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第47回研究例会合評会資料 [研究例会のお知らせ]

『戦場の哲学』著者による要約紹介(合評会資料)
7月10日の第47回例会合評会で使用されたパワーポイントをPDFに直したものです。(リンク先はgoogleドライブです)
https://bit.ly/3r6jwgh

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研究例会のお知らせ [研究例会のお知らせ]

研究例会のご案内
第44回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、最近博士論文を提出されました赤阪辰太郎氏の博士論文合評会、および谷口佳津宏氏による研究発表が行われます。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します(無料)。多くの方のご来場をお待ちしております。

第44回研究例会
日時:2019年12月7日(土) 13 :30~
場所:南山大学(Q棟4F 416教室)
※名古屋での開催となりますのでご注意下さい。

研究発表 
13:30~16:00
発表者:赤阪辰太郎(立命館大学)
「前期サルトルの哲学研究――形而上学の問題を中心に」(筆者自身による博士論文内容紹介)
特定質問者:生方淳子(国士舘大学)、小林成彬(一橋大学)
 司会:根木昭英(獨協大学)
※赤阪氏の博士論文の要旨はこちらで公開されています。http://hdl.handle.net/11094/73504
    博士論文の本文pdfをご希望の方は、赤阪氏までご連絡ください。
(連絡先:連絡先:shintaro_akasaka@hotmail.com)

16:15~17:30
発表者:谷口佳津宏(南山大学)
「『弁証法的理性批判』における方法の問題」
司会:森功次(大妻女子大学)

懇親会 兼 研究相談会  18:30頃~
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第43回研究例会「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」要旨 [研究例会のお知らせ]

2019年7月13日(土)14 :00~の第43回研究例会
https://ajes.blog.so-net.ne.jp/2019-06-02

茨木博史(在アルジェリア大使館)
「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」
司会:竹本研史(法政大学)

要旨
サルトルがアルジェリアの植民地問題について発言するようになるのは、1950年代に入ってからのことである。1954年に勃発したアルジェリア戦争にサルトル自身がコミットしていく前に、彼の主宰する『現代』誌は既に反植民地主義の立場を明確に打ち出していた。1953年1月には、後にアルジェリア共和国臨時政府の首班となるフェラト・アバースが率いるレピュブリック・アルジェリエンヌ紙にサルトルのインタビューが掲載される。この中で彼は、「コロン」の人種主義がフランス本国にも有害なものであり、植民地の問題はフランスの民主主義のそれと分かちがたく結びついているという見方を示している(1) 。1956年に発表された「植民地主義はシステムである」においては「良いコロンと悪いコロンがいるのではない。コロンがいる、それがすべてだ」と喝破したうえで、アルジェリア人と本国のフランス人の双方を植民地主義の専制から解放しなければならないと説いた (2)。サルトルが用いる「コロン」の概念は粗雑な面があるものの、「コロン」による被植民者の非人間化、本国の人権や民主主義の原理の植民地での否定という図式に基づき、フランス軍による拷問問題についてもフランスを「恥辱」から救わねばならないとした(3) 。
 フランス本国でアルジェリア戦争の遂行に反対する陣営の中心的存在となったサルトルであったが、当時のアルジェリアでは知識人の著作やFLMの機関紙等において、サルトルに対する直接的な反応は、時おり名前が言及される程度でほとんど見られない。アルジェリアでの直接的な反応は少ない原因としては、ラムシが指摘するようにサルトルの言論が本国のフランス人を明確な宛先として書かれていることを(4) 、その一つとして推定できるだろう。他方で、「植民地主義はシステムである」が発表された1956年1月のパリのミーティングでは、アルジェリア人の詩人ジャン・アムルーシュが招かれ、『現代』誌はやはり作家のカテブ・ヤシンや独立後のアルジェリアで教育相を務めるムスタファ・ラシュラフらに度々執筆の場を与えた。また、サルトルの思想、「人間」の概念に影響を受けたフランツ・ファノンはアルジェリア戦争が始まるとFLNのスポークスマンとなり、党の公式言説もしばしばサルトル-ファノン的な色調を帯びることとなる。ファノンの他にも、やはり『現代』誌に執筆し、FLNと密な交流を持ったモーリス・マスチノのような人物もいる。
本発表では、サルトル自身の言論と彼の協力者たちが、アルジェリア戦争期にアルジェリアにもたらした影響とはどのようなものであったか、言説分析の観点及び受容・影響の観点からあらためて検討したい。

