙汰されるなど、やはり無視できない視角ではないだろうか。
二日目の発表は特にテーマを定めず、六つの自由発表がなされた。『存在と無』における憑依(hantise)の主題を、デリダの憑在論(hantologie)的視点から解釈した発表(フェルナンダ・アルト)。サルトルと同時代の神経生物学者で、『イマジネール』や『奇妙な戦争手帖』などで名が挙げられているラウル・ムルグ(Raoul Mourgue)の著書『幻覚の神経生物学』(1932)と、サルトルの知覚と想像力をめぐる議論を対照させた論(フレデリック・シュネーベルジェ)。アイデンティティ危機に瀕した思春期児童による詩的反逆児(ランボー、ロートレアモン)への自己同一化という観点から『自由への道』の登場人物フィリップの道程を検討したもの(クラウディア・ブリアーヌ)。バタイユの思考を介しつつサルトルとフーコーにおける侵犯の思考を比較する論(エヴァ・アブアイ)。政治哲学における(たとえば民衆の)表象の問題を、サルトルの『弁証法的理性批判』から検討し、クロード・ルフォールなどの民主制論と対比させるもの(マティアス・リーヴェンス)。サルトルの組織集団(groupe organisé)論の可能性についての検討(クセノフォン・テネザキス)。
 個別の発表を紹介する代わりに、いくつか所見を記しておこう。まず、比較的若い世代による発表が多い点。アルトは2017年に『サルトルの憑在論』というテーマでパリ1大学に博士論文を提出している。ブリアーヌは2018年に博士論文に基づく著書『群衆のなかの思春期:アラゴン、ニザン、サルトル』を刊行したばかりである(本発表はそれに基づく)。アブアイは現在パリ・ソルボンヌ大学でサルトルにおける救済をテーマにした博士論文の準備中。テネザキスもパリ東大学でサルトル、フーコー、ガタリ、ドゥルーズにおける集団と自由についての博士論文を準備中である。これら大学院生の発表を除けば、精神医学と政治学という、必ずしもサルトル研究の専門家ではない視点からの発表が入ったことになる。
 そこから世代差をめぐる問いかけも生ずる。所謂大御所世代と大学院生・ポスドクによる発表が並ぶと、サルトルを読むときの資料体も違えば、アプローチも異なることに気付かされる。そこには長所もあれば課題と思しき点もあるだろう。一方で、サルトルに関する新しいアプローチの導入がサルトル研究に活性化をもたらすことは疑いなく、学会としてもその傾向を歓迎する様子がうかがわれる。他方で、先の点と矛盾するようだが、若手が発表の主軸を担うことには多少の懸念もある。最近ではフランスの博士課程の学生もかなり業績を積みながら博士論文の提出を目指すものらしく、今回発表した若手の別の発表を私はあちらこちらで一度ならず見たことがある。そうすると、発表内容について多少なりとも既視感が生ずるのは避けがたい。もちろんそれだけに由来するわけではないが、今回、やや停滞した雰囲気を感じたのは私だけではないと思う。
 こうした傾向の固定化を避けるためには――また現状では哲学系が多いので文学系の発表の割合を増やすためには――、情報発信の仕方を考えていくべきだし、外部からの発表を受け付けやすくするためにテーマの明確化を図ることも有効だろう。現に総会ではこれらの点が主な議題となった。報告者としては、フランス外からの発表者が例年一定数いることもこの学会の魅力であり、議論を豊かにするものだと強調しておきたい。その点で言うと、GESには三年連続で日本からの発表者がいたのだが、今年はおらず、少し残念だった。ハードルは決して低くないにせよ、ここで議論を交わすことで得られるものは少なくない。これからも発表の機会が広く共有されることを期待しているし、そうした希望を込めて、今回の報告文を終えたいと思う。(報告者:関大聡)
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日本サルトル学会会報第60号 [会報]

研究例会のご報告
第43回研究例会を下記の通り開催致しましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では茨木博史氏、水野浩二氏による研究発表が行われました。以下、報告文を掲載致します。

第43回研究例会
日時:2019年7月13日(土) 14 :00~
場所:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー(BT) 26階A会議室

研究発表 
