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日本サルトル学会会報第74号 [会報]

研究例会のご報告

2022年12月17日(土)に下記の通り、対面ハイフレックス(=ハイブリッド)方式により、第50回研究例会を開催しましたのでご報告いたします。今回の研究例会では、張乃烽氏による研究発表がおこなわれました。以下、報告文を掲載いたします。 


第50回研究例会報告

日時:2022年12月17日(土) 16 : 00 - 17 : 30
場所: 対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催
   立教大学池袋キャンパス本館1204 教室

【プログラム】
16: 00:開会挨拶
16: 05:研究発表
発表:張 乃烽 氏(立教大学大学院博士課程)
 「サルトルの情動論における『一元性である二元性』なるもの」
司会:赤阪 辰太郎 氏(日本学術振興会特別研究員 PD )


張乃烽「サルトルの情動論における『一元性である二元性』なるもの」報告

張氏の発表は、サルトルの前期哲学、とりわけ『情動論素描』および『存在と無』を中心的なコーパスとし、サルトルの哲学に胚胎する「一元性である二元性」という特徴とそのポテンシャルを測る内容であった。
張氏はまず、「情動」の概念史をA. コルバンらによる『感情の歴史』などを参照しながら振り返り、サルトルが情動概念について考察を進めた際の理論的な布置を整理された。情動をめぐっては以前よりそれが身体=物質的なものか、精神的なものか、といった二元論的な構図から論じられる傾向があったが、それを単なる生理的表出としてでも、精神に割り振られるものとしても扱うのではなく、「世界についての意識=世界を把握する仕方」という形で、意識と身体を一つの全体として結び合わせる「一元性であるような二元性」として提示した点に、サルトルの貢献はあった。
続いて、情動のもつ目的志向的な合理的性格と、非合理的な信憑にも結びつく魔術的性格との関係を、『情動論素描』の記述を出発点に考察された。さらに、張氏はこうした対立的に見える構造は、『存在と無』における意志的行為と情念との対比のなかにも見出されるのではないか、と問いかけた。
こうした予備的な考察を経て、張氏はサルトルの情動理論を、意識と身体をいかに捉えるかという「心身問題」として再提示しうるものだと論じた。身体と意識の関係については『存在と無』においても主題の一つであるが、この問いに情動論の視角から光をあて、「一元性である二元性」というサルトル哲学の特徴と結びつけた点に張氏の独創があったのではないか、と報告者は考える。
質疑のなかでは、サルトル自身の『存在と無』の叙述の行程のなかで張氏の議論をどのように位置づけるか、という問いや、対他身体をいかにして上記の構図のなかから、あるいはそれと繋がる形で考察するか、という問いが投げかけられた。
発表ではベルギー・リエージュを中心としたフランス語圏で近年進んでいる人類学との関連を考慮した前期サルトルの再評価なども参照されており、現在進行中の研究との接続など、今後の研究の進展に期待したい。(文責:赤阪辰太郎)


日本サルトル学会学会誌発刊のお知らせ

このたび、日本サルトル学会では、年次発行の学会誌(電子ジャーナル)を発刊することになりました。第1号の刊行は2023年10月を予定しています。カテゴリーと文字数は以下の通りで、編集委員会による査読があります。

・「論文」(25,000字程度)
・「研究ノート」(16,000字程度)
・「書評」(1,000字以上3,000字以内)
・「翻訳」(まずは編集委員会にご相談ください)

サルトルに関連する内容であること、会員であることが投稿の要件となります。(投稿を希望してからの入会も可能です)投稿を希望される方は、詳細をお伝えいたしますので、学会事務局アドレス(ajes.office@gmail.com)にご連絡ください。原稿の締め切りは5月末を予定しています。

またこれにともない、学会誌の名称と表紙デザイン案を公募します。締め切りは3月末とし、応募いただいたご提案のなかから学会誌名・表紙デザインを理事会にて決定させていただきます。下記フォームより、奮ってのご応募をお待ちしております。よろしくお願いいたします。

https://forms.gle/kQWm5wWGSrrhiG669


日本サルトル学会学会誌編集委員会

サルトル関連文献

*著作

・熊野純彦『極限の思想:サルトル――全世界を獲得するために』、講談社選書メチエ、2022年。
・シャルル・ペパン『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』永田千奈訳、草思社、2022年。
・シモーヌ・ド・ボーヴォワール/『第二の性』を原文で読み直す会訳『決定版 第二の性I 事実と神話』河出文庫、2023年。