(1) La République algérienne, le 9 janvier 1953.
(2) « Colonialisme est un système », Situations, V, p.89-111.
(3)« Une Victoire », Ibid, p.326-340.
(4)Lamouchi, Noureddine, Jean-Paul Sartre et le Tiers monde, L’Harmattan, 1996, p.212-216.


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第42回研究例会 発表要旨 [研究例会のお知らせ]

12月8日に開催の第41回研究例会(14 :15~ 立教大学 5号館5209教室)の、永井玲衣氏(上智大学、立教大学)の発表要旨が届きましたので、掲載致します。
他の発表者の要旨も、届き次第掲載する予定です。


研究発表
14:15~15:00
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学)
「『存在と無』における形而上学について」
 司会:森功次(大妻女子大学)

15:15~16:15
発表者:永井玲衣(上智大学、立教大学)
「哲学プラクティスとサルトル」
司会:竹本研史(法政大学)

 近年、アメリカのリップマンを創始者とする「子どもの哲学(philosophy for children, P4C)」といった哲学教育が、国内でも広く普及する様相を見せている。また、フランスのマルク・ソーテが90年代に拓いた「哲学カフェ」は、00年代に日本に持ち込まれ、今や全国の数百カ所で行われている程に浸透した。国内ではまだメジャーではないものの、80年代ではドイツで、秘教的なあり方へと傾斜してしまった哲学への批判として、実践的な「術」として「哲学カウンセリング」といった方法論も提起され、多方面でその研究が為されている。こういった、哲学的なテーマについて共同で探求を行う活動、もしくは哲学そのものを実践的なものとして位置づけ直す試みは「哲学プラクティス」と総称され、全世界で実践・研究が行われている。
 以上のような試みについて「行動の哲学者」であるサルトルは、どのように接合し得るだろうか。もしくは、どのような影響を与えてきたと考えられるだろうか。本発表は、未だ広くは知られていない哲学プラクティスの状況を概観し、「知識人」サルトルとの接合点を模索しつつ、フロアとのディスカッションの契機としたい。



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第41回研究例会 加藤誠之氏発表要旨 [研究例会のお知らせ]

7月7日に開催される第41回研究例会(13 :30~ 立教大学 5号館5306教室)の、加藤誠之氏(高知大学)の発表要旨です。
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研究例会のお知らせ(発表梗概) [研究例会のお知らせ]

12月9日の研究例会の発表梗概を公開します。
第40回研究例会
日時:2017年12月9日(土) 14 :00~
場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

研究発表
14:00 ~ 15:15 発表者:南コニー(神戸大学非常勤講師) 「サルトルにおけるラッセル法廷とその展開」
 司会:森功次(東京大学/山形大学)
世界で初めて行われた「民衆法廷」は、今年で50周年を迎える。この「民衆法廷」は、1966年にバートランド・ラッセルによって提唱されたことから別名「ラッセル法廷」とも呼ばれ、現在もなお世界各地で開かれている。民衆法廷とは国家や国際機関によって設置されている法廷とは異なり、主催者が公的機関ではないため法的拘束力は伴わないものの、国際的な人道問題が発生している地帯に関する情報を一般に広く知らしめるとともに、問題の所在を明らかにし、現状を糾弾することで和平を促す試みである。1967年に最初に開かれた「ラッセル法廷」は、ジャン=ポール・サルトルを裁判長に迎え、ベトナムに対するアメリカ合衆国の戦争犯罪を裁く目的で第一回をストックホルム、第二回は東京、第三回はデンマークのロスキレで開かれた。本発表では、この裁判において裁判長を務めたサルトルのグローバル・ジャスティスとしてのアンガージュマンに焦点を当てながら、「真理の生成」という思想学的な分析と市民社会におけるモラルの問題からラッセル法廷の意義とその展開について考察する。また、ラッセル法廷で発表された『ジェノサイド』にサルトルの後期思想における「単独的普遍」(l’universel singulier) の概念の展開と発展が見られることを検証、分析しつつ、『生けるキルケゴール』において課題として残されていた最後の問いに対する答えの一つが、この法廷の主催と参加、社会的呼びかけを通して示されたということを証明したい。また同様にこの民衆法廷の開催が、サルトルにおける倫理的課題に答える具現化としてのプロセスであることも、あわせて究明する。尚、社会学的アプローチから、ストックホルム、東京、ロスキレと三都市において開催された法廷の記録、とりわけロスキレ市立図書館所蔵の未公刊資料や証言集をもとにラッセル法廷に関してこれまで知られていなかった事実関係を明らかにするとともに、その同時代的な背景と時代精神をも分析したい。そして、現在もなお開催され続けている民衆法廷の今日的な役割について、サルトルの思想と関連付けつつ論じる予定である。       
南コニー(神戸大学非常勤講師)

