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日本サルトル学会会報第58号 [会報]

研究例会のご報告
第42回研究例会を下記の通り開催致しましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では、赤阪辰太郎氏、永井玲衣氏による研究発表と、ジル・フィリップ氏による特別講演が行われました。以下、報告文を掲載致します。

第42回研究例会
日時:2018年12月8日(土) 14 :15~
場所:立教大学 5号館5209教室

研究発表
赤阪辰太郎(大阪大学)
「『存在と無』における形而上学について」

赤阪氏は『存在と無』の現象学的存在論の根底でその経験を支えている次元、すなわち形而上学はどうなっているのか、という関心から、前期サルトルの著作を読み解いた。
赤阪氏はこの作業を進めるにあたって、哲学的著作のみならず、文芸批評も考察の対象に入れる。というのも、サルトルは文芸批評を執筆する際、著者の形而上学に着目するという手法をしばしば採用していたからである。赤阪氏によれば、サルトルは、〈ひとは各々の形而上学をもっており、その形而上学はその主体のありかたに相関して形成される〉と考えていた。したがって、その人の形而上学を明らかにすることは、当人の主体のあり方を明らかにすることにつながるのである。
 今回の発表では、赤阪氏は「形而上学」という語の用法を3つの点にまとめた。
第一に「所与の解釈を歪める思弁としての形而上学」である。この意味での用法は『想像力』に見られる。サルトルは心理学者たちを批判する中でこの「形而上学」という語を使っていた。サルトルはそこで、心理学者たちが自分たちの形而上学を無批判に採用し、それをもとに経験的所与の解釈を歪めている点を批判していたのである。
第二の用法は「文学的地平における形而上学」である。文芸批評を執筆する中で、サルトルは、小説作品から読み取れる形而上学は作品内の要素に統一性を与える原理として活用されるべきだ、という考えをとっている。これは小説作品においては形而上学と技法が一致すべきだ、という規範的な考えともいえよう。赤阪氏はさらに『文学とは何か』などの著作を読み解きつつ、作品の形而上学は、作家が置かれた状況への応答でもある、と述べた。
最後に赤阪氏は、『存在と無』に見られる用法として、「根源的な偶然性を語る論理」としての形而上学、という用法をとりあげた。赤阪氏はここで形而上学を、一種の「問いかけをし、答えを引き出す手続き」として解釈する。ここで赤阪氏は、サルトルの「形而上学」という言葉づかいを分析するというよりは、『存在と無』を直接読解し、サルトル自身の形而上学を明らかにしようとする作業に踏み出すのだが、今回の発表ではこの部分の作業はまだ不十分なままにとどまっていたように思われる。現在執筆中の博士論文では、『存在と無』での「形而上学」の用法をより詳細に分析し、サルトルの形而上学観が明らかにされるだろう。
前期サルトルにおいて、「形而上学」という用語の使い方はたしかにいろいろと揺れが見られるものであり、その言葉づかいのぶれを分析することは、前期サルトル理解に多いに資する作業となるだろう(報告者としては、とりわけ「サルトルがフッサール現象学をどう受容したのか」という観点からこの作業を進めることは、サルトルの現象学観を理解する上で非常に重要な作業だろうと期待している)。また、文学批評などとつきあわせながらその形而上学観を考察しようとするチャレンジングな試みについては、当日の質疑の中でも期待が寄せられていた。赤阪氏の今後の博士論文に期待したい。(森功次)


