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講演:日本で暮らす外国人 サルトルから考える仮放免者問題と私たち [サルトル関連情報]

国際連携本部フランス研究主催イベント 日本で暮らす外国人 サルトルから考える仮放免者問題と私たち

日時:2019年11月28日(木)15:20-17:00
会場:明治大学 和泉キャンパス 第二校舎 5番教室(明大前駅より徒歩5分)
https://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/izumi/access.html

講師:永野 潤 氏(首都大学東京等非常勤講師)
国際連携本部フランス研究主催イベント

日本には、入局管理局から国外退去命令を受けたものの、難民の申請中である、日本に家族がいるなど、帰国できない事情を抱える外国人が暮らしています。書類上、「仮放免者」と呼ばれる人たちです。仮放免者の多くは、入管の収容所できびしく長い収容生活を送った経験を持ちます。2007年以降で収容中 (手続き中も含む)に起きた死亡件数は15件にのぼります。本講演では、「反ユダヤ主義はユダヤ人の問題ではない、われわれの問題であ る」「第三世界は郊外にはじまる」という言葉を遺した、フランスの哲学者サルトルの人種差別・植民地主義に関する思想を手がかりに、日本における外国人収容の歴史をたどり、現在の難民・移民問題と日本社会、つまり私たちと の関わりについて考えたいと思います。

※申込不要・入場無料

お問合せ先:明治大学国際連携事務室
E-MAIL: ico@mics.meiji.ac.jp TEL: 03-3296-4591/4191
※申込不要・入場無料

お問合せ先:明治大学国際連携事務室
E-MAIL: ico@mics.meiji.ac.jp TEL: 03-3296-4591/4191

https://www.meiji.ac.jp/cip/info/2019/6t5h7p00001v71pq-att/6t5h7p00001v71qp.pdf?fbclid=IwAR3IcDXYnbyeTaQ-IjoJe6HscfBx8OHSd1x44JnNoOMP9ugOtKvHKy16kro
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日本サルトル学会会報第61号 [会報]

研究例会のご案内
第44回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、最近博⼠論⽂を提出されました⾚阪⾠太郎⽒の博⼠論⽂合評会、および⾕⼝
佳津宏⽒による研究発表が⾏われます。
当学会では⾮会員の⽅の聴講を歓迎致します(無料)。多くの⽅のご来場をお待ちしております。
第44回研究例会
⽇時:2019 年12 ⽉7 ⽇(⼟) 13 :30〜
場所:南⼭⼤学(名古屋市昭和区⼭⾥町18)Q棟 4F 416教室
※名古屋での開催となりますのでご注意下さい。
南⼭⼤学へのアクセス
地下鉄名城線「⼋事⽇⾚」駅より徒歩約8分
地下鉄鶴舞線「いりなか」駅1番出⼝より徒歩約15分
https://www.nanzan-u.ac.jp/Information/access.html

研究発表
13:30〜16:00
発表者:⾚阪⾠太郎(⽴命館⼤学)
「前期サルトルの哲学研究――形⽽上学の問題を中⼼に」(筆者⾃⾝による博⼠論⽂内容紹介)
特定質問者:⽣⽅淳⼦(国⼠舘⼤学)、⼩林成彬(⼀橋⼤学)
司会:根⽊昭英(獨協⼤学)
※ ⾚阪⽒の博⼠論⽂の要旨はこちらで公開されています。http://hdl.handle.net/11094/73504
博⼠論⽂の本⽂pdf をご希望の⽅は、⾚阪⽒までご連絡ください。
(連絡先::shintaro_akasaka@hotmail.com)
16:15〜17:30
発表者:⾕⼝佳津宏(南⼭⼤学)
「『弁証法的理性批判』における⽅法の問題」
司会:森功次(⼤妻⼥⼦⼤学)

懇親会 兼 研究相談会 18:30 頃〜

サルトル関連⽂献
・ ⽔野浩⼆『倫理と歴史:1960 年代のサルトルの倫理学』(シリーズ〈哲学への扉〉)⽉曜社、2019.
・ ⻄⽥勝「サルトルとカミュの受容 (フォーラム 引揚げとは何か? 主として⽂学にとって) ――(コ
メント)」『植⺠地⽂化研究 : 資料と分析』(18), 42-45, 2019.
・ 堀⽥新五郎「知性とその外部──ソクラテスとサルトルを起点として」『奈良県⽴⼤学研究季報』
29(4), 1-25, 2019.

理事会からのお知らせ
⽇本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の⽅は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7⽉と12⽉の年⼆回⾏われております。

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研究例会のお知らせ [研究例会のお知らせ]

研究例会のご案内
第44回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
今回の研究例会では、最近博士論文を提出されました赤阪辰太郎氏の博士論文合評会、および谷口佳津宏氏による研究発表が行われます。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します(無料)。多くの方のご来場をお待ちしております。

第44回研究例会
日時:2019年12月7日(土) 13 :30~
場所:南山大学(Q棟4F 416教室)
※名古屋での開催となりますのでご注意下さい。

研究発表 
13:30~16:00
発表者:赤阪辰太郎(立命館大学)
「前期サルトルの哲学研究――形而上学の問題を中心に」(筆者自身による博士論文内容紹介)
特定質問者:生方淳子(国士舘大学)、小林成彬(一橋大学)
 司会:根木昭英(獨協大学)
※赤阪氏の博士論文の要旨はこちらで公開されています。http://hdl.handle.net/11094/73504
    博士論文の本文pdfをご希望の方は、赤阪氏までご連絡ください。
(連絡先:連絡先:shintaro_akasaka@hotmail.com)

16:15~17:30
発表者:谷口佳津宏(南山大学)
「『弁証法的理性批判』における方法の問題」
司会:森功次(大妻女子大学)

懇親会 兼 研究相談会  18:30頃~
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2019年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2019)参加報告 [サルトル関連情報]