15:30 ~ 16:45
発表者:堀田新五郎(奈良県立大学准教授) 「サルトル1952年の政治思想――その主権論的構成について」
 司会:永野潤(首都大学東京ほか(非))
 大戦後サルトルは、レジスタンスという「幸福な時代」の終焉を宣告した。確かに第四共和政の混迷した政治状況は、単独イシューの追求が可能であったレジスタンス期とは異なり、緊迫化する冷戦および激化する民族解放闘争への対応は、左翼・民主主義勢力の分裂を余儀なくしたのである。特に1952年、所謂「サルトル・カミュ論争」によって両者は袂を分かち、また同じ年に『レ・タン・モデルヌ』に掲載されたサルトルの「共産主義者と平和」は、メルロ=ポンティによって「ウルトラ・ボルシェヴィズム」として断罪されることとなった。本報告では、50年代初頭のサルトルが、何故これまでの立場を翻しマルクス主義へと接近したのか、その理由を思想内在的に探求したい。
 その際、本報告では「倫理学から政治思想へ」という視角を取ることとする。サルトルは『存在と無』の末尾で、自身の次の著作として倫理学を約束するが、その企図は結局放棄されることとなった。死後3年を経て膨大な草稿が『倫理学ノート』(執筆1947-8年)として刊行されるが、そこには倫理学という営為の自己矛盾が集約的に表現されているのである。では文学作品の他、サルトルは、倫理学を書く代わりに何を書いたのか。それは、「政治思想」と「評伝」である。多くの時事評論に加えて、「唯物論と革命」(46年)「共産主義者と平和」(52年)等で論じられた政治思想、就中マルクス主義との関係は、大著『弁証法的理性批判』(60年)として結実する。同時にサルトルは、ボードレール、マラルメ、ジュネ等のアンガージュマンを執拗に跡づけ、こちら側の歩みもまた大著『家の馬鹿息子』(ギュスターヴ・フロベール論)を形づくっていった。
 これは何故なのか。何故、倫理学は放棄され、政治思想と評伝が書かれたのか。思うにそれは、サルトル自身が『倫理学ノート』で探求した倫理的要請からである。倫理を裏切らないためには、倫理学を放棄し、政治思想ないし評伝が書かれなければならない。しかもそれらは、極端なボリュームの大著として現れるのである。
 こうした視角の下、本報告は次の3つの問題を考察する。①倫理と倫理学の違いはどこにあるのか。何故倫理学は、政治思想と評伝へと転化すべきなのか。②サルトルの政治思想がマルクス主義によって方向づけられるのは何故か。何故マルクス主義は、我々の時代の乗り越え不可能な哲学なのか。③サルトルの政治思想と評伝が、極端な大著となる理由は何か。そこには何らかの必然性が認められるのか。
 これらの問いを考察することによって、本報告では最後に、サルトル1952年の政治思想を「ウルトラ・ボルシェヴィズム」とする判断の妥当性について考察を加えたい。
堀田新五郎(奈良県立大学准教授)
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第31回研究例会のお知らせ・発表要旨 [研究例会のお知らせ]

