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日本サルトル学会会報第68号 [会報]

研究例会のご報告

 第47回研究例会を下記の通り、オンラインで開催しましたのでご報告いたします。
 今回の研究例会では、昨年(2020年)に法政大学出版局より刊行された、生方淳子著、ミシェル・コンタ序『戦場の哲学 ―「存在と無」に見るサルトルのレジスタンス』の合評会を、ハイデガー研究会との共催でおこないました。以下、報告文を掲載いたします。

第47回研究例会

日時:2021年7月10日(土) 15 :00 ~ 17 :50
場所: zoom によるオンライン開催

    司会:   谷口 佳津宏(南山大学、日本サルトル学会)
    発表者:  生方 淳子(国士舘大学、日本サルトル学会、著者)
    特定質問者:齋藤 元紀(高千穂大学、ハイデガー研究会)
          根木 昭英(獨協大学、日本サルトル学会)
          永野 潤(東京都立大学ほか、日本サルトル学会)

生方淳子著、ミシェル・コンタ序『戦場の哲学 ―「存在と無」に見るサルトルのレジスタンス』合評会 総評(司会者 谷口佳津宏)
 生方淳子氏がこの度公刊された『戦場の哲学 ―「存在と無」に見るサルトルのレジスタンス』は、サルトル研究の第一人者ミシェル・コンタ氏による2015年4月のニューヨーク大学における講演(本邦未紹介)を丁寧な解説を付したうえで翻訳紹介するとともに、その講演における「レジスタンスの書としての『存在と無』」という視点をふまえつつ、『存在と無』を対ナチズム,対ドイツ哲学(カント・ヘーゲル・フッサール・ハイデガー)という二つの戦線を舞台とした「戦場の哲学」として読むという統一的な視点から、これと真正面から取り組んだ本格的な論考であり、今後、『存在と無』を語る際には無視すること能わざる書物である。本合評会は、まず著者生方氏自身によるパワーポイントを使っての委細を尽くした本書の内容紹介の後、三人の特定質問者の方々によるそれぞれの持ち味を生かした質問がなされ(詳細は以下参照)、その後で、それらの質問に生方氏がひとつずつ答えるという仕方で行なわれたが、司会の不手際もあり、議論を深めるだけの時間が足りなかった点が何としても惜しまれる。が、いずれにしても、本書のような重厚な内容を備えた書については、短い時間で論評するということは到底不可能であるのだから、今後も本書に関する議論を継続する新たな機会が見出されることを切に希望する。


著者による要約紹介(発表者 生方淳子) 発表資料のPDF版 https://bit.ly/3r6jwgh
 まず反省点だが、500頁近い内容を1時間にまとめようとしたものの、簡略化しきれず大幅に予定を超過してしまった。そのため、3人の特定質問者とのやり取りが十分にできず、他の参加者の方々から意見を聴く時間もなくなり、残念であったし申し訳なかった。
 発表の流れとしては、まず執筆の動機と経緯に簡単に触れた後、「レジスタンス」というキーワードの複数の意味に沿って本書の骨子を紹介した。すなわち、ミシェル・コンタの「『存在と無』は対独レジスタンスの書だ」という読みを出発点とし、それを発展させて、第二次世界大戦下で書かれたこの著書がいかにナチズムに対して真逆の人間観を突きつけ「存在論的平等」の概念を打ち出した哲学と言えるかを探ったということ、同時にこの意識の学がいかにカント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガーへの挑戦でありそれらの換骨奪胎となっているかを具体的に検証したということ、これらを断片的ながら可能な範囲で説明した。その上でサルトル哲学は自らの時代社会に向き合い戦う哲学でもあると主張し、21世紀の今、世界を脅かす幾多の問題と自由な意識を脅かすドクサを前にこの哲学が私たちにいかなるレジスタンスの可能性を開いてくれるかという問いを改めて投げかけた。
 特定質問者の齋藤元紀氏からは、ドイツ哲学およびレヴィナスとの関わりで筆者が力及ばなかった点や疑問が残っていた点について意義深いご教示を頂いた。「運動」概念や時間論の扱いが不十分だったことに気づかされたほか、取り上げなかったsubjectivité 概念についても氏の質問を受け、無視できない多義的な揺れがあることをその後確認できた。
 根木昭英氏からは、カント的規範性、authenticité、回心そして死をめぐって、著書で論じ尽せなかった点について発展的考察を提示して頂いた。特に「死よりも拷問に耐えられるかどうかがより深刻だった」という指摘は正鵠を射ており、より踏み込んで論じるべきだったと思う。
 永野潤氏からは、終章で「革命的暴力」の問題に関連し、サリドマイド児殺害事件に関するサルトルの考察に触れたことについて、それらを同一線上には置けないとの指摘を受けた。大義による「正当化」と可知性の追求による「理解」を区別する目的で補足的に言及したのだが、障害児への暴力という問題はたしかに戦争や革命における暴力とは異質の問題である。論じるなら稿を改め別の文脈で真正面から扱うべきだろう。
 以上、三人の方々からの貴重なご指摘を確と受け止め、より深めて次の仕事につなげたい。


