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日本サルトル学会会報第73号 [会報]

GES 報告

2022年6月24・25日(金・土)に下記の通り、GES のコロックがパリで開催されました。以下、当コロックに参加した澤田直氏・関大聡氏による報告文を掲載いたします。

Colloque du GES – 24 & 25 Juin 2022 澤田 直・関 大聡

24 juin

1. Stéphanie ROZA « L’humanisme sartrien et le rôle pivot des Réflexions sur la Question juive »
一般的に『ユダヤ人問題に関する考察』は、サルトルの倫理思想において展開点となった作品であり、彼の知的アンガージュマンの第一歩となったとされる。政治思想を専攻し、著書も多数あるステファニー・ロザ氏は、それが『現代』誌の「創刊の辞」で表明されるサルトル流のヒューマニズムの出発点となったという仮定から論を始めた。先行研究におけるこの作品に関する評価を概観した後、1944年の時点で知られていた情報をもとにサルトルは、ユダヤ人のフランスにおける状況を哲学的、倫理的、政治的に考察した点に意義があると強調。この時点ではナチスのユダヤ人殲滅作戦の全容は知られていなかったが、サルトルはその重要性に「早くから着目し、他に先駆けて包括的な分析をした点を評価するべきとした。また、サルトルにおける他者問題についても、後の、黒人問題、植民地問題、さらに広く抑圧の分析へとつながるきっかけとなったと指摘した。コンパクトにまとまった明晰な発表ではあったが、サルトル研究を専門とする者から見ると新たな要素は少なかった。ジャン=フランソワ・ルエットからは、戦前の「ある指導者の幼年時代」のみならず、『自由への道』におけるユダヤ人の表象などについても触れるべきだろうというコメントがあった。
2. Céline MARTY « L’existentialisme marxiste de la Critique de la Raison dialectique : une critique subjectiviste du capitalisme »  二部構成の発表で、前半は『弁証法的理性批判』における主体の重要性を、マルクス主義の他のアプローチと比較して強調し、後半はサルトルから大きな影響を受けたアンドレ・ゴルツが、サルトルの実存主義的マルクス主義をどのように継承したかについてのサーベイが行われた。ゴルツが重要視したのは、とりわけsujetの問題であるという発表者の指摘は通常の見解と一致しており、新たな知見をもたらしたとは言えないが、階級闘争の問題に関して、1980年のAdieux au prolétariatにおけるnon-classe de non-travailleursという観念の重要性を強調し、ゴルツがサルトルから出発しながら、労働に関する新たな観点を開いたという指摘は重要だろう。最後にサルトル、ゴルツと発展した路線は、現在ではChristian ArnspergerのCritique de l’existence capitalisteやÉthique de l’existence post-capitaliste : Pour un militantisme existentielに引き継がれているという示唆で終わったが、具体的な分析があれば、より充実したと思われる。

3. Damien CHAPEAU « Les structures du colonialisme dans la Critique de la raison dialectique (une réflexion sur le problème du racisme systémique) »
『弁証法的理性批判』には、注の形ではあるが、植民地問題についての重要な指摘がいくつかある。そこに注目した発表者は、そこで展開された制度としての植民地問題を「植民地とはひとつの制度である」などと結びつけ、フランス革命を例とした集団の問題としてのみ語られることが多い『弁証法的理性批判』に新たな光を当てようとした。視点は興味深いが、準備不足が明らかで話が結論にいたらず堂々巡りの観があったのは残念だった。

4. Amirpasha TAVAKKOLI « Sartre, Fanon et la lutte révolutionnaire dans l’Iran des années 70 »
 1950年からサルトルがイランでどのように紹介されたのかをとりわけファノンの『地に呪われた者』とそれへのサルトルの序文の例を中心に紹介する発表で、イランの状況がわかって興味深かった。サルトルはまず短篇小説や演劇が紹介され(Sadegh Hedayat, 1903-1951)、新たな文学観のモデルとなったが、その後、政治的な現状批判に対する新たな概念装置を提供してくれる思想家として導入されたという。中心になったのはパリに住み、サルトルやファノンとも交流のあった社会学者・哲学者で活動家のAli Shariati (1933-77)。彼はアルジェリア戦争さなかの1959年に奨学金を得てパリに学び、そこでFLNなどともコンタクトをもった人物。パフラヴィー朝末期のモハンマド・レザー・パフラヴィー(いわゆるパーレビ国王)の推進する近代化(白色革命)の状況でサルトル思想が知識人に及ぼした影響が紹介された。ファノンのテクストのペルシャ語訳では宗教に関する側面が削除されたとか、サルトルのテクストには複数の地下出版があったなど興味深いエピソードは少なくなかったが、具体的なサルトルやファノン思想の影響のインパクトについてはイラン情勢を知らない者にとっては実感することがやや難しかった。