*論文

・澤田直氏による下記論文は、本学会第49回例会(2022年7月30日(土))で実施されたシンポジウム「サルトル『家の馬鹿息子』翻訳完結をうけて」にて、同氏が発表した論題「『家の馬鹿息子』における挫折をめぐって」を発展させたものです。
Nao Sawada, ≪ L’obsession de l’echec chez Sartre ≫, in : Studi Sartriani ? XVI/2022 ? Sartre e le psicobiografie. La scrittura dell’esistenza, p. 39-58.
https://romatrepress.uniroma3.it/wp-content/uploads/2022/12/02-Nao-Sawada.pdf

・小熊正久「サルトルの想像論における心的アナロゴンについて」、『山形大学大学院社会文化創造研究科社会文化システムコース紀要』 第18号、2021年、51-70頁。
https://www-hs.yamagata-u.ac.jp/wp-content/uploads/2021/09/6d1e3e2f543fd20951509259f42c1d65.pdf
・竹本研史「スターリンの特異性――サルトル『弁証法的理性批判』第2巻におけるソ連論について」、『人間環境論集』、法政大学人間環境学会、第23巻第2号、2023年、25-66頁。
https://hosei-hondana.actibookone.com/content/detail?param=eyJjb250ZW50TnVtIjoyNzE4NDIsImNhdGVnb3J5TnVtIjoxMzAxNH0=&pNo=1
・松本剛次「主体性,あるいはサルトル的実存へ向けての実践=研究」、『言語文化教育研究』、言語文化教育研究学会:ALCE、第20巻、2022年、376-389頁。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/gbkkg/20/0/20_376/_article/-char/ja/
・橋爪恵子「ガストン・バシュラールにおける芸術の社会「貢献」 : サルトルを媒介として」、『國學院雜誌』第123巻11号、191-203頁。
・京念屋隆史「サルトル想像論における「準観察」のテーゼ : 想像と知覚の差異について」、『大学院紀要』法政大学大学院、第89巻、2022年、10-19頁。
https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=26057&item_no=1&page_id=13&block_id=83
・細貝健司「超越論的意識と自己性の回路 : サルトルはなぜバタイユに対しあれほどまでに激しい批判を行ったのか?」、『立命館経済学』第71巻 2/3号、2022年、20-48頁。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390575993931867264
・翠川博之「サルトル初期戯曲の研究 I 『バリオナ』のミステール」、『東北学院大学教養学部論集』、第188号、2021年、89-117頁。
・翠川博之「サルトル初期戯曲の研究 Ⅱ 『蠅』における自由」、『東北学院大学教養学部論集』、第190号、2022年、23-46頁。


理事会からのお知らせ

・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。
・ 学会のwebサイトをリニューアルして再開しました。
https://sites.google.com/view/ajes1905/
従来ブログに掲載してきた会報やお知らせは、今後は新しいwebサイトに掲載することになりました。それにともない、今後ブログの更新は停止します。

以上
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日本サルトル学会会報第73号 [会報]

GES 報告

2022年6月24・25日(金・土)に下記の通り、GES のコロックがパリで開催されました。以下、当コロックに参加した澤田直氏・関大聡氏による報告文を掲載いたします。