2019年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2019)参加報告
関大聡

 2019年度の国際サルトル学会(GES)のシンポジウムがパリ・ソルボンヌ大学で開催された(6月21日、22日)。これまでの学会の模様については本会報でも二度報告が掲載されており、発表者もある程度重複しているので、興味ある方は比べてみるとよいかもしれない(2017年度2018年度)。今回の学会テーマとして掲げられたのは「ボーヴォワール」で、これは2018年5月にガリマール社からシモーヌ・ド・ボーヴォワールの回想録がプレイヤッド版全集として刊行されたことを受けたものである。結果として、14の発表(アレクシ・シャボーは発表キャンセル)のうち、半数以上がボーヴォワールに関するものとなった。各発表の仏語題など詳細については公式ウェブサイトを参照されたい(GES公式プログラム)。
 ボーヴォワール関連の発表から紹介しておこう。まず、サルトルの恋人だったシモーヌ・ジョリヴェとシモーヌ・ド・ボーヴォワールという「二人のシモーヌ」が、作品のなかでどう描かれているか、またシモーヌ同士の関係はどういったものだったかについての紹介(ジャック・ルカルム)。初期サルトルの著作における「単独者」の表象と実生活におけるボーヴォワールとのカップル関係の間に横たわるある種の逆説を考察するもの(エステル・ドゥムーラン)。『存在と無』と『第二の性』における愛の現象学的・倫理的分析についての比較(ガブリエル・マエウ)。戦後のサルトルとボーヴォワールによるアメリカ体験と、当地での人種差別問題の発見についての発表(セリーヌ・レオン)。プレイヤッド版『回想録』がラジオ・テレビ・新聞・雑誌などでどう受容されたか、その特徴を概観するもの(フランソワーズ・シモーネ・トゥナン)。サルトルとボーヴォワールにおける疎外論の深化(社会科学と精神分析の連結)の先駆者として、ラカンの影響を検討したもの(アレクサンドル・フェロン)。「実存主義者」に対するキリスト教徒や共産主義者からの批判に対して、『現代』誌の主要な執筆者――サルトル、ボーヴォワール、メルロ=ポンティ――がどのように応答したか、そこに「共通のプログラム」は存在するのか、という議論(パトリス・ヴィベール)。『存在と無』のハイキングの描写を、サルトルとボーヴォワールが実際に好んで行っていたハイキング時の関係性と重ね合わせながら読み込んだ発表(ヤン・ハメル)。
 以上の八つの発表のうち、エステル・ドゥムーランの発表「単独者から文学的カップルへ」、およびフランソワーズ・シモーネ=トゥナンの発表「ボーヴォワールのプレイヤッド版『回想録』の受容」に関しては、内容に少し立ち入っておこう。ドゥムーランはソルボンヌ大学でサルトル-ボーヴォワールの文学的カップルについての博士論文を用意している若手研究者で、2017年のGESでもサルトルと同性愛嫌悪の問題に関して発表を行なっていた(『サルトル研究誌』22号に掲載)。今回の発表は、サルトルが「単独者」の理論を構想した20年代後半が、まさにボーヴォワールとの「必然的」恋愛関係を結ぶ時期と重なっているという逆説から出発して、文学における単独者(あるいは独身者)とカップルの関係を考察するものである。ジャン・ボリーの『フランスの独身者』(1976年)が論じるように、19世紀後半以降ある種の作家(フローベール、ゴンクール兄弟、ユイスマンスなど)には独身性と芸術性を、あるいは単独性と創造性を結び付ける連想が存在しており、それは(ここで問題になるのが男性作家であるからには)女性の排除を伴うものである。ドゥムーランはこうした発想が初期のサルトルの著作にもみられるとして、そこにニーチェとその超人思想からの影響を読みつつ、同時にサルトルとニーチェの女性をめぐる思考がどの点で違うかを検討する。こうした単独性=創造性の連結は、サルトルとボーヴォワールがカップルを形成するときにもその在り方に影響を及ぼさずにはいなかった、というのが彼女の主張である。その影響は大まかに言って、1) お互いの孤独の尊重、2) 共同で書く、という実践の拒否、3) ルイ・アラゴンとエルザ・トリオレが体現するような相互に賞賛しあうカップル像の拒否、に大別される。以上が発表の要旨であり、彼女はこの論の帰結にまで考察を進めてなかったように思うが、これは突き詰めて考えれば、二人の契約的恋愛関係の根本にある透明性や融合的な在り方をめぐる神話を崩すものともなるだろう。その点も含めいくつか議論を呼びそうにも思われるが、一般に無性的な論として受け取られる「単独者」の思想をジェンダー化させる、という観点はとりわけ刺激的に思われた。
 フランソワーズ・シモーネ=トゥナンは、日記、書簡、自伝、回想など、自己に関するエクリチュールを専門とする研究者である。2018年のプレイヤッド版『回想録』の刊行はラジオ・テレビ・新聞・雑誌などでも数多く取り上げられたが、量は必ずしも質を保証するものではない、と彼女は言う。記事の表題からみていくと、「偉大な回想録作家」というような紋切り型的紹介や、作品タイトルをもじった名前(「社会参加した女性の回想」など)、フェミニストとしての側面を誇張したもの、数少ない女性作家としてのプレイヤッド版の刊行という象徴的威光を強調したもの、などが並ぶ。内容に立ち入ってみると、その多くは刊行当時の状況(とりわけ#MeToo)に結びつけ、また回想録それ自体というよりも、全集の編集者でありボーヴォワールの養女シルヴィー・ル・ボン・ド・ボーヴォワールへのインタビューに基づいて構成されたものだという。