茨木博史(在アルジェリア日本大使館) 「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」
 茨木博史氏の発表「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」は、アルベール・カミュやマグレブ文学およびアルジェリアの地域文化研究を専門とする茨木氏が、サルトル自身の言説と彼の協力者たちが、アルジェリア戦争期にアルジェリアにもたらした影響について、言説分析および受容・影響の観点から検討したものである。
 茨木氏はまず、サルトルがアルジェリアについて論じたものとして、『シチュアシオン V 』に所収された「植民地主義はひとつのシステムである」をはじめ、多くの評論が残されている一方、アルジェリアの知識人たちが、サルトルについて直接的に言及している文献はほとんどないという事実を明らかにした。
 サルトルとアルジェリアとの具体的な関わりは、1948年のガルダイアやタマンラセットなどの砂漠地方へのボーヴォワールとの旅行である。一方、茨木氏が引用するヌレッディーヌ・ラムシが指摘する通り、サルトルは1945年のセティフの大虐殺についても同時期に言及をしておらず、彼は1950年代になってからアルジェリアの植民地問題について発言するようになった。茨木氏は、フランシス・ジャンソンらは、サルトル主宰の『レ・タン・モデルヌ』誌でそれ以前に反植民地主義キャンペーンを明確に打ち出しており、サルトルのアルジェリアに関する言説はそのキャンペーンの一環で読まれるべきだと提唱した。
 茨木氏は、これまでサルトル研究ではほぼ扱われていなかった、フェラト・アバース(のちのアルジェリア共和国臨時政府大統領)率いる『ラ・レピュブリック・アルジェリエンヌ』紙に掲載された1953年1月のインタビューを取り上げた。茨木氏はそこからまず、同紙による、国際的名声のあるサルトルが仕事に忙殺されているにもかかわらず、文書で回答いただいた、とする非常に恭しい紹介に着目し、同紙にとってサルトルが距離感のある象徴的存在に祀り上げられていることを明らかにした。また茨木氏は、サルトルが先のインタビューへの回答のなかで、「コロン」の人種主義がフランス本国にも有害なものであり、植民地の問題がフランス社会の民主主義の問題と分かちがたく結びついており、その植民地の問題は人種主義が支えているという見方を示す一方、この枠組みをジャンソンが52年に『レ・タン・モデルヌ』誌に発表したテクストですでに提示していることを喚起し、それが以降のサルトルにとっての基本的な論調となっていると主張した。
 つぎに茨木氏は、1956年のサルトルのテクスト「植民地はひとつのシステムである」について論じたが、そこでサルトルが「良いコロンと悪いコロンがいるのではない。コロンがいる、それがすべてだ」という、《改良主義者=新植民地主義者》の欺瞞を批判した有名な言説を分析しつつ、「私は、小役人や、労働者、小さな商店主といった、体制の無実の犠牲者でもあり受益者でもある人たちをコロンとは呼ばない」という文言も取り上げたが、その文言は当時のコロンの事情とは辻褄が合わず、サルトルは「コロン」概念を非常に曖昧で粗雑に扱っているのではないかという問題提起をした。ただし、こうした正確さを欠くイメージはサルトルのみならず、本国で流布しており、茨木氏は、こうした「コロン」のイメージに対するカミュやジャック・デリダの批判などアルジェリア側からの不満を持った反応を紹介した。
 サルトルの「植民地はひとつのシステムである」も発表された1956年1月にパリで開催されたミーティングで、アルジェリアの詩人ジャン・アムルーシュが、アルジェリア人であるとともにフランス人でもあることを信じているという、フランスへの愛着も語りながら、「ヨーロッパのフランス」とともに、「植民地主義のフランス」という側面も持っており、アルジェリアのゲリラが武器を取る相手は後者のフランスなのだと主張している。茨木氏は、アムルーシュをはじめとするアルジェリア人なども含めて、知識人の集いの場がサルトルを中心にしてつくられることも、サルトルの功績のひとつであると指摘するとともに、このアムルーシュの論考をサルトルに関連づけて、サルトル自身が守りたかったのは、アムルーシュのいう「ヨーロッパのフランス」であったのだと強調した。併せて、歴史のなかで自らの存在を認めさせるというのが被植民者たちのスローガンであったし、この時期から多くのアルジェリア人作家たちの重要なテーマとなったことも述べられた。