Colloque du GES – 24 & 25 Juin 2022 澤田 直・関 大聡

24 juin

1. Stéphanie ROZA « L’humanisme sartrien et le rôle pivot des Réflexions sur la Question juive »
一般的に『ユダヤ人問題に関する考察』は、サルトルの倫理思想において展開点となった作品であり、彼の知的アンガージュマンの第一歩となったとされる。政治思想を専攻し、著書も多数あるステファニー・ロザ氏は、それが『現代』誌の「創刊の辞」で表明されるサルトル流のヒューマニズムの出発点となったという仮定から論を始めた。先行研究におけるこの作品に関する評価を概観した後、1944年の時点で知られていた情報をもとにサルトルは、ユダヤ人のフランスにおける状況を哲学的、倫理的、政治的に考察した点に意義があると強調。この時点ではナチスのユダヤ人殲滅作戦の全容は知られていなかったが、サルトルはその重要性に「早くから着目し、他に先駆けて包括的な分析をした点を評価するべきとした。また、サルトルにおける他者問題についても、後の、黒人問題、植民地問題、さらに広く抑圧の分析へとつながるきっかけとなったと指摘した。コンパクトにまとまった明晰な発表ではあったが、サルトル研究を専門とする者から見ると新たな要素は少なかった。ジャン=フランソワ・ルエットからは、戦前の「ある指導者の幼年時代」のみならず、『自由への道』におけるユダヤ人の表象などについても触れるべきだろうというコメントがあった。
2. Céline MARTY « L’existentialisme marxiste de la Critique de la Raison dialectique : une critique subjectiviste du capitalisme »  二部構成の発表で、前半は『弁証法的理性批判』における主体の重要性を、マルクス主義の他のアプローチと比較して強調し、後半はサルトルから大きな影響を受けたアンドレ・ゴルツが、サルトルの実存主義的マルクス主義をどのように継承したかについてのサーベイが行われた。ゴルツが重要視したのは、とりわけsujetの問題であるという発表者の指摘は通常の見解と一致しており、新たな知見をもたらしたとは言えないが、階級闘争の問題に関して、1980年のAdieux au prolétariatにおけるnon-classe de non-travailleursという観念の重要性を強調し、ゴルツがサルトルから出発しながら、労働に関する新たな観点を開いたという指摘は重要だろう。最後にサルトル、ゴルツと発展した路線は、現在ではChristian ArnspergerのCritique de l’existence capitalisteやÉthique de l’existence post-capitaliste : Pour un militantisme existentielに引き継がれているという示唆で終わったが、具体的な分析があれば、より充実したと思われる。

3. Damien CHAPEAU « Les structures du colonialisme dans la Critique de la raison dialectique (une réflexion sur le problème du racisme systémique) »
『弁証法的理性批判』には、注の形ではあるが、植民地問題についての重要な指摘がいくつかある。そこに注目した発表者は、そこで展開された制度としての植民地問題を「植民地とはひとつの制度である」などと結びつけ、フランス革命を例とした集団の問題としてのみ語られることが多い『弁証法的理性批判』に新たな光を当てようとした。視点は興味深いが、準備不足が明らかで話が結論にいたらず堂々巡りの観があったのは残念だった。

4. Amirpasha TAVAKKOLI « Sartre, Fanon et la lutte révolutionnaire dans l’Iran des années 70 »
 1950年からサルトルがイランでどのように紹介されたのかをとりわけファノンの『地に呪われた者』とそれへのサルトルの序文の例を中心に紹介する発表で、イランの状況がわかって興味深かった。サルトルはまず短篇小説や演劇が紹介され(Sadegh Hedayat, 1903-1951)、新たな文学観のモデルとなったが、その後、政治的な現状批判に対する新たな概念装置を提供してくれる思想家として導入されたという。中心になったのはパリに住み、サルトルやファノンとも交流のあった社会学者・哲学者で活動家のAli Shariati (1933-77)。彼はアルジェリア戦争さなかの1959年に奨学金を得てパリに学び、そこでFLNなどともコンタクトをもった人物。パフラヴィー朝末期のモハンマド・レザー・パフラヴィー(いわゆるパーレビ国王)の推進する近代化(白色革命)の状況でサルトル思想が知識人に及ぼした影響が紹介された。ファノンのテクストのペルシャ語訳では宗教に関する側面が削除されたとか、サルトルのテクストには複数の地下出版があったなど興味深いエピソードは少なくなかったが、具体的なサルトルやファノン思想の影響のインパクトについてはイラン情勢を知らない者にとっては実感することがやや難しかった。