とはいえ特筆すべきものもある。興味深い証言・発言者としてはAlice Ferney, Annie Ernaux, Catherine Millet, Camille Laurensが、また際立って批判的・攻撃的な評者としてはCharles Dantzig, Christophe Mercier, Jean-Paul Gavard-Perretが挙げられた。批判はもっぱら彼女の文体面での凡庸さや形式的実験の不在を嘆き、フェミニストとしてはサルトルとの間に対等と言いうる関係があるのかと訝り、そして回想では語られないが彼女(ら)によって苦しめられた人々がいるという道徳的な批判を投げかける。しかし好意的にせよ批判的にせよ、自伝・回想というジャンルに即して今回の回想録を考察する試み、たとえば2010年に刊行されたサルトルのプレイヤッド版自伝との比較などは行なわれず、二人の自伝的企ての生成についてはより詳細な検討が必要であろうと締めくくられた。そうした考察が必要なのは論を俟たない。とはいえ同時に、刊行当時の状況、要するに#MeTooなどとの関連はもっと真っ向から問われてもよかったのではないか。「ボーヴォワールなら#MeTooについて何と言ったと思いますか?」と言った類の問いかけが微笑を誘うのは仕方ないにしても、L’Obs誌に「ボーヴォワールから#MeTooまで」(2018年2月)という特集が組まれ、またパリ第7大学で開かれたボーヴォワールをめぐる三日間のシンポジウム(同年10月11-13日)でもこの点が数多く取り沙汰されるなど、やはり無視できない視角ではないだろうか。
二日目の発表は特にテーマを定めず、六つの自由発表がなされた。『存在と無』における憑依(hantise)の主題を、デリダの憑在論(hantologie)的視点から解釈した発表(フェルナンダ・アルト)。サルトルと同時代の神経生物学者で、『イマジネール』や『奇妙な戦争手帖』などで名が挙げられているラウル・ムルグ(Raoul Mourgue)の著書『幻覚の神経生物学』(1932)と、サルトルの知覚と想像力をめぐる議論を対照させた論(フレデリック・シュネーベルジェ)。アイデンティティ危機に瀕した思春期児童による詩的反逆児(ランボー、ロートレアモン)への自己同一化という観点から『自由への道』の登場人物フィリップの道程を検討したもの(クラウディア・ブリアーヌ)。バタイユの思考を介しつつサルトルとフーコーにおける侵犯の思考を比較する論(エヴァ・アブアイ)。政治哲学における(たとえば民衆の)表象の問題を、サルトルの『弁証法的理性批判』から検討し、クロード・ルフォールなどの民主制論と対比させるもの(マティアス・リーヴェンス)。サルトルの組織集団(groupe organisé)論の可能性についての検討(クセノフォン・テネザキス)。
 個別の発表を紹介する代わりに、いくつか所見を記しておこう。まず、比較的若い世代による発表が多い点。アルトは2017年に『サルトルの憑在論』というテーマでパリ1大学に博士論文を提出している。ブリアーヌは2018年に博士論文に基づく著書『群衆のなかの思春期:アラゴン、ニザン、サルトル』を刊行したばかりである(本発表はそれに基づく)。アブアイは現在パリ・ソルボンヌ大学でサルトルにおける救済をテーマにした博士論文の準備中。テネザキスもパリ東大学でサルトル、フーコー、ガタリ、ドゥルーズにおける集団と自由についての博士論文を準備中である。これら大学院生の発表を除けば、精神医学と政治学という、必ずしもサルトル研究の専門家ではない視点からの発表が入ったことになる。
 そこから世代差をめぐる問いかけも生ずる。所謂大御所世代と大学院生・ポスドクによる発表が並ぶと、サルトルを読むときの資料体も違えば、アプローチも異なることに気付かされる。そこには長所もあれば課題と思しき点もあるだろう。一方で、サルトルに関する新しいアプローチの導入がサルトル研究に活性化をもたらすことは疑いなく、学会としてもその傾向を歓迎する様子がうかがわれる。他方で、先の点と矛盾するようだが、若手が発表の主軸を担うことには多少の懸念もある。最近ではフランスの博士課程の学生もかなり業績を積みながら博士論文の提出を目指すものらしく、今回発表した若手の別の発表を私はあちらこちらで一度ならず見たことがある。そうすると、発表内容について多少なりとも既視感が生ずるのは避けがたい。もちろんそれだけに由来するわけではないが、今回、やや停滞した雰囲気を感じたのは私だけではないと思う。
 こうした傾向の固定化を避けるためには――また現状では哲学系が多いので文学系の発表の割合を増やすためには――、情報発信の仕方を考えていくべきだし、外部からの発表を受け付けやすくするためにテーマの明確化を図ることも有効だろう。現に総会ではこれらの点が主な議題となった。報告者としては、フランス外からの発表者が例年一定数いることもこの学会の魅力であり、議論を豊かにするものだと強調しておきたい。その点で言うと、GESには三年連続で日本からの発表者がいたのだが、今年はおらず、少し残念だった。ハードルは決して低くないにせよ、ここで議論を交わすことで得られるものは少なくない。これからも発表の機会が広く共有されることを期待しているし、そうした希望を込めて、今回の報告文を終えたいと思う。(報告者:関大聡)
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日本サルトル学会会報第60号 [会報]