●研究例会のお知らせ
 先にお知らせした第31回研究例会ですが、発表者お二方の発表要旨がそろいましたので、あらためて以下の通りご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時:12月7日(土) 13:30~17:00
会場:関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクウェア大阪 13階・11号室(※)
アクセスマップ(http://www.kwansei.ac.jp/kg_hub/access/index.html)

受付開始  13:00
研究発表1 13:30~14:30
「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学大学院)
司会:鈴木正道(法政大学)
(要旨は下記)

研究発表2 14:40~15:40
「ラカンの/とサルトル」
発表者:番場 寛(大谷大学)
司 会:澤田直(立教大学)

合 評 会 16:00~16:50
清 眞人 『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』 (藤原書店、2012年)
司会:生方淳子(国士舘大学)

懇 親 会  17:30 (会場近くの店を予定しております。)

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

発表要旨

赤阪辰太郎「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
 本発表は、サルトルが1940年代の著作において、読書行為を問題とする際に用いるrecul esthéthique概念を中心的に扱う。発表者は、この概念が読者と文学作品とのあいだにあらかじめ設定される距離を意味するのではなく、距離の発生を問題化する際に導入された概念である、と主張する。
 上の主張を、以下の2つの観点からの考察を通じて裏付けする。①読書行為における共感sympathieについてのサルトルの議論を参照する。発表者は、サルトルのいう共感を、作品の信憑という水準から、作品から適切な距離をとりながら作品について評価を下しうる立場へと移り変わることで到達できるものであると主張するだろう。この移行の過程にrecul esthéthiqueが関連する。②『存在と無』において用いられるrecul néantisantが静的な距離ではなく、距離を発生させるという意味で動的な概念であることを示し、両概念の共通点と違いを明確化する。そのなかで、サルトルがreculという語にもたせた含意を明らかにする。
 発表の後半では、戦前の著作である『想像力の問題』と戦後に刊行された『文学とは何か』に見られる論述の差異に着目し、読書行為の構造についての共通点を指摘すると同時に、読書を通じて出会う対象について差異があることを示し、サルトルの読書行為論の発展の過程を辿る。

番場寛「ラカンと/のサルトル」
 本発表は、ラカンがサルトルからいかに理論的影響を受けながらも、共にフロイトの精神分析という点では、むしろ相容れない二人の理論的特徴を際立たせることである。
 サルトルの唱える「実存的精神分析」とは「フロイト的無意識」を認めないと断言しているという点でいわゆる精神分析とは矛盾しているがそれにも拘わらず、かれがフロイト理論に執着するのはなぜなのであろうか?
 サルトルは『情動論粗描』においての結論は、意識のうちにはすでに象徴するものと象徴されるもの、シニフィアンとシニフィエが含まれているとみなし、それを「了解compréhension」と呼び、「心的因果性」を完全に否定するのだが、ラカンにおいてはその因果性こそ理論の支柱をなす。
 サルトルは依頼された仕事とはいえ『フロイト』というシナリオにおいては、登場人物に、「抑圧」や「転移」などフロイトの基本概念を忠実に言わせていることに驚かされる。
 フロイトを引き継いだラカン理論において重要な概念が「転移」であるが、分析において被分析者が自己の過去の秘密を知る過程においてもサルトルは、それは「無意識」ではないと主張する。
 「実存的精神分析」の実践の一つとして『家の馬鹿息子』を読むことができるが、そこにおいてもフロイト的「無意識的抑圧」という概念ではなく、「意図的」な「選択」という概念によって説明している。また、この著作においては、サルトル自身がラカンに言及している箇所が見られる。サルトルが引き合いに出している箇所は現在のところ発見できていないが、彼がラカンを意識していたことは分かる。
 では、ラカンはサルトルの理論をどのように理解し、それをどのように自らのものとし、さらにそれを元に自己の理論を発展させていったのかを、「狂気に対する考え方」「眼差しと眼」「不安の原因」「欲望」「二つの存在欠如」という点に注目して、二人の理論の類似点と差異を明らかにしたい。
ラカンはサルトルの「眼差しと目の分裂」は認めながらも、自分を見つめている眼差しとは主体自身の無意識であると主張し、その無意識にあるものを「対象a」と設定する。
 サルトルにおいては「存在欠如」が「欲望」の源泉とされたが、「人間の欲望は<他者Autre>の欲望である」と断言するラカンにとっての「他者」とは「シニフィアンの宝庫」である。この両者の「他者」概念の違いは「主体」概念の違いにおいても顕著である。「あるシニフィアンはもう一つの別のシニフィアンに対し主体を代理表象するreprésenter」と定義するラカンにとって、主体とはシニフィアンの連鎖の効果として生じる存在なのである。
「無」を前にした実存が覚えるものとして「不安」を捉えたのに対し、ラカンにとっては、「欠如」の意識である「欲望」にとっての必要条件である「欠如」がなくなることが「不安」を引き起こすという論理である。ラカンによれば、その不安を引き起こす対象は「モノ La Chose」 であり、「対象a」とも呼ばれるものである。 
 サルトルが『存在と無』で「欠如したもの」としての「ねばねばしたものle visqueux」にラカンの「対象a」の概念に繋がる側面も見ることができるように思える。
 また、デリダ『真理の配達人』でのラカンの精神分析の批判は、サルトルが一貫して否定し続けた「フロイト的無意識」への批判とも繋がるのではないかと思える。
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日本サルトル学会会報第38号 [研究例会のお知らせ]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°38 Novembre 2013
日本サルトル学会会報              第38号 2013年 11月