5. Clémence Mercier « Sartre et Fanon, l’entrelacs de deux œuvres et les effets(-retours) du territoire algérien-phénoménologie, psychiatrie et lutte anticoloniale »
 発表者は冒頭で「フランスのアラブ人である体験」を語るLouisa YousfiのエッセイRester barbareを長く引用し、人種差別や支配/被支配の過程における「体験」の重要性を喚起した。それは言うまでもなく発表の主題であるフランツ・ファノンにも共通する点であり、理論的な議論は生きられた体験と不可避に接続している。この点を強調した上で、著者はファノンの思想とサルトルの思想の交錯について議論を進めたが、『ユダヤ人問題』や眼差しの問題構成が人種体験の言語化に及ぼした影響は評価しつつも、『地に呪われた者』の序文がファノンから言葉を奪い、彼を沈黙させた点には批判的である。自身も支配/被支配の構造のなかで支配的な言動をとりかねないことへの「注意深さvigilance」を求める発表の趣旨は、今日の研究者としてファノンのテクストに向き合い、その遺産を継承する可能性を模索する点で、非常に倫理的な志向として受け取られた。

6. Maririta Guerbo « La mauvaise foi du subalterne. Rituel et résistance politique, de l’antholopologie des années 1950 à Franz Fanon »
 サルトルの哲学とイタリアの人類学者エルネスト・デ・マルティーノ(Ernesto de Martino:1908-1965)の交点を、演技、自己欺瞞、儀礼、憑依といった人類学的主題に求める発表である。同時にミシェル・レリス、フランツ・ファノン、アントニオ・グラムシといった同時代の知識人も召喚され、当時の哲学と人間科学(人類学)における相互影響的な関係が描き出された。ここでも政治は蚊帳の外ではなく、とりわけ植民地支配や権力構造において、憑依的な演技が果たす役割が注目される。サルトルとマルティーノは、いずれも戦後の脱植民地化の動きに触発され、互いに共鳴可能な議論の土台を作り上げた。サルトルと人間科学、人類学の関係を問う議論自体は珍しくないが、本発表ではイタリアの人類学という必ずしもよく知られているとは言えない視角からのアプローチに教えられる所が多かった。

7. Fabio Recchia « La femme, le primitif, l’enfant et tous les autres. Sartre, Beauvoir, Durkheim et Mauss en dialogue autour du problème de l’articulation entre les différentes formes de la domination »
 元の発表タイトルは「幼少期の問題からインターセクショナリティの問題へ。サルトルとボーヴォワールによる同時代の社会科学への貢献」だったが、変更された。おそらく賢明な変更と言うべきで、発表者はボーヴォワールとサルトルが体現するフランス実存主義が、よく独我論的と批判されるのと異なり個人の社会的構成に十分な注意を払う点を強調し、社会において「女性や未開人、子供」が置かれる被抑圧的な状況にパラレルなものを見出していたと論じたが、発表後に質問者が鋭く指摘していたように、そのような並行性は交差性(インターセクショナル)を保証しないし、むしろ実態としては対立しかねない。さまざまな差別の間に構造的な並行性・相同性があるという指摘は、それら差別に固有の歴史、特殊性があるという交差性概念の前提を押し隠しかねないからだ。他方で、サルトルやボーヴォワールに見られる並行性・相同性の指摘には、切り離された集団に閉じこめられていた被差別者間の連帯を促すという側面があったはずで、その普遍主義的傾向は単に時代遅れとして切り捨てられるべきものでもない。両者の緊張関係を見極めた上でバランスをとるような議論の展開をさらに期待したいと思う。