永井玲衣(上智大学、立教大学)
「哲学プラクティスとサルトル」

永井玲衣氏の発表「哲学プラクティスとサルトル」は、氏が近年全国で非常に精力的に活動している哲学プラクティスと、サルトルとの接合点ないし相違点について検討したものである。前回第41回例会での加藤誠之氏の発表「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」に続き、今回もサルトルと教育との関係について問うたものとなった。
 さて後述するように、哲学プラクティスのなかには、哲学カフェがある。私たちにとっては、哲学カフェで行われる議論と、サルトルたちがドゥ・マゴやカフェ・フロールを初めとするカフェで行なっていた議論とでは、同じカフェを舞台に哲学の議論を行なってはいるものの、かなり位相が異なって見える。これについて永井氏はどのように考えるのだろうか。
 発表にあたり、永井氏はまず、具体的な現在の取り組みも併せて哲学プラクティスに関する紹介を行なった。哲学プラクティスには、①ゲルト・アルヘンバッハにより開設された Philosophical Counseling、②レオナルト・ネルゾンにより始まった Socratic Dialogue、③マルク・ソーテにより開始された Philosophical Café、④マシュー・リップマンの取り組みやフランスのドキュメンタリー映画『ちいさな哲学者たち』などが引き合いに出される Philosophy for Children (P4C) などがある。
 続いて永井氏は、哲学プラクティスとサルトルとの接合点あるいは相違点について討究した。彼女は、「市民」が「自ら」、「哲学」するという哲学プラクティスのような試みに対してサルトルは関心があったのかと問いかける。なぜならば、氏によれば、サルトルには「知識人」としての側面が強く、大衆との乖離が拭い去れず、かろうじて、「アンガジュマン」という、非常に遠回りなかたちで言い表すのみにとどまったからである。
 さらに永井氏は、哲学プラクティスとサルトル研究の接合/相違を超えて、市民へと開かれた場である国際哲学コレージュと哲学プラクティスとの接合ならびに相違についても言及した。国際哲学コレージュはあくまで「若手研究者が自らの研究を市民に訴える場」であり、ここもまた市民自らが主体となって哲学する場ではない。ここで永井氏は、市民とは誰か、知識人とは誰か、研究者とは誰かという古典的かつ決定的な問いを改めて投げかけるのである。
 しかしながら、こうした哲学プラクティスの試みには強い反発も起こっている。永井氏はソーテに対する批判として、市民が「自分で考える」ことについて、自己の意見や感情や好みの単なる表明の権利とみなしているとする、リュック・フェリーとアラン・ルノーの立場を取り上げた。
 最後に永井氏は、サルトルから影響を受けたとされる、ブラジルの教育者・哲学者であるパウロ・フレイレとサルトルとの関係について論じることで、今回の氏の発表のテーマについて可能性を拓いた。サルトルもフレイレも、ラディカルであることは批判的なことであり、人間を自由に解放すること、自由とは人間が自ら選び取り、はっきりとした客観的な現実を変革するための努力とコミットを行うべきだとする点では共通しているが、そのために対話や言語教育を必要とすると主張するフレイレは、ここでサルトルと思想的に意見を異にしている。フレイレにとっては、対話とは世界を媒介する人間同士の出会いであり、世界を「引き受ける」ためのものなのである。
 永井氏の発表に対しては、フロアよりさまざまな観点から質疑がなされて議論が白熱したが、ここでは措く。ただ司会者として一言付け加えるならば、やはりサルトルの教育論というテーマは、50年代のサルトルと共産主義との関係、とりわけ「共産主義者と平和」に見られる「党」と「プロレタリア」、さらには「活動家」との関係と結びつけて考えられないだろうか。
 いずれにしても、永井氏の今回の発表は、サルトル研究の地平を大きく更新するものであり、今後のサルトル研究全体の展望を期待させる非常に意義深い発表だったのは疑いえない。(竹本研史)


ジル・フィリップ氏特別講演
「文体を分析する---サルトルの『アルブマルル女王』をめぐって」
Gilles Philippe, « Analyser les styles : autour de La Reine Albemarle de J.-P. Sartre »

この講演の前日に『レ・タン・モデルヌ』誌の通算第700号が刊行されたが、その巻頭を飾ったのが、ジル・フィリップ氏の手による、『アルブマルル女王』の新たな草稿の発表である。この断片はイタリア日記の冒頭をなすと思われるローマ到着からなり、ナポリのセクションから始まると思われていたこれまでの理解を覆す発見である。ジル・フィリップ氏の講演はこの新資料を踏まえ、この「未だサルトル研究者にも十分には知られていない企て」をサルトルの他の著作との関連において、とりわけ文体の側面から浮き彫りにしていく。
まず、日記のプロトコル(作法)という点から、『嘔吐』のロカンタンの日記、『戦中日記』との比較がなされた。とりわけ動詞の時制への着目があり、この未完の書がもっぱら現在形によって書かれているのは、知覚と記述の同時性を示すためとされる。
 ついで、メモのプロトコルという観点から、この草稿に溢れる断片的記述が論じられた。語句が投げ出されたまま文として完成しないセグメントやコロン(:)の使用が俎上に置かれ、事物が意識に現れてくる様相に応じて、無冠詞、不定冠詞、定冠詞が使い分けられているという冠詞の用法にまで議論は及んだ。
さらに重要なのはアナロジーのプロトコルである。これはサルトルが、ソルボンヌに提出した論文(メモワール)で扱った多重知覚(surperception)がキーワードとなる。これは現在の知覚に、過去の回想が伴う現象を示す(この論文はÉtudes sartriennes に掲載予定とのこと)。この術語そのものはサルトル哲学から消えるが、こうした体験はイタリア紀行の冒頭から頻出する。さらにここでは、『アルブマルル女王』とほぼ同時期に執筆された『聖ジュネ』が召喚された。隠喩に満ちたヴェネツィアの断章に認められるのは、『聖ジュネ』で検討されたジュネの詩的散文と同質のものではないだろうか、と。
このように、ジル・フィリップ教授による特別講演は、新資料を駆使しつつ、該博な知識による幅広い視野から『アルブマルル女王』の精緻な読解を示すものであり、研究の最前線に触れる歓びを与えてくれるものであった。(尚、この翻訳は、『立教大学 フランス文学』に掲載予定)(黒川学)



サルトル関連文献
・ ジャン=ポール・サルトル&ベニィ・レヴィ『いまこそ、希望を』海老坂武訳、2019年
・ ジャック・ランシエール『哲学者とその貧者たち』松葉祥一・上尾真道・澤田哲生・箱田徹訳、航思社、2019.
・ 野崎歓(編著)『フランス文学を旅する60章』明石書店、2018年
・ 沼田千恵「後期サルトルの倫理思想 : 欲求と実践の概念をめぐって」『同志社哲學年報』 (41), 37-53, 2018.

理事会からのお知らせ
・ 次回のサルトル学会例会は、7月上旬に法政大学にて開催予定です。
・ 日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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