5. Clémence Mercier « Sartre et Fanon, l’entrelacs de deux œuvres et les effets(-retours) du territoire algérien-phénoménologie, psychiatrie et lutte anticoloniale »
 発表者は冒頭で「フランスのアラブ人である体験」を語るLouisa YousfiのエッセイRester barbareを長く引用し、人種差別や支配/被支配の過程における「体験」の重要性を喚起した。それは言うまでもなく発表の主題であるフランツ・ファノンにも共通する点であり、理論的な議論は生きられた体験と不可避に接続している。この点を強調した上で、著者はファノンの思想とサルトルの思想の交錯について議論を進めたが、『ユダヤ人問題』や眼差しの問題構成が人種体験の言語化に及ぼした影響は評価しつつも、『地に呪われた者』の序文がファノンから言葉を奪い、彼を沈黙させた点には批判的である。自身も支配/被支配の構造のなかで支配的な言動をとりかねないことへの「注意深さvigilance」を求める発表の趣旨は、今日の研究者としてファノンのテクストに向き合い、その遺産を継承する可能性を模索する点で、非常に倫理的な志向として受け取られた。

6. Maririta Guerbo « La mauvaise foi du subalterne. Rituel et résistance politique, de l’antholopologie des années 1950 à Franz Fanon »
 サルトルの哲学とイタリアの人類学者エルネスト・デ・マルティーノ(Ernesto de Martino:1908-1965)の交点を、演技、自己欺瞞、儀礼、憑依といった人類学的主題に求める発表である。同時にミシェル・レリス、フランツ・ファノン、アントニオ・グラムシといった同時代の知識人も召喚され、当時の哲学と人間科学(人類学)における相互影響的な関係が描き出された。ここでも政治は蚊帳の外ではなく、とりわけ植民地支配や権力構造において、憑依的な演技が果たす役割が注目される。サルトルとマルティーノは、いずれも戦後の脱植民地化の動きに触発され、互いに共鳴可能な議論の土台を作り上げた。サルトルと人間科学、人類学の関係を問う議論自体は珍しくないが、本発表ではイタリアの人類学という必ずしもよく知られているとは言えない視角からのアプローチに教えられる所が多かった。

7. Fabio Recchia « La femme, le primitif, l’enfant et tous les autres. Sartre, Beauvoir, Durkheim et Mauss en dialogue autour du problème de l’articulation entre les différentes formes de la domination »
 元の発表タイトルは「幼少期の問題からインターセクショナリティの問題へ。サルトルとボーヴォワールによる同時代の社会科学への貢献」だったが、変更された。おそらく賢明な変更と言うべきで、発表者はボーヴォワールとサルトルが体現するフランス実存主義が、よく独我論的と批判されるのと異なり個人の社会的構成に十分な注意を払う点を強調し、社会において「女性や未開人、子供」が置かれる被抑圧的な状況にパラレルなものを見出していたと論じたが、発表後に質問者が鋭く指摘していたように、そのような並行性は交差性(インターセクショナル)を保証しないし、むしろ実態としては対立しかねない。さまざまな差別の間に構造的な並行性・相同性があるという指摘は、それら差別に固有の歴史、特殊性があるという交差性概念の前提を押し隠しかねないからだ。他方で、サルトルやボーヴォワールに見られる並行性・相同性の指摘には、切り離された集団に閉じこめられていた被差別者間の連帯を促すという側面があったはずで、その普遍主義的傾向は単に時代遅れとして切り捨てられるべきものでもない。両者の緊張関係を見極めた上でバランスをとるような議論の展開をさらに期待したいと思う。

8. Hadi Rizk « Contre les identités essentialisées et les différences indifférentes, l’actualité théorique de l’universel concret »
 サルトルやボーヴォワールの思想の核心にある「特異的普遍」の理論的なアクチュアリティを、ジュディス・バトラーによるフェミニズムの問い直しに即して論じた発表。発表者によれば、バトラーの思想は自然主義的な見方を構築主義により解体しつつも、同時に「身体や性における構築されないものとは何か」を問う契機を含んでいるのだが、その存在論的な探求を突き詰め得たとは言えない。ところで、サルトルやボーヴォワールの「特異的普遍」、とりわけその屋台骨をなす「事実性facticité」の概念は、まさにこの「構築されないもの」であるのだが、同時にこの事実性は常に対自に現前する形でしか現れないという意味で、「つねに構築された-構築されないもの」である。ここにバトラーが陥っている(とされる)自然主義と構築主義のアポリアを越える理論的な発条を見出すのが著者の目論見と報告者は理解した。このように事実性-唯物論の文脈で議論を立てるなら、おそらくバトラーの『問題=物質となる身体』が主要な対話相手になると思うが、著者がその議論をどこまで仔細に読み込んだかは発表の限り判然としない。むしろイリガライやモニック・ウィティッグをバトラーの議論の対抗馬として立てる方向に向かったようだが、そのあたりは内容の濃密さも相俟ってやや争点を掴みにくいように感じた。