特定質問1 サルトル『存在と無』におけるハイデガーとの対決(齋藤元紀)
 本書は、ミシェル・コンタの洞察を引き受けつつ、サルトルの「意識の現象学」を「レジスタンス」として捉え、『存在と無』ならびにその成立過程におけるヘーゲル、フッサール、ハイデガーとの関連を緻密に考察している。評者は、とくにサルトルとハイデガーとの関係の考察に焦点をあて、以下四つの疑問点を提起した。
 第一は、意識と現存在の関係である。第三部第一章の指摘のとおり、サルトルはレヴィナスとコルバンからの強い影響下で「フッサールとハイデガーの連続性」を引き受けたが、レヴィナスはこの連続性のうちに「活動性」概念の拡張と移行を見てとってもいた。サルトルも「《中に-存在する》」ことに「運動」の意味を見いだしたと本書は指摘しているが (306頁)、その内実はどのようなものか。
 第二は、意識の主体性の身分である。本書では、サルトルが意識と現存在の間に「交換可能な要素」を見いだすのみならず、現存在の了解における意識の欠如を批判し、了解を意識へと置き換えるという「二面作戦」を講じたことが見事に究明されている(320、376頁)。ところが他方、こうした交換可能性を認めるとすれば、現存在にはなお「意識」ないし「主体性」の概念が残存していることになるが、翻って、たとえ「非定立的」とされるにせよ、サルトルの「意識」にもなお「主体性」の概念が残存していると考えられることになる。この場合の主体性は、いかなる身分を有しているのか。
 第三は、即自に対する本質直観の意義である。本書は、サルトルが人間以外の存在を即自へと狭め、「環境や多様な生命」への責任を不問とした点を批判しつつ、その克服の可能性を探っている(453-456頁)。後期ハイデガーの技術批判とも一脈通じる優れた洞察といってよいが、そのさい「即自を本質直観によって捉え直」す (454頁) という場合の「本質直観」はどのような役割において考えられているのか。
 第四は、時間性の重心の相違である。ハイデガーの時間論が将来に優位を置くのに対して、サルトルは現在を強調している。双方ともに、時間の脱自性とその統一を理論化している点では同一と言えるが(389頁)、『存在と時間』以降ハイデガーは、「現在」をさらに批判的に問題化していく方向性へ進んだ。サルトルは現在を強調することで、そこにいかなる含意を込めたのか。