研究例会のご報告
第43回研究例会を下記の通り開催致しましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では茨木博史氏、水野浩二氏による研究発表が行われました。以下、報告文を掲載致します。

第43回研究例会
日時:2019年7月13日(土) 14 :00~
場所:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー(BT) 26階A会議室

研究発表 
茨木博史(在アルジェリア日本大使館) 「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」
 茨木博史氏の発表「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」は、アルベール・カミュやマグレブ文学およびアルジェリアの地域文化研究を専門とする茨木氏が、サルトル自身の言説と彼の協力者たちが、アルジェリア戦争期にアルジェリアにもたらした影響について、言説分析および受容・影響の観点から検討したものである。
 茨木氏はまず、サルトルがアルジェリアについて論じたものとして、『シチュアシオン V 』に所収された「植民地主義はひとつのシステムである」をはじめ、多くの評論が残されている一方、アルジェリアの知識人たちが、サルトルについて直接的に言及している文献はほとんどないという事実を明らかにした。
 サルトルとアルジェリアとの具体的な関わりは、1948年のガルダイアやタマンラセットなどの砂漠地方へのボーヴォワールとの旅行である。一方、茨木氏が引用するヌレッディーヌ・ラムシが指摘する通り、サルトルは1945年のセティフの大虐殺についても同時期に言及をしておらず、彼は1950年代になってからアルジェリアの植民地問題について発言するようになった。茨木氏は、フランシス・ジャンソンらは、サルトル主宰の『レ・タン・モデルヌ』誌でそれ以前に反植民地主義キャンペーンを明確に打ち出しており、サルトルのアルジェリアに関する言説はそのキャンペーンの一環で読まれるべきだと提唱した。
 茨木氏は、これまでサルトル研究ではほぼ扱われていなかった、フェラト・アバース(のちのアルジェリア共和国臨時政府大統領)率いる『ラ・レピュブリック・アルジェリエンヌ』紙に掲載された1953年1月のインタビューを取り上げた。茨木氏はそこからまず、同紙による、国際的名声のあるサルトルが仕事に忙殺されているにもかかわらず、文書で回答いただいた、とする非常に恭しい紹介に着目し、同紙にとってサルトルが距離感のある象徴的存在に祀り上げられていることを明らかにした。また茨木氏は、サルトルが先のインタビューへの回答のなかで、「コロン」の人種主義がフランス本国にも有害なものであり、植民地の問題がフランス社会の民主主義の問題と分かちがたく結びついており、その植民地の問題は人種主義が支えているという見方を示す一方、この枠組みをジャンソンが52年に『レ・タン・モデルヌ』誌に発表したテクストですでに提示していることを喚起し、それが以降のサルトルにとっての基本的な論調となっていると主張した。
 つぎに茨木氏は、1956年のサルトルのテクスト「植民地はひとつのシステムである」について論じたが、そこでサルトルが「良いコロンと悪いコロンがいるのではない。コロンがいる、それがすべてだ」という、《改良主義者=新植民地主義者》の欺瞞を批判した有名な言説を分析しつつ、「私は、小役人や、労働者、小さな商店主といった、体制の無実の犠牲者でもあり受益者でもある人たちをコロンとは呼ばない」という文言も取り上げたが、その文言は当時のコロンの事情とは辻褄が合わず、サルトルは「コロン」概念を非常に曖昧で粗雑に扱っているのではないかという問題提起をした。ただし、こうした正確さを欠くイメージはサルトルのみならず、本国で流布しており、茨木氏は、こうした「コロン」のイメージに対するカミュやジャック・デリダの批判などアルジェリア側からの不満を持った反応を紹介した。
 サルトルの「植民地はひとつのシステムである」も発表された1956年1月にパリで開催されたミーティングで、アルジェリアの詩人ジャン・アムルーシュが、アルジェリア人であるとともにフランス人でもあることを信じているという、フランスへの愛着も語りながら、「ヨーロッパのフランス」とともに、「植民地主義のフランス」という側面も持っており、アルジェリアのゲリラが武器を取る相手は後者のフランスなのだと主張している。茨木氏は、アムルーシュをはじめとするアルジェリア人なども含めて、知識人の集いの場がサルトルを中心にしてつくられることも、サルトルの功績のひとつであると指摘するとともに、このアムルーシュの論考をサルトルに関連づけて、サルトル自身が守りたかったのは、アムルーシュのいう「ヨーロッパのフランス」であったのだと強調した。併せて、歴史のなかで自らの存在を認めさせるというのが被植民者たちのスローガンであったし、この時期から多くのアルジェリア人作家たちの重要なテーマとなったことも述べられた。
 さらに茨木氏は、「植民地はひとつのシステムである」以降のアルジェリアについての論考を分析した。サルトルはアルジェリア戦争中、次々に論考を発表していくが、アルベール・メンミなどの色々な本から学びながら、その都度その都度ひとつずつ新たな要素を付け加え、「コロン」についての概念も明確化していくという特徴も示した。1957年、58年ごろから拷問の存在が明らかになっていくが、サルトルがそれを深刻に捉え、植民地主義や「コロン」による人種主義が、本国のフランス人と切り離された問題ではなく、有害なものとして自分たちに到達してしまった問題なのだと危機感を抱き、フランスを恥辱から、アルジェリア人を地獄から救うために交渉を開き、戦争を止めるべきだと本国のフランス人をnous として呼びかけを行っている。こうした事実から茨木氏は、ラムシを引きながら、サルトルの言論が本国のフランス人を明確な宛先として書かれていることが、アルジェリアでの直接的な反応が少ない原因のひとつではないかと導き出した。
 以上から茨木氏は、「100万人のアルジェリア人を殺戮させたという我々の敗北」とサルトルが記した1962年の「夢遊病者たち」に至るまで、アルジェリアに関するサルトルの論考について、アルジルダス・ジュリアン・グレマスの物語分析を援用しながら、我々という sujet が、フランスの解放を、objet として求めて冒険を続けていたが、結局それに敗れてしまうということ、自分たちを妨害する敵とみなしていた「コロン」がしだいしだいに自分たち近づいてきて、自分たちのなかに入り込んでしまうこと、フランスの民主主義の敗北の過程などといった、ひとつの苦い「物語」として読めるのではないかと示唆した。
 茨木氏は最後に、アルジェリア人にとってのサルトルを考えるにあたって、アンガージュマンの問題が戦後の文学に長い間占めてきたがゆえに、アルジェリアの知識人たちがサルトルとどのような距離を取るべきかが課題だったという、作家ムールード・マムリの文章を紹介した。また茨木氏は、サルトルから強い影響を受けたフランツ・ファノンや、サルトルの近くにいたモーリス・マスチノなどの言説も取り上げられ、その後のアルジェリアについても言及をおこなった。そのなかで茨木氏は、アルジェリア戦争には関係者も多く、社会学者ピエール・ブルデューや人類学者ジェルメーヌ・ティヨンなどの優れた論考に比べると、サルトルの思想的独自性は疑わしいが、むしろこのことは、サルトルが運動の中心にあったこと、サルトルが運動の場を作り出したことの大きさを意味するものである。それがサルトルの功績であり、サルトルのアルジェリア論が現在も読まれ続けている要因となっており、サルトルの一連の論考はその運動の一環として読まれるべきであると強調し、本発表を締めくくった。
 本発表は、茨木氏が豊富なアルジェリアの歴史や社会についての知見を基にして、サルトルのアルジェリアについての諸論考を精緻に分析し、サルトルとアルジェリア側の双方の非対称的な見方を露わにするのみならず、サルトルのアンガージュマンの意義そのものを問い直した非常に意義深いものであったと言えよう。 (竹本研史)