 さらに茨木氏は、「植民地はひとつのシステムである」以降のアルジェリアについての論考を分析した。サルトルはアルジェリア戦争中、次々に論考を発表していくが、アルベール・メンミなどの色々な本から学びながら、その都度その都度ひとつずつ新たな要素を付け加え、「コロン」についての概念も明確化していくという特徴も示した。1957年、58年ごろから拷問の存在が明らかになっていくが、サルトルがそれを深刻に捉え、植民地主義や「コロン」による人種主義が、本国のフランス人と切り離された問題ではなく、有害なものとして自分たちに到達してしまった問題なのだと危機感を抱き、フランスを恥辱から、アルジェリア人を地獄から救うために交渉を開き、戦争を止めるべきだと本国のフランス人をnous として呼びかけを行っている。こうした事実から茨木氏は、ラムシを引きながら、サルトルの言論が本国のフランス人を明確な宛先として書かれていることが、アルジェリアでの直接的な反応が少ない原因のひとつではないかと導き出した。
 以上から茨木氏は、「100万人のアルジェリア人を殺戮させたという我々の敗北」とサルトルが記した1962年の「夢遊病者たち」に至るまで、アルジェリアに関するサルトルの論考について、アルジルダス・ジュリアン・グレマスの物語分析を援用しながら、我々という sujet が、フランスの解放を、objet として求めて冒険を続けていたが、結局それに敗れてしまうということ、自分たちを妨害する敵とみなしていた「コロン」がしだいしだいに自分たち近づいてきて、自分たちのなかに入り込んでしまうこと、フランスの民主主義の敗北の過程などといった、ひとつの苦い「物語」として読めるのではないかと示唆した。
 茨木氏は最後に、アルジェリア人にとってのサルトルを考えるにあたって、アンガージュマンの問題が戦後の文学に長い間占めてきたがゆえに、アルジェリアの知識人たちがサルトルとどのような距離を取るべきかが課題だったという、作家ムールード・マムリの文章を紹介した。また茨木氏は、サルトルから強い影響を受けたフランツ・ファノンや、サルトルの近くにいたモーリス・マスチノなどの言説も取り上げられ、その後のアルジェリアについても言及をおこなった。そのなかで茨木氏は、アルジェリア戦争には関係者も多く、社会学者ピエール・ブルデューや人類学者ジェルメーヌ・ティヨンなどの優れた論考に比べると、サルトルの思想的独自性は疑わしいが、むしろこのことは、サルトルが運動の中心にあったこと、サルトルが運動の場を作り出したことの大きさを意味するものである。それがサルトルの功績であり、サルトルのアルジェリア論が現在も読まれ続けている要因となっており、サルトルの一連の論考はその運動の一環として読まれるべきであると強調し、本発表を締めくくった。
 本発表は、茨木氏が豊富なアルジェリアの歴史や社会についての知見を基にして、サルトルのアルジェリアについての諸論考を精緻に分析し、サルトルとアルジェリア側の双方の非対称的な見方を露わにするのみならず、サルトルのアンガージュマンの意義そのものを問い直した非常に意義深いものであったと言えよう。 (竹本研史)


水野浩二(札幌国際大学) 「倫理と歴史――1960年代のサルトルの倫理学――」
 2004年に『サルトルの倫理思想−本来的人間から全体的人間へ』(法政大学出版局)を公刊されたあと、水野氏は「全体的人間homme total」に準拠する1960年代の倫理思想を主題に研究を深められ、現在、その成果を著書にまとめておられるところである。今回はその成果の一部として、主に1965年のコーネル大学講演草稿《倫理と歴史》に基づく考察を披露していただいた。《倫理と歴史》には「倫理的案出invention éthique」なる用語が頻出する。さて、「倫理的案出」とは何か。この概念の内実を詳らかにするとともに、それを基軸に展開されるサルトル倫理思想の特徴を明らかにすることが本発表の主題となった。