●研究例会のお知らせ

 第31回研究例会が以下の通り開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時:12月7日(土) 13:30~17:00
会場:関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクウェア大阪 13階・11号室(※)
アクセスマップ(http://www.kwansei.ac.jp/kg_hub/access/index.html)

受付開始  13:00
研究発表1 13:30~14:30
「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学大学院)
司会:鈴木正道(法政大学)
(要旨は下記)

研究発表2 14:40~15:40
「ラカンの/とサルトル」
発表者:番場 寛(大谷大学)
司 会:澤田直(立教大学)

合 評 会 16:00~16:50
清 眞人 『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』 (藤原書店、2012年)
司会:生方淳子(国士舘大学)

懇 親 会  17:30 (会場近くの店を予定しております。)

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

発表要旨

赤阪辰太郎「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」

 本発表は、サルトルが1940年代の著作において、読書行為を問題とする際に用いるrecul esthéthique概念を中心的に扱う。発表者は、この概念が読者と文学作品とのあいだにあらかじめ設定される距離を意味するのではなく、距離の発生を問題化する際に導入された概念である、と主張する。
 上の主張を、以下の2つの観点からの考察を通じて裏付けする。①読書行為における共感sympathieについてのサルトルの議論を参照する。発表者は、サルトルのいう共感を、作品の信憑という水準から、作品から適切な距離をとりながら作品について評価を下しうる立場へと移り変わることで到達できるものであると主張するだろう。この移行の過程にrecul esthéthiqueが関連する。②『存在と無』において用いられるrecul néantisantが静的な距離ではなく、距離を発生させるという意味で動的な概念であることを示し、両概念の共通点と違いを明確化する。そのなかで、サルトルがreculという語にもたせた含意を明らかにする。
 発表の後半では、戦前の著作である『想像力の問題』と戦後に刊行された『文学とは何か』に見られる論述の差異に着目し、読書行為の構造についての共通点を指摘すると同時に、読書を通じて出会う対象について差異があることを示し、サルトルの読書行為論の発展の過程を辿る。

●GES国際サルトル学会から発表公募のお知らせ

Groupe d’Etudes Sartriennesから以下の要領で発表の公募がありましたので、お知らせします。関心のある方は奮ってご応募ください。テーマの詳細は日本サルトル学会のホームページに掲載します。

Appel à communications

Le Groupe d’Études Sartriennes se propose, pour son colloque annuel qui aura lieu les 20 et 21 juin 2014 à la Sorbonne, d’organiser une série de conférences sur les thèmes suivants :

1. Philosophie : Le rôle de l’exemple dans la pensée de Sartre
2. Littérature : Sartre, un théâtre en situation(s)
3. Varia

Les propositions de communication sont à faire parvenir à l’un des secrétaires du GES pour le 31 janvier 2014. Les communications ne devront pas excéder 30 mn.

