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日本サルトル学会会報第73号 [会報]

GES 報告

2022年6月24・25日(金・土)に下記の通り、GES のコロックがパリで開催されました。以下、当コロックに参加した澤田直氏・関大聡氏による報告文を掲載いたします。

Colloque du GES – 24 & 25 Juin 2022 澤田 直・関 大聡

24 juin

1. Stéphanie ROZA « L’humanisme sartrien et le rôle pivot des Réflexions sur la Question juive »
一般的に『ユダヤ人問題に関する考察』は、サルトルの倫理思想において展開点となった作品であり、彼の知的アンガージュマンの第一歩となったとされる。政治思想を専攻し、著書も多数あるステファニー・ロザ氏は、それが『現代』誌の「創刊の辞」で表明されるサルトル流のヒューマニズムの出発点となったという仮定から論を始めた。先行研究におけるこの作品に関する評価を概観した後、1944年の時点で知られていた情報をもとにサルトルは、ユダヤ人のフランスにおける状況を哲学的、倫理的、政治的に考察した点に意義があると強調。この時点ではナチスのユダヤ人殲滅作戦の全容は知られていなかったが、サルトルはその重要性に「早くから着目し、他に先駆けて包括的な分析をした点を評価するべきとした。また、サルトルにおける他者問題についても、後の、黒人問題、植民地問題、さらに広く抑圧の分析へとつながるきっかけとなったと指摘した。コンパクトにまとまった明晰な発表ではあったが、サルトル研究を専門とする者から見ると新たな要素は少なかった。ジャン=フランソワ・ルエットからは、戦前の「ある指導者の幼年時代」のみならず、『自由への道』におけるユダヤ人の表象などについても触れるべきだろうというコメントがあった。
2. Céline MARTY « L’existentialisme marxiste de la Critique de la Raison dialectique : une critique subjectiviste du capitalisme »  二部構成の発表で、前半は『弁証法的理性批判』における主体の重要性を、マルクス主義の他のアプローチと比較して強調し、後半はサルトルから大きな影響を受けたアンドレ・ゴルツが、サルトルの実存主義的マルクス主義をどのように継承したかについてのサーベイが行われた。ゴルツが重要視したのは、とりわけsujetの問題であるという発表者の指摘は通常の見解と一致しており、新たな知見をもたらしたとは言えないが、階級闘争の問題に関して、1980年のAdieux au prolétariatにおけるnon-classe de non-travailleursという観念の重要性を強調し、ゴルツがサルトルから出発しながら、労働に関する新たな観点を開いたという指摘は重要だろう。最後にサルトル、ゴルツと発展した路線は、現在ではChristian ArnspergerのCritique de l’existence capitalisteやÉthique de l’existence post-capitaliste : Pour un militantisme existentielに引き継がれているという示唆で終わったが、具体的な分析があれば、より充実したと思われる。

3. Damien CHAPEAU « Les structures du colonialisme dans la Critique de la raison dialectique (une réflexion sur le problème du racisme systémique) »
『弁証法的理性批判』には、注の形ではあるが、植民地問題についての重要な指摘がいくつかある。そこに注目した発表者は、そこで展開された制度としての植民地問題を「植民地とはひとつの制度である」などと結びつけ、フランス革命を例とした集団の問題としてのみ語られることが多い『弁証法的理性批判』に新たな光を当てようとした。視点は興味深いが、準備不足が明らかで話が結論にいたらず堂々巡りの観があったのは残念だった。