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25 juin 9. Grégory Cormann & Jérémy Hamers « Intersections de Sartre en 1943. Le scénario Typhus entre Amok de Stefan Zweig et Les Orgueilleux d’Yves Allégret »
 サルトルのシナリオ『ティフス』をステファン・ツヴァイクの短篇「アモクロイファー」との類似関係、さらにはイヴ・アレグレによる映画化へとつなげる内容の濃い発表。まずは、グレゴリー・コールマンが、3作品における細部のちがいを具体的な例をあげて、分析した。たとえば、豚の頭と羊の頭のちがいなど。また、サルトルのチフスは、映画のシナリオとしてはきわめて珍しくト書きが多いことに着目し、シナリオらしくないシナリオであると指摘。その後、ジェレミー・アメールが、サルトルのシナリオとその映画化Les Orgueilleuxに共通のテーマとして、脱植民地化、堕胎(隠れた主題)、男性による女性支配をとりあげ、詳しく分析した。たいへん充実した発表だった。

10. John Ireland « Malraux, Camus, Sartre : Existentialisme et colonialisme »
 発表タイトルとは異なり、とりわけ、マルローと植民地との関係に絞った発表で、カミュについてはほとんど触れなかった。戦前のマルロー(共産党のシンパ、冒険家)と戦後のマルローには、断絶があると言えるが、両者をどのように結びつけるか。発表者は、『戦中日記』にマルローへの言及があることや、『嘔吐』におけるインドシナの彫刻にマルローへの暗示があることを指摘。また『冒険家』への序文における冒険の定義などに言及した上で、マルローもサルトルもレジスタンスについての小説を書くことができなかったことの意味を問う。
 マルローの『王道』の英訳を取り上げ、そこには二つの序文がつけられていることを指摘したうえで、インドシナ、現地民は虫に喩えられているのに対し、白人の主人公は栄光に輝く形で書かれている。のみならず、そこにはオリエンタリズムが見て取れる。植民地が処女地として描かれるだけでなく、そこで出会う他者は女性と見なされる。アジア人は画一化されていて、個人として描かれていない。リオタールのマルロー論にも触れつつ、マルローにおいては、人生はそれを語ることに隷属することを望まないといった指摘や、同時代の文学で、インドシナを扱った小説は100点を超えるといった情報も貴重であった。

11. Frédéric Cossutta « Le rôle conceptualisant des marques typographiques dans l’écriture sartrienne de L’Être et le Néant : traits d’union, tirets, italiques, guillemets, parenthèses »
 『存在と無』には、ハイフン、ダッシュ、イタリック、ギュメ、括弧など多くの記号が用いられているが、初版ではぎっしり詰まった、読みにくいレイアウトのなかで、これらの記号が読者にとっては注意を引きつける役割を果たしている。これらの記号が出てくることで読むスピードが落ちたり、ブレーキをかけられたり、色合いがつけられるという効果がある。それだけでなく、これらによって、その言葉は概念として明確化される。つまり、これによって概念が主題化される。また、ハイフンによって新しい概念が作られるというのが発表者の主張であった。ただ、それがどこまで哲学的思索の展開に根源的に寄与しているかについては十分な検証がなされているかについては疑問の余地が残るように思われた。

12. Yohann Douet « L’idéologie dans L’Idiot de la famille »
 『家の馬鹿息子』で展開されている貴族とブルジョワジーにおけるイデオロギーの違いを整理する発表。19世紀前半の貴族の主要なイデオロギーはキリスト教に根ざし、19世紀後半に台頭するブルジョワジーの功利主義と対立する。発表者は、「否定的なユマニスム」というテーマにも着目しつつ、第3の勢力として、有識選挙人をサルトルが強調した点に着目、「〈無〉の騎士」、精神としての貴族という位置づけと芸術との関係、当時の支配的なイデオロギーと科学の関係などを丁寧に整理した。
13. Gabriel Maheo « Les chemins de l’imaginaire : l’acteur »
 『キーン』における俳優の概念を再検討し、非現実の問題を「想像の子供」という問題系に接続。それを『イマジネール』の現象学との関連で分析するだけでなく、ディドロの提示した俳優のパラドクスも想起しつつ考察した。さらには、『家の馬鹿息子』での想像力の扱いを、サルトルの俳優論全般との関係で整理した。