水野浩二(札幌国際大学) 「倫理と歴史――1960年代のサルトルの倫理学――」
 2004年に『サルトルの倫理思想−本来的人間から全体的人間へ』(法政大学出版局)を公刊されたあと、水野氏は「全体的人間homme total」に準拠する1960年代の倫理思想を主題に研究を深められ、現在、その成果を著書にまとめておられるところである。今回はその成果の一部として、主に1965年のコーネル大学講演草稿《倫理と歴史》に基づく考察を披露していただいた。《倫理と歴史》には「倫理的案出invention éthique」なる用語が頻出する。さて、「倫理的案出」とは何か。この概念の内実を詳らかにするとともに、それを基軸に展開されるサルトル倫理思想の特徴を明らかにすることが本発表の主題となった。
 講演草稿において「倫理的案出」に言及するとき、サルトルはいくつかの具体例を挙げている。発表では《倫理と歴史》から特に三つの事例が選ばれ、氏による注釈が加えられた。1)病に冒され、余命一年を宣告された妻にその事実を告げぬことを決意する夫の例。もはや真実を受け止められる精神状態にない妻を思いやる夫は、「嘘をついてはならない」という伝統的規範に抗して、新たな規範「人間らしく生きるべきである」を案出している。 2)民主党の大統領候補指名選挙におけるケネディの演説。カトリックである彼は、プロテスタント優位の歴史的伝統のなかで、有権者にカトリックの候補者に対する寛容を要求した。つまり、合衆国の「歴史的伝統」という規範に抗して「寛容」という徳の遂行(=投票)を要求したところに彼の「倫理的案出」があった。3)レジスタンス運動の闘士フチークとブロソレット、アルジェリア独立戦争の闘士アレッグの例。彼らは逮捕されたあと、拷問を受けながらもついに口を割ることがなかった。彼らは「身体的苦痛は避けるべきものである」という普遍的規範に抗し、苦痛に耐えることによって、またさらなる苦痛を回避すること(=自殺すること)によって「口を割らない」という使命に従った。「苦痛」を単に状況に付随する出来事と見なすことによって、また自らが置かれた環境から平時ならば忌避される自死の手段を見いだすことによって、彼らは「倫理的案出」を行った。
 本発表ではさらにこれらの事例に加えて、1964年のローマ講演《倫理の根源》で引用されている女子高校生へのアンケート(95%の生徒が嘘は悪であると考えていながら、実際には90%の生徒が嘘をついた経験があると回答した)や、「リエージュの嬰児殺し事件」(サリドマイドの影響で奇形児を産んだ母親が「生の絶対的価値」に抗し、「人間的に生きる機会を予め奪われている子供の生を引き延ばすことはできない」という規範を案出し、わが子の命を奪った)、また1965年の《命令と価値》で引用されている軍隊の曹長による兵士への命令(曹長が兵士に「箒がない」と叫ぶとき、それは「箒を見つけよ、ゆえに見つけることができる。つまり、何かを使ってこの場で箒を作るべし、ゆえに作ることができる」という、兵士の「案出の自由」への呼びかけである)といった事例も「倫理的案出」の具体例として付け加えられた。
 「人間関係は倫理的規定(déterminations éthiques)によって規制されている」とはサルトルが《倫理と歴史》で明確に述べているところである。水野氏の解釈によれば、普遍性を前提に措定された倫理的規定ないし定言命法はときに特殊な現実から遊離した規範となることがあり、それに従うことが不可能になる場合に「倫理的案出」が現れる。では、規範の遵守が不可能になるとはどういう事態か。それは、人間が人間らしく生きる機会、人間が人間として生きる機会、すなわち「全体的人間」であることを脅かされるような事態である。それゆえ、現実に基づかない観念的な倫理規範の乗り越えを目指したサルトル60年代の具体的倫理(サルトル自身の表現で「弁証法的倫理」とも言われる)において、「倫理的案出」はとりわけ重要な概念になっている。これが本発表の結論である。
発表後の質疑応答では、特に「リエージュの嬰児殺し」を巡って、それが許容される理路に違和感を覚えるとする意見が複数の参加者からあげられた。また、こうした「個人的」な決定を、そもそも倫理規範として認めることができるのかといった問いもこれに付随して発せられた。水野氏からは、「嬰児殺し」についてはそれが犯罪的な行為であることをサルトルも重々承知している、確かに反論を喚起する事例ではあるが、彼がこれを示した意図は「倫理的案出」の主体的決断をことさら強調することにあったのだろうという回答がなされた。さらにこれに対し、マルクスの倫理思想の影響下にあるこの時期のサルトルには、他者を包摂するような倫理を重視する側面もあったはずだという意見が提起された。水野氏は、そうした側面が確かにあることを認められたうえで、本発表の主題からはやや離れるために今回はあえて言及を避けた旨を告げられた。かくして活発な質疑応答が交わされた。60年代の倫理思想の全体像に触れる氏の新たな著書の刊行が大いに待たれるところである。(翠川博之)

サルトル関連文献
・水野浩二『倫理と歴史:一九六〇年代のサルトルの倫理学』月曜社、2019年10月(近刊)
・石崎晴己著『ある少年H――わが「失われた時を求めて」』吉田書店、2019年6月
・永野潤『イラストで読むキーワード哲学入門』白澤社発行、現代書館発売、2019年4月
既刊の2冊について、学会のブログに生方淳子さんによる「新刊のご紹介」が掲載されております。

理事会からのお知らせ
・次回のサルトル学会例会は、12月7日(土)に南山大学(Q棟4F 416教室)にて開催予定です。
 ※名古屋での開催となりますので、ご注意下さい。
・日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
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新刊のご紹介 [サルトル関連出版物]

新刊のご紹介(生方淳子)

 本学会のメンバー二名が最近それぞれ出版した二冊の著書を紹介します。
二冊ともサルトルを中心テーマにした本ではありませんが、実は深いつながりが見出せるサルトリアンならではの本です。


石崎晴己著『ある少年H』、吉田書店
 題名からすると自伝的作品と思われますが、それを越えてまさに「単独的普遍」を語る試みです。第二次世界大戦直後の日本を生きた一少年の体験をとおして紡がれる歴史の証言であり、文明批評であり、人間論・教育論でもあります。サルトルにも少なからぬページが割かれており、『存在と無』、『言葉』、『ユダヤ人問題』、『家の馬鹿息子』が取り上げられ、サルトルの伝記的事実にも考察が加えられています。研究書の枠にとらわれないエッセイならではの自由闊達さで、随所にサルトル思想の神髄が盛り込まれています。
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出版社HP
http://www.yoshidapublishing.com/booksdetail/pg730.html