4. Amirpasha TAVAKKOLI « Sartre, Fanon et la lutte révolutionnaire dans l’Iran des années 70 »
 1950年からサルトルがイランでどのように紹介されたのかをとりわけファノンの『地に呪われた者』とそれへのサルトルの序文の例を中心に紹介する発表で、イランの状況がわかって興味深かった。サルトルはまず短篇小説や演劇が紹介され(Sadegh Hedayat, 1903-1951)、新たな文学観のモデルとなったが、その後、政治的な現状批判に対する新たな概念装置を提供してくれる思想家として導入されたという。中心になったのはパリに住み、サルトルやファノンとも交流のあった社会学者・哲学者で活動家のAli Shariati (1933-77)。彼はアルジェリア戦争さなかの1959年に奨学金を得てパリに学び、そこでFLNなどともコンタクトをもった人物。パフラヴィー朝末期のモハンマド・レザー・パフラヴィー(いわゆるパーレビ国王)の推進する近代化(白色革命)の状況でサルトル思想が知識人に及ぼした影響が紹介された。ファノンのテクストのペルシャ語訳では宗教に関する側面が削除されたとか、サルトルのテクストには複数の地下出版があったなど興味深いエピソードは少なくなかったが、具体的なサルトルやファノン思想の影響のインパクトについてはイラン情勢を知らない者にとっては実感することがやや難しかった。

5. Clémence Mercier « Sartre et Fanon, l’entrelacs de deux œuvres et les effets(-retours) du territoire algérien-phénoménologie, psychiatrie et lutte anticoloniale »
 発表者は冒頭で「フランスのアラブ人である体験」を語るLouisa YousfiのエッセイRester barbareを長く引用し、人種差別や支配/被支配の過程における「体験」の重要性を喚起した。それは言うまでもなく発表の主題であるフランツ・ファノンにも共通する点であり、理論的な議論は生きられた体験と不可避に接続している。この点を強調した上で、著者はファノンの思想とサルトルの思想の交錯について議論を進めたが、『ユダヤ人問題』や眼差しの問題構成が人種体験の言語化に及ぼした影響は評価しつつも、『地に呪われた者』の序文がファノンから言葉を奪い、彼を沈黙させた点には批判的である。自身も支配/被支配の構造のなかで支配的な言動をとりかねないことへの「注意深さvigilance」を求める発表の趣旨は、今日の研究者としてファノンのテクストに向き合い、その遺産を継承する可能性を模索する点で、非常に倫理的な志向として受け取られた。

6. Maririta Guerbo « La mauvaise foi du subalterne. Rituel et résistance politique, de l’antholopologie des années 1950 à Franz Fanon »
 サルトルの哲学とイタリアの人類学者エルネスト・デ・マルティーノ(Ernesto de Martino:1908-1965)の交点を、演技、自己欺瞞、儀礼、憑依といった人類学的主題に求める発表である。同時にミシェル・レリス、フランツ・ファノン、アントニオ・グラムシといった同時代の知識人も召喚され、当時の哲学と人間科学(人類学)における相互影響的な関係が描き出された。ここでも政治は蚊帳の外ではなく、とりわけ植民地支配や権力構造において、憑依的な演技が果たす役割が注目される。サルトルとマルティーノは、いずれも戦後の脱植民地化の動きに触発され、互いに共鳴可能な議論の土台を作り上げた。サルトルと人間科学、人類学の関係を問う議論自体は珍しくないが、本発表ではイタリアの人類学という必ずしもよく知られているとは言えない視角からのアプローチに教えられる所が多かった。

7. Fabio Recchia « La femme, le primitif, l’enfant et tous les autres. Sartre, Beauvoir, Durkheim et Mauss en dialogue autour du problème de l’articulation entre les différentes formes de la domination »
 元の発表タイトルは「幼少期の問題からインターセクショナリティの問題へ。サルトルとボーヴォワールによる同時代の社会科学への貢献」だったが、変更された。おそらく賢明な変更と言うべきで、発表者はボーヴォワールとサルトルが体現するフランス実存主義が、よく独我論的と批判されるのと異なり個人の社会的構成に十分な注意を払う点を強調し、社会において「女性や未開人、子供」が置かれる被抑圧的な状況にパラレルなものを見出していたと論じたが、発表後に質問者が鋭く指摘していたように、そのような並行性は交差性(インターセクショナル)を保証しないし、むしろ実態としては対立しかねない。さまざまな差別の間に構造的な並行性・相同性があるという指摘は、それら差別に固有の歴史、特殊性があるという交差性概念の前提を押し隠しかねないからだ。他方で、サルトルやボーヴォワールに見られる並行性・相同性の指摘には、切り離された集団に閉じこめられていた被差別者間の連帯を促すという側面があったはずで、その普遍主義的傾向は単に時代遅れとして切り捨てられるべきものでもない。両者の緊張関係を見極めた上でバランスをとるような議論の展開をさらに期待したいと思う。