Prière de faire parvenir vos propositions de communication (titre et résumé en un paragraphe) à l’adresse électronique personnelle des secrétaires, et non à l’adresse du GES. En cas d’envoi postal, merci de les adresser à Florence Caeymaex.

Président du GES :
Michel Contat

Secrétariat du GES :
Alexis Chabot

Florence Caeymaex )
7, Pl. du XX août (A1) 4000 Liège (Belgique)

●理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、ajes.office★gmail.com(★を半角の@に直してください)までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

(※)先に郵送された紙版の会報では「関西学院大学」が「関西大学」になっていました。お詫びして訂正いたします。
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第31回研究例会のお知らせ+発表要旨 [研究例会のお知らせ]

次回研究例会のお知らせ

 第31回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時 : 7月6日(土) 14:00~17:00

会場 : 立教大学 池袋キャンパス 5号館 5210教室


研究発表1 「サルトル/ファノン試論」

発表者:中村隆之(大東文化大学)

司会:鈴木正道(法政大学)





研究発表2 「サルトルの思想と生における「遊戯」について 」

発表者:関 大聡(東京大学大学院)

司会:翠川博之(東北大学)



研究発表3 「サルトルとバタイユ ―不可能な交わりをめぐってー」  

発表者:岩野卓司(明治大学)

 司会:澤田直

総会:17:30
懇親会 18:00


以下、各発表者の要旨を掲載しておきます。



「サルトル/ファノン試論」
中村隆之(大東文化大学)

 この発表では、最初に、サルトルの状況論を手がかりに、サルトルの反植民地主義の戦いを、主にカリブ・アフリカの文脈から振り返る。
 そのうえで、今度はファノンに注目する。マルティニックに生まれてアルジェリア解放闘争をFLN側の人間として闘うファノンは、サルトルの思想と行動をどう見たのか。反対にサルトルはファノンをどう評価したのか。
 脱植民地化運動を背景にした両者の関係性を考えてみたい。



「サルトルの思想と生における「遊戯」について」
関 大聡(東京大学大学院)

 必ずしも思想として彫琢されていないように思えるが、しかし、サルトルの生を理解す るために重要なキーフレーズとして「遊戯」を提示すること、それが今発表の本旨である。 サルトルの思想のなかで「遊戯」とはどのような役割を果たしているだろう。代表的な 例としては『存在と無』における記述がある。スポーツを例に挙げての印象的な記述に沿って、それが「為す」ことのうちでもきわめて脱我有化的傾向が強いことを確認しつつも、「やはり、根本的に」それが我有化的傾向から免れえない、という曖昧な結論を下す。そ してそれ以後「遊戯」というものが俎上に載せられる機会はなくなるように思われる。そ のため「遊戯」とはサルトルの現象学的分析の一例にすぎず、特権的なものたりえないよ うにも思われるが、果たしてそうだろうか。
 当時の思索、とりわけ『奇妙な戦争日記』を読み進めるうちに、「遊戯」とは当時の、そ してそれまでのサルトルの思索において決定的に重要な役割を果たしており、きわめて倫理的な問題系のなかで問い直されるべきものだということが露わになる。そこには、ボー ヴォワールの「かつての我々の関心は、遊戯やごまかしや嘘によって、状況と距離をとる ことにあったからだ」(『事物の力』)という回想にみられる自己欺瞞や虚偽意識への反省対 象としてではなく、むしろ「くそ真面目」に対峙するための決定的な装置としての「遊戯」 の新たな層がうかがえるはずである。
 また、『存在と無』及び『奇妙な戦争日記』において「遊戯」に属するあるいは類似する ものとされた属性は、創作行為や始原性、それに若さといったものであるが、それらの諸属性はサルトルの後の思索においても再度現れることが確認できる(『文学とは何か』『弁 証法的理性批判』及び多くの伝記的作品群)。それはつまり、遊戯がすがたを変えながらも、 常にサルトルにとって一つの軸でありつづけた、ということを証立てるものに他ならない。 これまでサルトルにおいて jeu, jouer といえば「演技」「賭け」を意味することがもっぱらであって、それがまた「遊び」をも意味するという側面が看過されてきたように思われる。本発表はそれを補うものだが、他方、それら三つの jeu は相互に如何なる関係を持つの か、という問いかけもさらに生じてこよう。この問いに全面的に応答することは、まとまった一つ発表のかたちでは難しく、今後の課題としてすすめていきたいと思うが、そのた めの予備的考察も念頭に置いている。
 これらの検討は、サルトルを思想史における「遊戯」の系譜に組み込むことを可能にし てくれる。そのための準備作業として、サルトルが言及しているフリードリヒ・シラーの『人間の美的教育について』や、いくつかの箇所にサルトルへの言及が見られる西村清和 の『遊びの現象学』に依拠しつつ、広い展望のもとでサルトルの論を捉えることを目指す。