永野潤『イラストで読むキーワード哲学入門』、白澤社発行、現代書館発売
 意表をつく哲学入門書です。お決まりの哲学用語が並び、平易に解説されているのではなく、見事な独断で選ばれたと思われる52のキーワード各々について、マンガや映画や音楽、絵画、そして時事問題をも巻き込んだ思考のエッセンスが披露されています。著者自身が描いた少々謎めいたイラストが項目ごとに添えられ、それに導かれるように普段私たちが見ようとしない世界の側面が顔をのぞかせます。サルトル哲学に関しても「不安と自由」、「対他存在」、「実存と本質」などが(サブ)カルチャーと重ねて語られています。
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出版社のブログ
https://hakutakusha.hatenablog.com/

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第43回研究例会「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」要旨 [研究例会のお知らせ]

2019年7月13日(土)14 :00~の第43回研究例会
https://ajes.blog.so-net.ne.jp/2019-06-02

茨木博史(在アルジェリア大使館)
「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」
司会:竹本研史(法政大学)

要旨
サルトルがアルジェリアの植民地問題について発言するようになるのは、1950年代に入ってからのことである。1954年に勃発したアルジェリア戦争にサルトル自身がコミットしていく前に、彼の主宰する『現代』誌は既に反植民地主義の立場を明確に打ち出していた。1953年1月には、後にアルジェリア共和国臨時政府の首班となるフェラト・アバースが率いるレピュブリック・アルジェリエンヌ紙にサルトルのインタビューが掲載される。この中で彼は、「コロン」の人種主義がフランス本国にも有害なものであり、植民地の問題はフランスの民主主義のそれと分かちがたく結びついているという見方を示している(1) 。1956年に発表された「植民地主義はシステムである」においては「良いコロンと悪いコロンがいるのではない。コロンがいる、それがすべてだ」と喝破したうえで、アルジェリア人と本国のフランス人の双方を植民地主義の専制から解放しなければならないと説いた (2)。サルトルが用いる「コロン」の概念は粗雑な面があるものの、「コロン」による被植民者の非人間化、本国の人権や民主主義の原理の植民地での否定という図式に基づき、フランス軍による拷問問題についてもフランスを「恥辱」から救わねばならないとした(3) 。
 フランス本国でアルジェリア戦争の遂行に反対する陣営の中心的存在となったサルトルであったが、当時のアルジェリアでは知識人の著作やFLMの機関紙等において、サルトルに対する直接的な反応は、時おり名前が言及される程度でほとんど見られない。アルジェリアでの直接的な反応は少ない原因としては、ラムシが指摘するようにサルトルの言論が本国のフランス人を明確な宛先として書かれていることを(4) 、その一つとして推定できるだろう。他方で、「植民地主義はシステムである」が発表された1956年1月のパリのミーティングでは、アルジェリア人の詩人ジャン・アムルーシュが招かれ、『現代』誌はやはり作家のカテブ・ヤシンや独立後のアルジェリアで教育相を務めるムスタファ・ラシュラフらに度々執筆の場を与えた。また、サルトルの思想、「人間」の概念に影響を受けたフランツ・ファノンはアルジェリア戦争が始まるとFLNのスポークスマンとなり、党の公式言説もしばしばサルトル-ファノン的な色調を帯びることとなる。ファノンの他にも、やはり『現代』誌に執筆し、FLNと密な交流を持ったモーリス・マスチノのような人物もいる。
本発表では、サルトル自身の言論と彼の協力者たちが、アルジェリア戦争期にアルジェリアにもたらした影響とはどのようなものであったか、言説分析の観点及び受容・影響の観点からあらためて検討したい。

(1) La République algérienne, le 9 janvier 1953.
(2) « Colonialisme est un système », Situations, V, p.89-111.
(3)« Une Victoire », Ibid, p.326-340.
(4)Lamouchi, Noureddine, Jean-Paul Sartre et le Tiers monde, L’Harmattan, 1996, p.212-216.


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日本サルトル学会会報第59号 [会報]

研究例会のご案内
 第43回研究例会を下記の通り開催致しますので、ご連絡致します。
 今回の研究例会では、茨木博史氏、水野浩二氏の2名による研究発表が行われます。
 当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します(無料)。多くの方のご来場をお待ちしております。

第43回研究例会
 日時:2019年7月13日(土) 14 :00~
 場所:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー(BT) 26階A会議室
 交通アクセス
※市ヶ谷キャンパスは現在工事中です。正門(北側、外堀に面した側)もしくは富士見坂門(東側)から入るとわかりにくいので、ボワソナード門(南側、靖国神社側)からお入りください。ボワソナードタワーの玄関から入ってすぐの青いエレヴェータで26階まで御登りください(奥のオレンジ色のエレヴェータは途中までしか行きません)。
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研究発表 
14:00~15:10
発表者:茨木博史(在アルジェリア大使館)
「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」
 司会:竹本研史(法政大学)

15:30~16:40
発表者:水野浩二(札幌国際大学)
「倫理と歴史――1960年代のサルトルの倫理学――」
司会:翠川博之(東北大学)

総会 16:50~ 
懇親会 18:00頃~

サルトル関連文献

・Etudes sartriennes, 2018 n°22, sous la direction de Gautier Dassonneville, Classiques Garnier, 2019.[*サルトルのDiplôme d’Etudes Supérieures取得のための論文 « L’Image dans la vie psychologique : rôle et nature »と、サルトルが高等師範学校の図書館で借りたリストが収録された重要な号になっています。この論文によって『イマジネール』 の出発点がよくわかります]
・永野潤『イラストで読むキーワード哲学入門』白澤社, 2019年, 158p.[巻末に〈応用編〉として、サルトルの著作解説を兼ねた論文が収録されています]
・納富信留・檜垣立哉・柏端達也編『よくわかる哲学・思想』ミネルヴァ書房, 2019年[「サルトル」の項目があります]
・清眞人「「悲の器」としての人間―高橋和巳における宗教と文学―」『近畿大学日本文化研究所紀要』 (2), pp.85-178.
・小山尚之「『ショア』を相続する ―パトリス・マニグリエとクロード・ランズマン―」『東京海洋大学研究報告』(15), pp.49-60.
・宮子あずさ「40代女性看護師の実存からその人らしい看護を探る : サルトルの「遡行的-前進的かつ分析的-綜合的方法」を用いて」『東京女子医科大学看護学会誌』14(1), pp.1-7.
・藤江泰男「メルロ=ポンティの文学論,あるいは言語とは何か : サルトル側の視点から」『椙山女学園大学研究論集 人文科学篇』(50), pp.29-43.
・ジル・フィリップ(黒川学訳)「サルトルの『アルブマルル女王』における3つの執筆作法」『立教大学フランス文学』48号, pp. 81-98.
・澤田直「サルトルとイタリア(3)」『立教大学フランス文学』48号, pp. 99-124.
・東浦弘樹「カミュ研究者が見たサルトルの『出口なし』」『りずむ』第8号(白樺サロンの会), pp. 43-53.


