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2019年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2019)参加報告 [サルトル関連情報]

2019年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2019)参加報告
関大聡

 2019年度の国際サルトル学会(GES)のシンポジウムがパリ・ソルボンヌ大学で開催された(6月21日、22日)。これまでの学会の模様については本会報でも二度報告が掲載されており、発表者もある程度重複しているので、興味ある方は比べてみるとよいかもしれない(2017年度2018年度)。今回の学会テーマとして掲げられたのは「ボーヴォワール」で、これは2018年5月にガリマール社からシモーヌ・ド・ボーヴォワールの回想録がプレイヤッド版全集として刊行されたことを受けたものである。結果として、14の発表(アレクシ・シャボーは発表キャンセル)のうち、半数以上がボーヴォワールに関するものとなった。各発表の仏語題など詳細については公式ウェブサイトを参照されたい(GES公式プログラム)。
 ボーヴォワール関連の発表から紹介しておこう。まず、サルトルの恋人だったシモーヌ・ジョリヴェとシモーヌ・ド・ボーヴォワールという「二人のシモーヌ」が、作品のなかでどう描かれているか、またシモーヌ同士の関係はどういったものだったかについての紹介(ジャック・ルカルム)。初期サルトルの著作における「単独者」の表象と実生活におけるボーヴォワールとのカップル関係の間に横たわるある種の逆説を考察するもの(エステル・ドゥムーラン)。『存在と無』と『第二の性』における愛の現象学的・倫理的分析についての比較(ガブリエル・マエウ)。戦後のサルトルとボーヴォワールによるアメリカ体験と、当地での人種差別問題の発見についての発表(セリーヌ・レオン)。プレイヤッド版『回想録』がラジオ・テレビ・新聞・雑誌などでどう受容されたか、その特徴を概観するもの(フランソワーズ・シモーネ・トゥナン)。サルトルとボーヴォワールにおける疎外論の深化(社会科学と精神分析の連結)の先駆者として、ラカンの影響を検討したもの(アレクサンドル・フェロン)。「実存主義者」に対するキリスト教徒や共産主義者からの批判に対して、『現代』誌の主要な執筆者――サルトル、ボーヴォワール、メルロ=ポンティ――がどのように応答したか、そこに「共通のプログラム」は存在するのか、という議論(パトリス・ヴィベール)。『存在と無』のハイキングの描写を、サルトルとボーヴォワールが実際に好んで行っていたハイキング時の関係性と重ね合わせながら読み込んだ発表(ヤン・ハメル)。
 以上の八つの発表のうち、エステル・ドゥムーランの発表「単独者から文学的カップルへ」、およびフランソワーズ・シモーネ=トゥナンの発表「ボーヴォワールのプレイヤッド版『回想録』の受容」に関しては、内容に少し立ち入っておこう。ドゥムーランはソルボンヌ大学でサルトル-ボーヴォワールの文学的カップルについての博士論文を用意している若手研究者で、2017年のGESでもサルトルと同性愛嫌悪の問題に関して発表を行なっていた(『サルトル研究誌』22号に掲載)。今回の発表は、サルトルが「単独者」の理論を構想した20年代後半が、まさにボーヴォワールとの「必然的」恋愛関係を結ぶ時期と重なっているという逆説から出発して、文学における単独者(あるいは独身者)とカップルの関係を考察するものである。ジャン・ボリーの『フランスの独身者』(1976年)が論じるように、19世紀後半以降ある種の作家(フローベール、ゴンクール兄弟、ユイスマンスなど)には独身性と芸術性を、あるいは単独性と創造性を結び付ける連想が存在しており、それは(ここで問題になるのが男性作家であるからには)女性の排除を伴うものである。ドゥムーランはこうした発想が初期のサルトルの著作にもみられるとして、そこにニーチェとその超人思想からの影響を読みつつ、同時にサルトルとニーチェの女性をめぐる思考がどの点で違うかを検討する。こうした単独性=創造性の連結は、サルトルとボーヴォワールがカップルを形成するときにもその在り方に影響を及ぼさずにはいなかった、というのが彼女の主張である。その影響は大まかに言って、1) お互いの孤独の尊重、2) 共同で書く、という実践の拒否、3) ルイ・アラゴンとエルザ・トリオレが体現するような相互に賞賛しあうカップル像の拒否、に大別される。以上が発表の要旨であり、彼女はこの論の帰結にまで考察を進めてなかったように思うが、これは突き詰めて考えれば、二人の契約的恋愛関係の根本にある透明性や融合的な在り方をめぐる神話を崩すものともなるだろう。その点も含めいくつか議論を呼びそうにも思われるが、一般に無性的な論として受け取られる「単独者」の思想をジェンダー化させる、という観点はとりわけ刺激的に思われた。