14. Alexis Chabot « Épileptiqe liberté »
 「癲癇(てんかん)的な自由」。発表タイトルの逆説は明らかで、サルトルは『家の馬鹿息子』でフローベールの発作をてんかんではなくヒステリー性の神経症として扱っていた。ルネ・デュメニルによっても唱えられていたこの神経症説は今日の病跡学的見地からは否定されており、サルトルの大著がフローベール研究者に信頼を置かれない理由のひとつとなっている。発表者の試みはこうした趨勢に真っ向から異を唱えることにはなく、むしろてんかんや神経症の病理史・文学史(ヒポクラテスからフロイトのドストエフスキー論、プルーストへ)を辿りながら、それをフローベールの想像界のなかに位置づけられる、ある種の「想像の病maladie imaginaire」として提示することにあったようだ。そうなると、サルトルの議論は、「(フローベールの)フィクションについての(サルトルの)フィクション」として整理されることになり、ここにふたりの作家の想像界がぶつかり合う。発表者の論調はいつもながら雄弁で、報告者などはいつも批判的に検討できないまま追いかけるので精一杯だが、この批判的検討の作業のためには『家の馬鹿息子』を読み返す(!)ことが不可欠だろう。その必要性を実感させるという意味でも、同書をめぐるセッションを締め括るに相応しいものであった。


理事会からのお知らせ

・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。

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日本サルトル学会会報第72号 [会報]

会員のみなさま、 第72号会報でお知らせしました、次回12/17(土)の例会のご案内のところで、ご発表予定の、張 乃烽 さんのお名前を間違ってご紹介しておりました。張さんご本人とみなさまにお詫びして訂正をいたします。本当に申し訳ございませんでした。 日本サルトル学会理事会

研究例会のご案内

 下記の通り、第50回研究例会を対面ハイフレックス(=ハイブリッド)で開催しますのでご連絡いたします。
 今回の研究例会は、張 乃烽氏(立教大学大学院博士課程)の研究発表を予定しております。
登録フォームを用意しましたので(下記 URL 参照)、対面参加をご希望の方は、開催校にリストを提出する都合上、12月7日(水)17: 00までに、オンラインでの参加ご希望の方は12月16日(金)12: 00(日本時間)までにご登録をお願いいたします。
 当学会では非会員の方の聴講を歓迎いたします(無料)。多くの方のご参加をお待ちしております。

第50回研究例会

日時:2022年12月17日(土) 16 : 00 - 17 : 30
場所: 対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催
   立教大学池袋キャンパス本館1204 教室
※フランスからの参加も想定し、夕方からの開催となっております。ご注意ください。

【プログラム】
16: 00:開会挨拶
16: 05:研究発表
発表:張 乃烽 氏(立教大学大学院博士課程)
 「サルトルの情動論における心身問題」(仮)
司会:赤阪 辰太郎 氏(大阪大学)

※今回は、対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催のため懇親会は行いませんのでご了承ください。
参加登録フォーム URL : https://forms.gle/DAHGD2HPUHAfpPdr9

※zoom開催に関する細かな注意は、こちらのフォームにてお知らせします。なおこのURLはサルトル学会のブログにも掲示いたします。そちらもご利用ください。


研究例会のご報告

 2022年7月30日(土)に下記の通り、対面ハイフレックス(=ハイブリッド)方式により、第49回研究例会を開催しましたのでご報告いたします。今回の研究例会では、「サルトル『家の馬鹿息子』翻訳完結をうけて」というシンポジウムがおこなわれました。以下、報告文を掲載いたします。


第49回研究例会

日時:2022年7月30日(土) 14 : 30 - 18 : 00
場所: 対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催
   立教大学池袋キャンパス9号館9B03 教室

シンポジウム「サルトル『家の馬鹿息子』翻訳完結をうけて」
       司会:鈴木 正道(法政大学)
       発表:小倉孝誠(慶應義塾大学)
        「フロベール研究者として『家の馬鹿息子』をどう読むか」
       黒川学(青山学院大学)
        「『家の馬鹿息子』における読者の誤読」
       澤田直(立教大学)
        「『家の馬鹿息子』における挫折をめぐって」