理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。


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日本サルトル学会会報第58号 [会報]

研究例会のご報告
第42回研究例会を下記の通り開催致しましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では、赤阪辰太郎氏、永井玲衣氏による研究発表と、ジル・フィリップ氏による特別講演が行われました。以下、報告文を掲載致します。

第42回研究例会
日時:2018年12月8日(土) 14 :15~
場所:立教大学 5号館5209教室

研究発表
赤阪辰太郎(大阪大学)
「『存在と無』における形而上学について」

赤阪氏は『存在と無』の現象学的存在論の根底でその経験を支えている次元、すなわち形而上学はどうなっているのか、という関心から、前期サルトルの著作を読み解いた。
赤阪氏はこの作業を進めるにあたって、哲学的著作のみならず、文芸批評も考察の対象に入れる。というのも、サルトルは文芸批評を執筆する際、著者の形而上学に着目するという手法をしばしば採用していたからである。赤阪氏によれば、サルトルは、〈ひとは各々の形而上学をもっており、その形而上学はその主体のありかたに相関して形成される〉と考えていた。したがって、その人の形而上学を明らかにすることは、当人の主体のあり方を明らかにすることにつながるのである。
 今回の発表では、赤阪氏は「形而上学」という語の用法を3つの点にまとめた。
第一に「所与の解釈を歪める思弁としての形而上学」である。この意味での用法は『想像力』に見られる。サルトルは心理学者たちを批判する中でこの「形而上学」という語を使っていた。サルトルはそこで、心理学者たちが自分たちの形而上学を無批判に採用し、それをもとに経験的所与の解釈を歪めている点を批判していたのである。
第二の用法は「文学的地平における形而上学」である。文芸批評を執筆する中で、サルトルは、小説作品から読み取れる形而上学は作品内の要素に統一性を与える原理として活用されるべきだ、という考えをとっている。これは小説作品においては形而上学と技法が一致すべきだ、という規範的な考えともいえよう。赤阪氏はさらに『文学とは何か』などの著作を読み解きつつ、作品の形而上学は、作家が置かれた状況への応答でもある、と述べた。
最後に赤阪氏は、『存在と無』に見られる用法として、「根源的な偶然性を語る論理」としての形而上学、という用法をとりあげた。赤阪氏はここで形而上学を、一種の「問いかけをし、答えを引き出す手続き」として解釈する。ここで赤阪氏は、サルトルの「形而上学」という言葉づかいを分析するというよりは、『存在と無』を直接読解し、サルトル自身の形而上学を明らかにしようとする作業に踏み出すのだが、今回の発表ではこの部分の作業はまだ不十分なままにとどまっていたように思われる。現在執筆中の博士論文では、『存在と無』での「形而上学」の用法をより詳細に分析し、サルトルの形而上学観が明らかにされるだろう。
前期サルトルにおいて、「形而上学」という用語の使い方はたしかにいろいろと揺れが見られるものであり、その言葉づかいのぶれを分析することは、前期サルトル理解に多いに資する作業となるだろう(報告者としては、とりわけ「サルトルがフッサール現象学をどう受容したのか」という観点からこの作業を進めることは、サルトルの現象学観を理解する上で非常に重要な作業だろうと期待している)。また、文学批評などとつきあわせながらその形而上学観を考察しようとするチャレンジングな試みについては、当日の質疑の中でも期待が寄せられていた。赤阪氏の今後の博士論文に期待したい。(森功次)


永井玲衣(上智大学、立教大学)
「哲学プラクティスとサルトル」

永井玲衣氏の発表「哲学プラクティスとサルトル」は、氏が近年全国で非常に精力的に活動している哲学プラクティスと、サルトルとの接合点ないし相違点について検討したものである。前回第41回例会での加藤誠之氏の発表「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」に続き、今回もサルトルと教育との関係について問うたものとなった。
 さて後述するように、哲学プラクティスのなかには、哲学カフェがある。私たちにとっては、哲学カフェで行われる議論と、サルトルたちがドゥ・マゴやカフェ・フロールを初めとするカフェで行なっていた議論とでは、同じカフェを舞台に哲学の議論を行なってはいるものの、かなり位相が異なって見える。これについて永井氏はどのように考えるのだろうか。
 発表にあたり、永井氏はまず、具体的な現在の取り組みも併せて哲学プラクティスに関する紹介を行なった。哲学プラクティスには、①ゲルト・アルヘンバッハにより開設された Philosophical Counseling、②レオナルト・ネルゾンにより始まった Socratic Dialogue、③マルク・ソーテにより開始された Philosophical Café、④マシュー・リップマンの取り組みやフランスのドキュメンタリー映画『ちいさな哲学者たち』などが引き合いに出される Philosophy for Children (P4C) などがある。
 続いて永井氏は、哲学プラクティスとサルトルとの接合点あるいは相違点について討究した。彼女は、「市民」が「自ら」、「哲学」するという哲学プラクティスのような試みに対してサルトルは関心があったのかと問いかける。なぜならば、氏によれば、サルトルには「知識人」としての側面が強く、大衆との乖離が拭い去れず、かろうじて、「アンガジュマン」という、非常に遠回りなかたちで言い表すのみにとどまったからである。
 さらに永井氏は、哲学プラクティスとサルトル研究の接合/相違を超えて、市民へと開かれた場である国際哲学コレージュと哲学プラクティスとの接合ならびに相違についても言及した。国際哲学コレージュはあくまで「若手研究者が自らの研究を市民に訴える場」であり、ここもまた市民自らが主体となって哲学する場ではない。ここで永井氏は、市民とは誰か、知識人とは誰か、研究者とは誰かという古典的かつ決定的な問いを改めて投げかけるのである。
 しかしながら、こうした哲学プラクティスの試みには強い反発も起こっている。永井氏はソーテに対する批判として、市民が「自分で考える」ことについて、自己の意見や感情や好みの単なる表明の権利とみなしているとする、リュック・フェリーとアラン・ルノーの立場を取り上げた。
 最後に永井氏は、サルトルから影響を受けたとされる、ブラジルの教育者・哲学者であるパウロ・フレイレとサルトルとの関係について論じることで、今回の氏の発表のテーマについて可能性を拓いた。サルトルもフレイレも、ラディカルであることは批判的なことであり、人間を自由に解放すること、自由とは人間が自ら選び取り、はっきりとした客観的な現実を変革するための努力とコミットを行うべきだとする点では共通しているが、そのために対話や言語教育を必要とすると主張するフレイレは、ここでサルトルと思想的に意見を異にしている。フレイレにとっては、対話とは世界を媒介する人間同士の出会いであり、世界を「引き受ける」ためのものなのである。
 永井氏の発表に対しては、フロアよりさまざまな観点から質疑がなされて議論が白熱したが、ここでは措く。ただ司会者として一言付け加えるならば、やはりサルトルの教育論というテーマは、50年代のサルトルと共産主義との関係、とりわけ「共産主義者と平和」に見られる「党」と「プロレタリア」、さらには「活動家」との関係と結びつけて考えられないだろうか。
 いずれにしても、永井氏の今回の発表は、サルトル研究の地平を大きく更新するものであり、今後のサルトル研究全体の展望を期待させる非常に意義深い発表だったのは疑いえない。(竹本研史)