8. Hadi Rizk « Contre les identités essentialisées et les différences indifférentes, l’actualité théorique de l’universel concret »
 サルトルやボーヴォワールの思想の核心にある「特異的普遍」の理論的なアクチュアリティを、ジュディス・バトラーによるフェミニズムの問い直しに即して論じた発表。発表者によれば、バトラーの思想は自然主義的な見方を構築主義により解体しつつも、同時に「身体や性における構築されないものとは何か」を問う契機を含んでいるのだが、その存在論的な探求を突き詰め得たとは言えない。ところで、サルトルやボーヴォワールの「特異的普遍」、とりわけその屋台骨をなす「事実性facticité」の概念は、まさにこの「構築されないもの」であるのだが、同時にこの事実性は常に対自に現前する形でしか現れないという意味で、「つねに構築された-構築されないもの」である。ここにバトラーが陥っている(とされる)自然主義と構築主義のアポリアを越える理論的な発条を見出すのが著者の目論見と報告者は理解した。このように事実性-唯物論の文脈で議論を立てるなら、おそらくバトラーの『問題=物質となる身体』が主要な対話相手になると思うが、著者がその議論をどこまで仔細に読み込んだかは発表の限り判然としない。むしろイリガライやモニック・ウィティッグをバトラーの議論の対抗馬として立てる方向に向かったようだが、そのあたりは内容の濃密さも相俟ってやや争点を掴みにくいように感じた。


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25 juin 9. Grégory Cormann & Jérémy Hamers « Intersections de Sartre en 1943. Le scénario Typhus entre Amok de Stefan Zweig et Les Orgueilleux d’Yves Allégret »
 サルトルのシナリオ『ティフス』をステファン・ツヴァイクの短篇「アモクロイファー」との類似関係、さらにはイヴ・アレグレによる映画化へとつなげる内容の濃い発表。まずは、グレゴリー・コールマンが、3作品における細部のちがいを具体的な例をあげて、分析した。たとえば、豚の頭と羊の頭のちがいなど。また、サルトルのチフスは、映画のシナリオとしてはきわめて珍しくト書きが多いことに着目し、シナリオらしくないシナリオであると指摘。その後、ジェレミー・アメールが、サルトルのシナリオとその映画化Les Orgueilleuxに共通のテーマとして、脱植民地化、堕胎(隠れた主題)、男性による女性支配をとりあげ、詳しく分析した。たいへん充実した発表だった。

10. John Ireland « Malraux, Camus, Sartre : Existentialisme et colonialisme »
 発表タイトルとは異なり、とりわけ、マルローと植民地との関係に絞った発表で、カミュについてはほとんど触れなかった。戦前のマルロー(共産党のシンパ、冒険家)と戦後のマルローには、断絶があると言えるが、両者をどのように結びつけるか。発表者は、『戦中日記』にマルローへの言及があることや、『嘔吐』におけるインドシナの彫刻にマルローへの暗示があることを指摘。また『冒険家』への序文における冒険の定義などに言及した上で、マルローもサルトルもレジスタンスについての小説を書くことができなかったことの意味を問う。
 マルローの『王道』の英訳を取り上げ、そこには二つの序文がつけられていることを指摘したうえで、インドシナ、現地民は虫に喩えられているのに対し、白人の主人公は栄光に輝く形で書かれている。のみならず、そこにはオリエンタリズムが見て取れる。植民地が処女地として描かれるだけでなく、そこで出会う他者は女性と見なされる。アジア人は画一化されていて、個人として描かれていない。リオタールのマルロー論にも触れつつ、マルローにおいては、人生はそれを語ることに隷属することを望まないといった指摘や、同時代の文学で、インドシナを扱った小説は100点を超えるといった情報も貴重であった。