特定質問2(根木昭英)
 根木よりは、おもに以下五点について質問させていただいた。1)サルトルの60年代モラル論草稿でカントの言葉として頻出するようになる« tu dois, donc tu peux. »は、実際にはシラーによるパラフレーズが一般化したものであるようだ。ここでのカント受容について、本書の間テクスト的アプローチからなにか見通しがあればお聞きしたい。2)本書では、サルトルの「真正さ(authenticité)」が、非本来的想念に捉われた具体的人間をも包摂するモラルとして、ハイデガーの「本来性(Eigentlichkeit)」が持つある種の貴族主義に対置される。しかし、「回心(conversion)」を前提するサルトル的「真正さ」も、やはり同様の傾向を共有しているとは言えないだろうか。3)コンタ氏の講演は、戦時中のサルトルの振る舞いをめぐる論争の渦中で書かれた反論という側面も強いのではないかと思うが、その点について補足的なコメントがあればお願いしたい。4)本書では、「死」をめぐるサルトルの思索が、死の恐怖のただなかにおいて「死へと向き合う存在」を拒絶する、抵抗への誓いとして取り出される。一方、サルトルはレジスタンスについて語るさい、「死」ならぬ「拷問」の恐怖についても語っているように思うが、その点をどう位置付けるべきだろうか。5)『弁証法的理性批判』などを中心に研究を進めて来られた氏が、遺稿などのコーパス拡大のなかで、とりわけ『存在と無』へと遡ろうと考えられた理由について伺いたい。
 質疑については時間の制約も大きかったが、とくにカント受容やauthenticitéの解釈について議論となり、カント的規範性に対するサルトルの両義的態度が確認されたほか、authenticitéについても、「特異的普遍」やサルトルのエクリチュールの多様性といった観点から議論が深められた。あらためて最初の主著に立ち返る必要性を感じたという氏の言葉も印象的であった。振り返ると、評者の質問は、本書の考察そのものからはやや外れた事項に関わるものも多く、噛み合った議論を発展させにくいものであったかもしれない。これはひとえに、本書の内的な論理に正面から切り込むことが容易でなかったためで、準備にあたっては、氏の調査の緻密性、論証の堅牢性を痛感した次第であった。


特定質問3(永野潤)
 『戦場の哲学』終章「戦争と存在論」で、生方氏は、サルトルの暴力論は「暴力に訴えることへと追い詰められた意識への問い」である、と言う。暴力を「人間らしく生きることの不可能という否定的状況にあってその否定を否定すべく炸裂する」ものと考えるサルトルは、暴力を非合理な絶対悪として排除するのでもなく、逆に「正当化」するのでもなく、暴力が繰り返されないために「理解」しようとする。そうしたサルトルの「暴力論」の一例として、本書では、1964年のローマ講演でのサリドマイド児殺害事件についての記述が取り上げられている。サルトルによると、この行為に既存の法や倫理的規範への単純な違反を当てはめるべきではない。生方氏が言うように、サルトルは殺害を「正当化」しているわけではないが、彼はこの行為を、薬禍を生み出す非人間的制度の否定、「実践的惰性態に対する実践の闘い」として考えるのである。しかし、質問者は、サリドマイド児の例が、サルトルの「全体的人間の倫理」の例として適切な役割をはたしているのだろうか、という疑問を持った。
 サルトルの議論には、70年代、80年代以降の障害者運動が踏まえられていないこともあるが、限界があるのではないだろうか。まず、子どもを殺した母親たちの暴力に着目するサルトルの議論は、殺される「障害者の」視点が欠けている。70年代、日本では、脳性麻痺者の団体「青い芝の会」が、重度障害のある子どもを殺した母親に対する減刑嘆願運動に反対したが、彼らは、母親の行為を既存の法や倫理的規範によって批判したのではない。彼らの運動は、自分たちを人間以下のものとして否定しようとする「健全者文明」に対するラディカルな闘争であった。ところでサルトルは、ダウン症児殺害など「自然的」なケースについては障害児殺害を「ブルジョア個人主義」として批判しているのだが、サリドマイド児殺害は「反自然」のケースとして区別して考える。しかし、この「自然」と「反自然」の区別は問題がある。そのことは例えば脳性麻痺当事者の堤愛子が、反原発運動が内包する障害者差別を批判する中で指摘している。
 一方、70年代のウーマン・リブ運動の中で、田中美津は、母親の子殺しの暴力を、ブルジョアジーのための労働力の再生産を担わされ、自らの〈生〉を生ききらせない女が、最も手近な矛盾物としての子どもを殺すという「被抑圧者の極限の自己表現」だった、と言った。この視点もまた、64年講演のサルトルには欠けている。70年代、障害者と女性たちは、対立しつつも、同じく否定的状況にあってその否定を否定すべく闘い、豊かな論争を繰り広げていた。しかし、サルトルが知らなかったこれらの運動と論争は、サルトルの暴力の思想によって読み解くことができるのであり、その意味で、そこに「可能性としてのサルトル」を見て取ることもまたできるのではないか、と質問者は考えた。


以上

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