 フランソワーズ・シモーネ=トゥナンは、日記、書簡、自伝、回想など、自己に関するエクリチュールを専門とする研究者である。2018年のプレイヤッド版『回想録』の刊行はラジオ・テレビ・新聞・雑誌などでも数多く取り上げられたが、量は必ずしも質を保証するものではない、と彼女は言う。記事の表題からみていくと、「偉大な回想録作家」というような紋切り型的紹介や、作品タイトルをもじった名前(「社会参加した女性の回想」など)、フェミニストとしての側面を誇張したもの、数少ない女性作家としてのプレイヤッド版の刊行という象徴的威光を強調したもの、などが並ぶ。内容に立ち入ってみると、その多くは刊行当時の状況(とりわけ#MeToo)に結びつけ、また回想録それ自体というよりも、全集の編集者でありボーヴォワールの養女シルヴィー・ル・ボン・ド・ボーヴォワールへのインタビューに基づいて構成されたものだという。とはいえ特筆すべきものもある。興味深い証言・発言者としてはAlice Ferney, Annie Ernaux, Catherine Millet, Camille Laurensが、また際立って批判的・攻撃的な評者としてはCharles Dantzig, Christophe Mercier, Jean-Paul Gavard-Perretが挙げられた。批判はもっぱら彼女の文体面での凡庸さや形式的実験の不在を嘆き、フェミニストとしてはサルトルとの間に対等と言いうる関係があるのかと訝り、そして回想では語られないが彼女(ら)によって苦しめられた人々がいるという道徳的な批判を投げかける。しかし好意的にせよ批判的にせよ、自伝・回想というジャンルに即して今回の回想録を考察する試み、たとえば2010年に刊行されたサルトルのプレイヤッド版自伝との比較などは行なわれず、二人の自伝的企ての生成についてはより詳細な検討が必要であろうと締めくくられた。そうした考察が必要なのは論を俟たない。とはいえ同時に、刊行当時の状況、要するに#MeTooなどとの関連はもっと真っ向から問われてもよかったのではないか。「ボーヴォワールなら#MeTooについて何と言ったと思いますか?」と言った類の問いかけが微笑を誘うのは仕方ないにしても、L’Obs誌に「ボーヴォワールから#MeTooまで」(2018年2月)という特集が組まれ、またパリ第7大学で開かれたボーヴォワールをめぐる三日間のシンポジウム(同年10月11-13日)でもこの点が数多く取り沙汰されるなど、やはり無視できない視角ではないだろうか。
二日目の発表は特にテーマを定めず、六つの自由発表がなされた。『存在と無』における憑依(hantise)の主題を、デリダの憑在論(hantologie)的視点から解釈した発表(フェルナンダ・アルト)。サルトルと同時代の神経生物学者で、『イマジネール』や『奇妙な戦争手帖』などで名が挙げられているラウル・ムルグ(Raoul Mourgue)の著書『幻覚の神経生物学』(1932)と、サルトルの知覚と想像力をめぐる議論を対照させた論(フレデリック・シュネーベルジェ)。アイデンティティ危機に瀕した思春期児童による詩的反逆児(ランボー、ロートレアモン)への自己同一化という観点から『自由への道』の登場人物フィリップの道程を検討したもの(クラウディア・ブリアーヌ)。バタイユの思考を介しつつサルトルとフーコーにおける侵犯の思考を比較する論(エヴァ・アブアイ)。政治哲学における(たとえば民衆の)表象の問題を、サルトルの『弁証法的理性批判』から検討し、クロード・ルフォールなどの民主制論と対比させるもの(マティアス・リーヴェンス)。サルトルの組織集団(groupe organisé)論の可能性についての検討(クセノフォン・テネザキス)。
 個別の発表を紹介する代わりに、いくつか所見を記しておこう。まず、比較的若い世代による発表が多い点。アルトは2017年に『サルトルの憑在論』というテーマでパリ1大学に博士論文を提出している。ブリアーヌは2018年に博士論文に基づく著書『群衆のなかの思春期:アラゴン、ニザン、サルトル』を刊行したばかりである(本発表はそれに基づく)。アブアイは現在パリ・ソルボンヌ大学でサルトルにおける救済をテーマにした博士論文の準備中。テネザキスもパリ東大学でサルトル、フーコー、ガタリ、ドゥルーズにおける集団と自由についての博士論文を準備中である。これら大学院生の発表を除けば、精神医学と政治学という、必ずしもサルトル研究の専門家ではない視点からの発表が入ったことになる。
 そこから世代差をめぐる問いかけも生ずる。所謂大御所世代と大学院生・ポスドクによる発表が並ぶと、サルトルを読むときの資料体も違えば、アプローチも異なることに気付かされる。そこには長所もあれば課題と思しき点もあるだろう。一方で、サルトルに関する新しいアプローチの導入がサルトル研究に活性化をもたらすことは疑いなく、学会としてもその傾向を歓迎する様子がうかがわれる。他方で、先の点と矛盾するようだが、若手が発表の主軸を担うことには多少の懸念もある。最近ではフランスの博士課程の学生もかなり業績を積みながら博士論文の提出を目指すものらしく、今回発表した若手の別の発表を私はあちらこちらで一度ならず見たことがある。そうすると、発表内容について多少なりとも既視感が生ずるのは避けがたい。もちろんそれだけに由来するわけではないが、今回、やや停滞した雰囲気を感じたのは私だけではないと思う。
 こうした傾向の固定化を避けるためには――また現状では哲学系が多いので文学系の発表の割合を増やすためには――、情報発信の仕方を考えていくべきだし、外部からの発表を受け付けやすくするためにテーマの明確化を図ることも有効だろう。現に総会ではこれらの点が主な議題となった。報告者としては、フランス外からの発表者が例年一定数いることもこの学会の魅力であり、議論を豊かにするものだと強調しておきたい。その点で言うと、GESには三年連続で日本からの発表者がいたのだが、今年はおらず、少し残念だった。ハードルは決して低くないにせよ、ここで議論を交わすことで得られるものは少なくない。これからも発表の機会が広く共有されることを期待しているし、そうした希望を込めて、今回の報告文を終えたいと思う。(報告者:関大聡)
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