11. Frédéric Cossutta « Le rôle conceptualisant des marques typographiques dans l’écriture sartrienne de L’Être et le Néant : traits d’union, tirets, italiques, guillemets, parenthèses »
 『存在と無』には、ハイフン、ダッシュ、イタリック、ギュメ、括弧など多くの記号が用いられているが、初版ではぎっしり詰まった、読みにくいレイアウトのなかで、これらの記号が読者にとっては注意を引きつける役割を果たしている。これらの記号が出てくることで読むスピードが落ちたり、ブレーキをかけられたり、色合いがつけられるという効果がある。それだけでなく、これらによって、その言葉は概念として明確化される。つまり、これによって概念が主題化される。また、ハイフンによって新しい概念が作られるというのが発表者の主張であった。ただ、それがどこまで哲学的思索の展開に根源的に寄与しているかについては十分な検証がなされているかについては疑問の余地が残るように思われた。

12. Yohann Douet « L’idéologie dans L’Idiot de la famille »
 『家の馬鹿息子』で展開されている貴族とブルジョワジーにおけるイデオロギーの違いを整理する発表。19世紀前半の貴族の主要なイデオロギーはキリスト教に根ざし、19世紀後半に台頭するブルジョワジーの功利主義と対立する。発表者は、「否定的なユマニスム」というテーマにも着目しつつ、第3の勢力として、有識選挙人をサルトルが強調した点に着目、「〈無〉の騎士」、精神としての貴族という位置づけと芸術との関係、当時の支配的なイデオロギーと科学の関係などを丁寧に整理した。
13. Gabriel Maheo « Les chemins de l’imaginaire : l’acteur »
 『キーン』における俳優の概念を再検討し、非現実の問題を「想像の子供」という問題系に接続。それを『イマジネール』の現象学との関連で分析するだけでなく、ディドロの提示した俳優のパラドクスも想起しつつ考察した。さらには、『家の馬鹿息子』での想像力の扱いを、サルトルの俳優論全般との関係で整理した。

14. Alexis Chabot « Épileptiqe liberté »
 「癲癇(てんかん)的な自由」。発表タイトルの逆説は明らかで、サルトルは『家の馬鹿息子』でフローベールの発作をてんかんではなくヒステリー性の神経症として扱っていた。ルネ・デュメニルによっても唱えられていたこの神経症説は今日の病跡学的見地からは否定されており、サルトルの大著がフローベール研究者に信頼を置かれない理由のひとつとなっている。発表者の試みはこうした趨勢に真っ向から異を唱えることにはなく、むしろてんかんや神経症の病理史・文学史(ヒポクラテスからフロイトのドストエフスキー論、プルーストへ)を辿りながら、それをフローベールの想像界のなかに位置づけられる、ある種の「想像の病maladie imaginaire」として提示することにあったようだ。そうなると、サルトルの議論は、「(フローベールの)フィクションについての(サルトルの)フィクション」として整理されることになり、ここにふたりの作家の想像界がぶつかり合う。発表者の論調はいつもながら雄弁で、報告者などはいつも批判的に検討できないまま追いかけるので精一杯だが、この批判的検討の作業のためには『家の馬鹿息子』を読み返す(!)ことが不可欠だろう。その必要性を実感させるという意味でも、同書をめぐるセッションを締め括るに相応しいものであった。


理事会からのお知らせ

・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。

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