「サルトルとバタイユ ―――不可能な交わりをめぐって」
岩野卓司(明治大学)

 ブランショの小説『アミナダブ』をサルトルはカフカの『城』に似た幻想文学と捉え解読を試みるのだが、その根底にあるのは「表」と「裏」の二元論である。幻想文学が示しているのは、「裏側」の「あべこべの世界」であり、それをひっくり返せば「表側」の日常の世界である。それに対し、バタイユは『有罪者』の中で、『アミナダブ』の世界を日常の世界を反転したものとはとらえずに、「夜」の神秘経験としてそのまま肯定している。この差は何を表わしているのであろうか。
 この違いは「新しい神秘家」での、サルトルによるバタイユ批判にも現われている。この批判にはいくつかの論点があるが、本稿では「無」について検討していく。バタイユは恍惚や笑いという内的経験を語るとき、「非-知」、「非―意味」、「無」を問題にする。『内的経験』では、ブランショの助言のみならずその小説『謎の男トマ』も援用されており、これらの問題系にはブランショも関係しているので、彼もまた槍玉に上がっている。サルトルはバタイユが「非-知」や「無」を実体化していると論難するのだが、それは「非-知」や「無」が思考や知や存在の側にあり、その意味で「虚妄な実体」だからだ。こういったサルトルの批判が依拠しているのは、『存在と無』の中で引かれている「存在は存在し、無は存在しない」というパルメニデス以来のテーゼである。ただ、バタイユが述べようとしたことは、「存在」でも「無」でもなければ「存在」でも「無」でもあるような何か、知でもなければ非-知でもなく知でもあれば非-知でもある何か――後にブランショは「中性的」という言葉をあてている――なのだ。これをサルトルは『アミナダブ』同様に二元論で割り切ろうとしている。
 どうしてこういった距離が生じるのだろうか。フランソワ・ルエットが『サルトルの沈黙』(増補版)で説明している、サルトル自身のかつての自分に対する「自己批判」という解釈は説得力のあるものだろう。『嘔吐』と『内的経験』の間には、「瞬間」、「沈黙」、「絶対的なものの魅惑」、「木々を通しての神秘体験」といった類似があるだろう。この意味で、かつてのサルトルとバタイユは似た者どうしであったのだろう。しかし、こういった近さの中にはすでに遠さがやどっていないのだろうか。『嘔吐』でロカンタンが感じるのは「存在」へのむかつきであり、むしろどうにも逃れられない「存在」への固執である。それは、「存在」の意味がずらされ、「無」と区別できなくするような、ある意味で「存在」の枠組みを破壊するような考え方ではない。サルトルがバタイユに感じたのは、かつての自分への単なる批判だけでなく、存在への嘔吐感すらも壊しかねない自己破壊的な何かではなかったのではないのだろうか。存在の枠組みをずらしたり超え出たりしようとするものへの自己防衛だったのではないのだろうか。
 『嘔吐』と『内的経験』の近くて遠い関係は、「余計なもの」と「最後の人」との違いにも見出せる。『嘔吐』は「余計なもの」の物語とも言える。働かないでぶらぶらしているロカンタンは、社会からすれば「余計なもの」であり、「余計なもの」に関して、サルトルはさらに深く「存在」のレヴェルまで掘り下げている。存在に理由のないことを発見したロカンタンは、木々、柵、小石などの存在が「余計なもの」であるように感じてくるのだ。『内的経験』を執筆しているバタイユも孤独を味わっている。彼は書くことで他者に呼びかけて「交流」しようとするが、また同時に孤独にさいなまれている。この孤独は、「最後の人」かどうかというあり方を前提にしている。内的経験の孤独は、あらゆる他者が不在となった「最後の人」であるかどうかという問いの試練を経たものであり、他者との「交流」の考えもこの問いの上に成立している。