8. Hadi Rizk « Contre les identités essentialisées et les différences indifférentes, l’actualité théorique de l’universel concret »
 サルトルやボーヴォワールの思想の核心にある「特異的普遍」の理論的なアクチュアリティを、ジュディス・バトラーによるフェミニズムの問い直しに即して論じた発表。発表者によれば、バトラーの思想は自然主義的な見方を構築主義により解体しつつも、同時に「身体や性における構築されないものとは何か」を問う契機を含んでいるのだが、その存在論的な探求を突き詰め得たとは言えない。ところで、サルトルやボーヴォワールの「特異的普遍」、とりわけその屋台骨をなす「事実性facticité」の概念は、まさにこの「構築されないもの」であるのだが、同時にこの事実性は常に対自に現前する形でしか現れないという意味で、「つねに構築された-構築されないもの」である。ここにバトラーが陥っている(とされる)自然主義と構築主義のアポリアを越える理論的な発条を見出すのが著者の目論見と報告者は理解した。このように事実性-唯物論の文脈で議論を立てるなら、おそらくバトラーの『問題=物質となる身体』が主要な対話相手になると思うが、著者がその議論をどこまで仔細に読み込んだかは発表の限り判然としない。むしろイリガライやモニック・ウィティッグをバトラーの議論の対抗馬として立てる方向に向かったようだが、そのあたりは内容の濃密さも相俟ってやや争点を掴みにくいように感じた。


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25 juin 9. Grégory Cormann & Jérémy Hamers « Intersections de Sartre en 1943. Le scénario Typhus entre Amok de Stefan Zweig et Les Orgueilleux d’Yves Allégret »
 サルトルのシナリオ『ティフス』をステファン・ツヴァイクの短篇「アモクロイファー」との類似関係、さらにはイヴ・アレグレによる映画化へとつなげる内容の濃い発表。まずは、グレゴリー・コールマンが、3作品における細部のちがいを具体的な例をあげて、分析した。たとえば、豚の頭と羊の頭のちがいなど。また、サルトルのチフスは、映画のシナリオとしてはきわめて珍しくト書きが多いことに着目し、シナリオらしくないシナリオであると指摘。その後、ジェレミー・アメールが、サルトルのシナリオとその映画化Les Orgueilleuxに共通のテーマとして、脱植民地化、堕胎(隠れた主題)、男性による女性支配をとりあげ、詳しく分析した。たいへん充実した発表だった。

10. John Ireland « Malraux, Camus, Sartre : Existentialisme et colonialisme »
 発表タイトルとは異なり、とりわけ、マルローと植民地との関係に絞った発表で、カミュについてはほとんど触れなかった。戦前のマルロー(共産党のシンパ、冒険家)と戦後のマルローには、断絶があると言えるが、両者をどのように結びつけるか。発表者は、『戦中日記』にマルローへの言及があることや、『嘔吐』におけるインドシナの彫刻にマルローへの暗示があることを指摘。また『冒険家』への序文における冒険の定義などに言及した上で、マルローもサルトルもレジスタンスについての小説を書くことができなかったことの意味を問う。
 マルローの『王道』の英訳を取り上げ、そこには二つの序文がつけられていることを指摘したうえで、インドシナ、現地民は虫に喩えられているのに対し、白人の主人公は栄光に輝く形で書かれている。のみならず、そこにはオリエンタリズムが見て取れる。植民地が処女地として描かれるだけでなく、そこで出会う他者は女性と見なされる。アジア人は画一化されていて、個人として描かれていない。リオタールのマルロー論にも触れつつ、マルローにおいては、人生はそれを語ることに隷属することを望まないといった指摘や、同時代の文学で、インドシナを扱った小説は100点を超えるといった情報も貴重であった。