ジル・フィリップ氏特別講演
「文体を分析する---サルトルの『アルブマルル女王』をめぐって」
Gilles Philippe, « Analyser les styles : autour de La Reine Albemarle de J.-P. Sartre »

この講演の前日に『レ・タン・モデルヌ』誌の通算第700号が刊行されたが、その巻頭を飾ったのが、ジル・フィリップ氏の手による、『アルブマルル女王』の新たな草稿の発表である。この断片はイタリア日記の冒頭をなすと思われるローマ到着からなり、ナポリのセクションから始まると思われていたこれまでの理解を覆す発見である。ジル・フィリップ氏の講演はこの新資料を踏まえ、この「未だサルトル研究者にも十分には知られていない企て」をサルトルの他の著作との関連において、とりわけ文体の側面から浮き彫りにしていく。
まず、日記のプロトコル(作法)という点から、『嘔吐』のロカンタンの日記、『戦中日記』との比較がなされた。とりわけ動詞の時制への着目があり、この未完の書がもっぱら現在形によって書かれているのは、知覚と記述の同時性を示すためとされる。
 ついで、メモのプロトコルという観点から、この草稿に溢れる断片的記述が論じられた。語句が投げ出されたまま文として完成しないセグメントやコロン(:)の使用が俎上に置かれ、事物が意識に現れてくる様相に応じて、無冠詞、不定冠詞、定冠詞が使い分けられているという冠詞の用法にまで議論は及んだ。
さらに重要なのはアナロジーのプロトコルである。これはサルトルが、ソルボンヌに提出した論文(メモワール)で扱った多重知覚(surperception)がキーワードとなる。これは現在の知覚に、過去の回想が伴う現象を示す(この論文はÉtudes sartriennes に掲載予定とのこと)。この術語そのものはサルトル哲学から消えるが、こうした体験はイタリア紀行の冒頭から頻出する。さらにここでは、『アルブマルル女王』とほぼ同時期に執筆された『聖ジュネ』が召喚された。隠喩に満ちたヴェネツィアの断章に認められるのは、『聖ジュネ』で検討されたジュネの詩的散文と同質のものではないだろうか、と。
このように、ジル・フィリップ教授による特別講演は、新資料を駆使しつつ、該博な知識による幅広い視野から『アルブマルル女王』の精緻な読解を示すものであり、研究の最前線に触れる歓びを与えてくれるものであった。(尚、この翻訳は、『立教大学 フランス文学』に掲載予定)(黒川学)



サルトル関連文献
・ ジャン=ポール・サルトル&ベニィ・レヴィ『いまこそ、希望を』海老坂武訳、2019年
・ ジャック・ランシエール『哲学者とその貧者たち』松葉祥一・上尾真道・澤田哲生・箱田徹訳、航思社、2019.
・ 野崎歓(編著)『フランス文学を旅する60章』明石書店、2018年
・ 沼田千恵「後期サルトルの倫理思想 : 欲求と実践の概念をめぐって」『同志社哲學年報』 (41), 37-53, 2018.

理事会からのお知らせ
・ 次回のサルトル学会例会は、7月上旬に法政大学にて開催予定です。
・ 日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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第42回研究例会 発表要旨 [研究例会のお知らせ]

12月8日に開催の第41回研究例会(14 :15~ 立教大学 5号館5209教室)の、永井玲衣氏(上智大学、立教大学)の発表要旨が届きましたので、掲載致します。
他の発表者の要旨も、届き次第掲載する予定です。


研究発表
14:15~15:00
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学)
「『存在と無』における形而上学について」
 司会:森功次(大妻女子大学)

15:15~16:15
発表者:永井玲衣(上智大学、立教大学)
「哲学プラクティスとサルトル」
司会:竹本研史(法政大学)

 近年、アメリカのリップマンを創始者とする「子どもの哲学(philosophy for children, P4C)」といった哲学教育が、国内でも広く普及する様相を見せている。また、フランスのマルク・ソーテが90年代に拓いた「哲学カフェ」は、00年代に日本に持ち込まれ、今や全国の数百カ所で行われている程に浸透した。国内ではまだメジャーではないものの、80年代ではドイツで、秘教的なあり方へと傾斜してしまった哲学への批判として、実践的な「術」として「哲学カウンセリング」といった方法論も提起され、多方面でその研究が為されている。こういった、哲学的なテーマについて共同で探求を行う活動、もしくは哲学そのものを実践的なものとして位置づけ直す試みは「哲学プラクティス」と総称され、全世界で実践・研究が行われている。
 以上のような試みについて「行動の哲学者」であるサルトルは、どのように接合し得るだろうか。もしくは、どのような影響を与えてきたと考えられるだろうか。本発表は、未だ広くは知られていない哲学プラクティスの状況を概観し、「知識人」サルトルとの接合点を模索しつつ、フロアとのディスカッションの契機としたい。



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