 講演草稿において「倫理的案出」に言及するとき、サルトルはいくつかの具体例を挙げている。発表では《倫理と歴史》から特に三つの事例が選ばれ、氏による注釈が加えられた。1)病に冒され、余命一年を宣告された妻にその事実を告げぬことを決意する夫の例。もはや真実を受け止められる精神状態にない妻を思いやる夫は、「嘘をついてはならない」という伝統的規範に抗して、新たな規範「人間らしく生きるべきである」を案出している。 2)民主党の大統領候補指名選挙におけるケネディの演説。カトリックである彼は、プロテスタント優位の歴史的伝統のなかで、有権者にカトリックの候補者に対する寛容を要求した。つまり、合衆国の「歴史的伝統」という規範に抗して「寛容」という徳の遂行(=投票)を要求したところに彼の「倫理的案出」があった。3)レジスタンス運動の闘士フチークとブロソレット、アルジェリア独立戦争の闘士アレッグの例。彼らは逮捕されたあと、拷問を受けながらもついに口を割ることがなかった。彼らは「身体的苦痛は避けるべきものである」という普遍的規範に抗し、苦痛に耐えることによって、またさらなる苦痛を回避すること(=自殺すること)によって「口を割らない」という使命に従った。「苦痛」を単に状況に付随する出来事と見なすことによって、また自らが置かれた環境から平時ならば忌避される自死の手段を見いだすことによって、彼らは「倫理的案出」を行った。
 本発表ではさらにこれらの事例に加えて、1964年のローマ講演《倫理の根源》で引用されている女子高校生へのアンケート(95%の生徒が嘘は悪であると考えていながら、実際には90%の生徒が嘘をついた経験があると回答した)や、「リエージュの嬰児殺し事件」(サリドマイドの影響で奇形児を産んだ母親が「生の絶対的価値」に抗し、「人間的に生きる機会を予め奪われている子供の生を引き延ばすことはできない」という規範を案出し、わが子の命を奪った)、また1965年の《命令と価値》で引用されている軍隊の曹長による兵士への命令(曹長が兵士に「箒がない」と叫ぶとき、それは「箒を見つけよ、ゆえに見つけることができる。つまり、何かを使ってこの場で箒を作るべし、ゆえに作ることができる」という、兵士の「案出の自由」への呼びかけである)といった事例も「倫理的案出」の具体例として付け加えられた。
 「人間関係は倫理的規定(déterminations éthiques)によって規制されている」とはサルトルが《倫理と歴史》で明確に述べているところである。水野氏の解釈によれば、普遍性を前提に措定された倫理的規定ないし定言命法はときに特殊な現実から遊離した規範となることがあり、それに従うことが不可能になる場合に「倫理的案出」が現れる。では、規範の遵守が不可能になるとはどういう事態か。それは、人間が人間らしく生きる機会、人間が人間として生きる機会、すなわち「全体的人間」であることを脅かされるような事態である。それゆえ、現実に基づかない観念的な倫理規範の乗り越えを目指したサルトル60年代の具体的倫理(サルトル自身の表現で「弁証法的倫理」とも言われる)において、「倫理的案出」はとりわけ重要な概念になっている。これが本発表の結論である。
発表後の質疑応答では、特に「リエージュの嬰児殺し」を巡って、それが許容される理路に違和感を覚えるとする意見が複数の参加者からあげられた。また、こうした「個人的」な決定を、そもそも倫理規範として認めることができるのかといった問いもこれに付随して発せられた。水野氏からは、「嬰児殺し」についてはそれが犯罪的な行為であることをサルトルも重々承知している、確かに反論を喚起する事例ではあるが、彼がこれを示した意図は「倫理的案出」の主体的決断をことさら強調することにあったのだろうという回答がなされた。さらにこれに対し、マルクスの倫理思想の影響下にあるこの時期のサルトルには、他者を包摂するような倫理を重視する側面もあったはずだという意見が提起された。水野氏は、そうした側面が確かにあることを認められたうえで、本発表の主題からはやや離れるために今回はあえて言及を避けた旨を告げられた。かくして活発な質疑応答が交わされた。60年代の倫理思想の全体像に触れる氏の新たな著書の刊行が大いに待たれるところである。(翠川博之)

サルトル関連文献
・水野浩二『倫理と歴史:一九六〇年代のサルトルの倫理学』月曜社、2019年10月(近刊)
・石崎晴己著『ある少年H――わが「失われた時を求めて」』吉田書店、2019年6月
・永野潤『イラストで読むキーワード哲学入門』白澤社発行、現代書館発売、2019年4月
既刊の2冊について、学会のブログに生方淳子さんによる「新刊のご紹介」が掲載されております。

理事会からのお知らせ
・次回のサルトル学会例会は、12月7日(土)に南山大学(Q棟4F 416教室)にて開催予定です。
 ※名古屋での開催となりますので、ご注意下さい。
・日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
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