11. Frédéric Cossutta « Le rôle conceptualisant des marques typographiques dans l’écriture sartrienne de L’Être et le Néant : traits d’union, tirets, italiques, guillemets, parenthèses »
 『存在と無』には、ハイフン、ダッシュ、イタリック、ギュメ、括弧など多くの記号が用いられているが、初版ではぎっしり詰まった、読みにくいレイアウトのなかで、これらの記号が読者にとっては注意を引きつける役割を果たしている。これらの記号が出てくることで読むスピードが落ちたり、ブレーキをかけられたり、色合いがつけられるという効果がある。それだけでなく、これらによって、その言葉は概念として明確化される。つまり、これによって概念が主題化される。また、ハイフンによって新しい概念が作られるというのが発表者の主張であった。ただ、それがどこまで哲学的思索の展開に根源的に寄与しているかについては十分な検証がなされているかについては疑問の余地が残るように思われた。

12. Yohann Douet « L’idéologie dans L’Idiot de la famille »
 『家の馬鹿息子』で展開されている貴族とブルジョワジーにおけるイデオロギーの違いを整理する発表。19世紀前半の貴族の主要なイデオロギーはキリスト教に根ざし、19世紀後半に台頭するブルジョワジーの功利主義と対立する。発表者は、「否定的なユマニスム」というテーマにも着目しつつ、第3の勢力として、有識選挙人をサルトルが強調した点に着目、「〈無〉の騎士」、精神としての貴族という位置づけと芸術との関係、当時の支配的なイデオロギーと科学の関係などを丁寧に整理した。
13. Gabriel Maheo « Les chemins de l’imaginaire : l’acteur »
 『キーン』における俳優の概念を再検討し、非現実の問題を「想像の子供」という問題系に接続。それを『イマジネール』の現象学との関連で分析するだけでなく、ディドロの提示した俳優のパラドクスも想起しつつ考察した。さらには、『家の馬鹿息子』での想像力の扱いを、サルトルの俳優論全般との関係で整理した。

14. Alexis Chabot « Épileptiqe liberté »
 「癲癇(てんかん)的な自由」。発表タイトルの逆説は明らかで、サルトルは『家の馬鹿息子』でフローベールの発作をてんかんではなくヒステリー性の神経症として扱っていた。ルネ・デュメニルによっても唱えられていたこの神経症説は今日の病跡学的見地からは否定されており、サルトルの大著がフローベール研究者に信頼を置かれない理由のひとつとなっている。発表者の試みはこうした趨勢に真っ向から異を唱えることにはなく、むしろてんかんや神経症の病理史・文学史(ヒポクラテスからフロイトのドストエフスキー論、プルーストへ)を辿りながら、それをフローベールの想像界のなかに位置づけられる、ある種の「想像の病maladie imaginaire」として提示することにあったようだ。そうなると、サルトルの議論は、「(フローベールの)フィクションについての(サルトルの)フィクション」として整理されることになり、ここにふたりの作家の想像界がぶつかり合う。発表者の論調はいつもながら雄弁で、報告者などはいつも批判的に検討できないまま追いかけるので精一杯だが、この批判的検討の作業のためには『家の馬鹿息子』を読み返す(!)ことが不可欠だろう。その必要性を実感させるという意味でも、同書をめぐるセッションを締め括るに相応しいものであった。


理事会からのお知らせ

・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。

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日本サルトル学会会報第72号 [会報]

会員のみなさま、 第72号会報でお知らせしました、次回12/17(土)の例会のご案内のところで、ご発表予定の、張 乃烽 さんのお名前を間違ってご紹介しておりました。張さんご本人とみなさまにお詫びして訂正をいたします。本当に申し訳ございませんでした。 日本サルトル学会理事会

研究例会のご案内

 下記の通り、第50回研究例会を対面ハイフレックス(=ハイブリッド)で開催しますのでご連絡いたします。
 今回の研究例会は、張 乃烽氏(立教大学大学院博士課程)の研究発表を予定しております。
登録フォームを用意しましたので(下記 URL 参照)、対面参加をご希望の方は、開催校にリストを提出する都合上、12月7日(水)17: 00までに、オンラインでの参加ご希望の方は12月16日(金)12: 00(日本時間)までにご登録をお願いいたします。
 当学会では非会員の方の聴講を歓迎いたします(無料)。多くの方のご参加をお待ちしております。