『嘔吐』のロカンタンの「余計なもの」という考えよりも、「最後の人」であるかどうかという問いの方が、他者が完全に消失する危険性にさらされているという点で、掘り下げかたが徹底しているのではないのだろうか。そうだからバタイユのテクストを彩っているのは、「極点」、「可能事の極限」、「可能な限り遠くまでいくこと」、「既知の地平を越えていくこと」という、極端さを指し示す言葉の群れである。バタイユは存在の伝統的な枠組みを破壊しかねないぐらい思考を極端に推し進めるとともに、至高な孤独を「最後の人」かどうかの次元にまで徹底するのだ。こういった点を考慮にいれれば、『嘔吐』と『内的経験』の近さには、ここでも既に遠さが孕まれていると言えるだろう。
 しかし、極限にまで行かないことは、サルトルの思想の多様さの源泉ではないのだろうか。小説、劇作、現象学哲学、ヒューマニズムとアンガージュマンの理論、文芸批評、社会哲学など、彼は時代の要請に応じて多岐の分野で多様な思想を展開している。また、予告し書き始めて思想を展開しても、最後までやりとげてない仕事も多い。徹底しないで未完に終わることが多様なかたちで展開していく彼の思想を形作っているのではないのだろうか。この多様な書き手としてのサルトルに対し、バタイユはまったく理解を示さない。『クリティック』誌に発表された論文「実存主義」では、バタイユはサルトルのことを「最高度に」知性の勝った男で「純粋に感覚的なもの」に対して嫌悪感を示す傾向があると考えている。知性の人サルトルの実存主義は、「純粋に感覚的なもの」、すなわち内的経験や「非-知」の排除のうえに成立しており、知の極限への冒険もなく相変わらず知の領域に留まっている。しかしこの知を注意深く調べてみると、この実存の哲学者は知の領域のなかでいくつもの分野を移動しながら豊かな世界を生み出していることがわかる。バタイユは徹底しないことで産みだされる複数の多様な可能性について完全に盲目になっているのではないのだろうか。
サルトルとバタイユ。彼らはある種の近さを持った同時代の二人であるが、その近さにはすでに遠さが孕まれている。後者は、極点に向けて問いを徹底するし、前者は、究極までは行かずに知の間を絶えず移動する者である。彼らの近さには本質的にお互いを遠ざけてしまうような何かがあるのだ。それでは、バタイユの徹底とサルトルの多様さ――これを現代のわれわれはどう捉えていけばよいのであろうか。サルトルとバタイユの不可能な交わり、あるいは交わりの不可能性がもたらしてくれる可能性をどう探っていけばいいのであろうか。

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第31回研究例会のお知らせ [研究例会のお知らせ]

次回研究例会のお知らせ

 第31回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時 : 7月6日(土) 14:00~17:00

会場 : 立教大学 池袋キャンパス 5号館 5210教室


研究発表1 「サルトル/ファノン試論」

発表者:中村隆之(大東文化大学)

司会:鈴木正道(法政大学)





研究発表2 「サルトルの思想と生における「遊戯」について 」

発表者:関 大聡(東京大学大学院)

司会:翠川博之(東北大学)



研究発表3 「サルトルとバタイユ ―不可能な交わりをめぐってー」  

発表者:岩野卓司(明治大学)

 司会:澤田直

総会:17:30
懇親会 18:00
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