第50回研究例会

日時:2022年12月17日(土) 16 : 00 - 17 : 30
場所: 対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催
   立教大学池袋キャンパス本館1204 教室
※フランスからの参加も想定し、夕方からの開催となっております。ご注意ください。

【プログラム】
16: 00:開会挨拶
16: 05:研究発表
発表:張 乃烽 氏(立教大学大学院博士課程)
 「サルトルの情動論における心身問題」(仮)
司会:赤阪 辰太郎 氏(大阪大学)

※今回は、対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催のため懇親会は行いませんのでご了承ください。
参加登録フォーム URL : https://forms.gle/DAHGD2HPUHAfpPdr9

※zoom開催に関する細かな注意は、こちらのフォームにてお知らせします。なおこのURLはサルトル学会のブログにも掲示いたします。そちらもご利用ください。


研究例会のご報告

 2022年7月30日(土)に下記の通り、対面ハイフレックス(=ハイブリッド)方式により、第49回研究例会を開催しましたのでご報告いたします。今回の研究例会では、「サルトル『家の馬鹿息子』翻訳完結をうけて」というシンポジウムがおこなわれました。以下、報告文を掲載いたします。


第49回研究例会

日時:2022年7月30日(土) 14 : 30 - 18 : 00
場所: 対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催
   立教大学池袋キャンパス9号館9B03 教室

シンポジウム「サルトル『家の馬鹿息子』翻訳完結をうけて」
       司会:鈴木 正道(法政大学)
       発表:小倉孝誠(慶應義塾大学)
        「フロベール研究者として『家の馬鹿息子』をどう読むか」
       黒川学(青山学院大学)
        「『家の馬鹿息子』における読者の誤読」
       澤田直(立教大学)
        「『家の馬鹿息子』における挫折をめぐって」


サルトル学会第49回研究例会報告 鈴木正道

シンポジウム「サルトル『家の馬鹿息子』翻訳完結をうけて」
 まず翻訳者の一人である澤田直氏が、そもそもサルトルのフロベール論『家の馬鹿息子』とはどのような本であるか、邦訳がどのような経緯で完成したかという説明を行った。翻訳者の一人である海老坂武氏の言葉によると、この著作はサルトル思想の集大成であり、サルトル全体を理解するうえで不可欠であるということである。

 「フロベール研究者として『家の馬鹿息子』をどう読むか」 小倉孝誠 氏
フロベール研究者としての小倉氏は、本著作を、19世紀半ばの文学、思想、政治状況の分析を通したフロベール世代の特徴付けであると同時に、サルトルの晩年の代表作として捉え、その意味で意義深いものとした。
 そのうえでフロベールの研究者がこの著作に対して冷淡であったことを指摘し、その理由を考えた。まずサルトルは、フロベールの幼少期が家父長的な家庭環境に大きく影響されており、彼の「神経症」はこれから逃れようとする戦略だったとするが、これは資料の裏付けの乏しい恣意的な解釈であると研究者は考えている。
 また原書の第1巻と第2巻はほぼフロベールの初期作品のみを扱っており、第3巻は『ボヴァリー夫人』以降の作品にも触れてはいるものの、個別の作品論としては深められていない。『ボヴァリー夫人』を扱う予定だった第4巻のためのメモは断片的である。
 そのうえで小倉氏は、サルトルによるフロベールの初期作品、『初稿感情教育』、『聖ジュリアン伝』の分析は刺激的な解釈を含むこと、特に第2帝政期の文学状況の哲学的および歴史社会学的な分析が興味深いこと、そしてサルトルの議論が20世紀末から現在までの文学分析の刷新の先駆となっていることを指摘した。
 さらに小倉氏は個人的に興味を抱いた点を述べた。まず、少年ギュスターヴは言語と世界の乖離を意識し、初期作品はそれを乗り越えようとする試みであるとされている点。通常は、伝記的事実が作品を説明するとされるのに対して、サルトルは「実存的精神分析」を用いて、初期作品から彼の伝記の影の部分を照らし出そうとした点など。その他『家の馬鹿息子』の各部に沿って、フロベールの世代と宗教、フロベールの女性性、両性具有性、フェティシズム、読者層の大衆化、芸術至上主義、ルコント・ド・リールへの参照、第2帝政の作品への反映、などに触れる。
 そしてブルデューの「文学場」の考え方にも通じる文学社会学的な視点を切り開き、またフロベールの研究者にも問題提起を提供したという意味で、小倉氏はサルトルの著作に現代的な意義を認めている。
 フロベールよりもサルトル自身の事をよく伝えていると皮肉られ、また大部で未完というサルトルの著作の傾向を極端に具現したような『家の馬鹿息子』を、フロベール研究者たちはどのように考えているかと言う問いに正面から取り組んだ発表であった。小倉氏の本著作への思い入れは必ずしも他のフロベール研究者の考えをあまねく反映したものではないかもしれないが、世紀の大事業とも言える本著作の全訳完成を寿ぐ講演であったと言えよう。

会場からは、フロベール研究者から見ると、家父長的な父親との確執を作品や他の資料に見出すことに無理があり、それがサルトルのフロベール論を受け入れがたいものとしているとの指摘があった。

『家の馬鹿息子』における読者の誤読             黒川学 氏
 翻訳者としての黒川氏は、サルトルの読書論に注目する。1940年代の『文学とは何か』においてサルトルは文学作品を読者の自由への呼びかけとして捉え、読者の参加があって作品は出来上がるとしていた。『弁証法理性批判』を経て、『家の馬鹿息子』に至ったサルトルは、言語を実践的惰性体として捉え、作品の物質性により重きをなす考え方を取るようになった。サルトルによると19世紀半ば以降のフロベールの時代における読者層として自由業や教育に携わる知識層が考えられ、それに対してあえて読まれることを求めない作家たち(無の騎士たち)が登場した。こうした読者たちは、不透明な物質としての作品を自分なりに読むという誤読を行うようになった。彼らは神経症の産物としての作品を読み、何の拘束もなしに憎悪を体験した。しかしこのことにより却って読者はより自由になったとも言える。

『家の馬鹿息子』における挫折をめぐって          澤田直 氏
 「挫折echec」は『家の馬鹿息子』の全体に現れるテーマであるということだが、澤田氏は特に最終巻に絞って論じる。サルトルは、新興ブルジョワジーの勝利により自らの階級の無能さを感じたロマン派の作家たちが、挫折感を一般化し、芸術と挫折を結びつけたと考える。これが「19世紀の客観精神」だというのである。彼らは選ばれた人間に傑作を贈与する。それに対してフロベールなどのポスト・ロマン派は、贈与する相手を持たず、自己救済を目指す。想像としての芸術が現実としてのブルジョワジーを破壊することを望む。フロベールは「神経症」を通して挫折のかなたの「絶対」を目指す。そこに至るためには、芸術家、人間、作品の三重の挫折が前提となる。サルトルは、フロベールを、挫折を演じるだけのル・コント・ド・リールと比較する。
 サルトルは、1920年代から1940年にかけての論文や著作以来、『言葉』に至るまで想像力についてほとんど語っていなかった。しかしサルトルは、ポスト・ロマン派の作家は、現実界での挫折を通して絶対的な想像の美の世界を創ろうとしたとする。澤田氏は、この現実における挫折に対応する術としての想像力と言う考えの原形を1939年に刊行された『情緒論素描』に見出す。ここにおいて「情動」が身体的なものとされている点でも、フロベールの「神経症」の発作とつながると言える。

 聴衆からは、サルトルにおける想像力の問題について様々な質問が出た。澤田氏は、初期の哲学的著作においては、知覚(存在)と想像(非存在)が二律背反の意識の在り方として捉えられていたのに対して、『家の馬鹿息子』では、現実と想像に二股をかけた態度が鍵になっていると述べた。また50年代の『聖ジュネ』や『キーン』、『アルトナの幽閉者』では現実と見せかけの対立がテーマになっていると述べた。そして『弁証法理性批判』に至っては、想像されたものはむしろ共有されるものとして捉えられているということである。
 また現在では癲癇と考えられているフロベールの発作を、サルトルが「神経症」としてフロベール論の要に据えているのは、父親との確執、挫折としての想像力というテーマに収斂させる必要からではないかとの指摘もなされた。

理事会からのお知らせ

・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。


以上

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