サルトル学会第49回研究例会報告 鈴木正道

シンポジウム「サルトル『家の馬鹿息子』翻訳完結をうけて」
 まず翻訳者の一人である澤田直氏が、そもそもサルトルのフロベール論『家の馬鹿息子』とはどのような本であるか、邦訳がどのような経緯で完成したかという説明を行った。翻訳者の一人である海老坂武氏の言葉によると、この著作はサルトル思想の集大成であり、サルトル全体を理解するうえで不可欠であるということである。

 「フロベール研究者として『家の馬鹿息子』をどう読むか」 小倉孝誠 氏
フロベール研究者としての小倉氏は、本著作を、19世紀半ばの文学、思想、政治状況の分析を通したフロベール世代の特徴付けであると同時に、サルトルの晩年の代表作として捉え、その意味で意義深いものとした。
 そのうえでフロベールの研究者がこの著作に対して冷淡であったことを指摘し、その理由を考えた。まずサルトルは、フロベールの幼少期が家父長的な家庭環境に大きく影響されており、彼の「神経症」はこれから逃れようとする戦略だったとするが、これは資料の裏付けの乏しい恣意的な解釈であると研究者は考えている。
 また原書の第1巻と第2巻はほぼフロベールの初期作品のみを扱っており、第3巻は『ボヴァリー夫人』以降の作品にも触れてはいるものの、個別の作品論としては深められていない。『ボヴァリー夫人』を扱う予定だった第4巻のためのメモは断片的である。
 そのうえで小倉氏は、サルトルによるフロベールの初期作品、『初稿感情教育』、『聖ジュリアン伝』の分析は刺激的な解釈を含むこと、特に第2帝政期の文学状況の哲学的および歴史社会学的な分析が興味深いこと、そしてサルトルの議論が20世紀末から現在までの文学分析の刷新の先駆となっていることを指摘した。
 さらに小倉氏は個人的に興味を抱いた点を述べた。まず、少年ギュスターヴは言語と世界の乖離を意識し、初期作品はそれを乗り越えようとする試みであるとされている点。通常は、伝記的事実が作品を説明するとされるのに対して、サルトルは「実存的精神分析」を用いて、初期作品から彼の伝記の影の部分を照らし出そうとした点など。その他『家の馬鹿息子』の各部に沿って、フロベールの世代と宗教、フロベールの女性性、両性具有性、フェティシズム、読者層の大衆化、芸術至上主義、ルコント・ド・リールへの参照、第2帝政の作品への反映、などに触れる。
 そしてブルデューの「文学場」の考え方にも通じる文学社会学的な視点を切り開き、またフロベールの研究者にも問題提起を提供したという意味で、小倉氏はサルトルの著作に現代的な意義を認めている。
 フロベールよりもサルトル自身の事をよく伝えていると皮肉られ、また大部で未完というサルトルの著作の傾向を極端に具現したような『家の馬鹿息子』を、フロベール研究者たちはどのように考えているかと言う問いに正面から取り組んだ発表であった。小倉氏の本著作への思い入れは必ずしも他のフロベール研究者の考えをあまねく反映したものではないかもしれないが、世紀の大事業とも言える本著作の全訳完成を寿ぐ講演であったと言えよう。

会場からは、フロベール研究者から見ると、家父長的な父親との確執を作品や他の資料に見出すことに無理があり、それがサルトルのフロベール論を受け入れがたいものとしているとの指摘があった。

『家の馬鹿息子』における読者の誤読             黒川学 氏
 翻訳者としての黒川氏は、サルトルの読書論に注目する。1940年代の『文学とは何か』においてサルトルは文学作品を読者の自由への呼びかけとして捉え、読者の参加があって作品は出来上がるとしていた。『弁証法理性批判』を経て、『家の馬鹿息子』に至ったサルトルは、言語を実践的惰性体として捉え、作品の物質性により重きをなす考え方を取るようになった。サルトルによると19世紀半ば以降のフロベールの時代における読者層として自由業や教育に携わる知識層が考えられ、それに対してあえて読まれることを求めない作家たち(無の騎士たち)が登場した。こうした読者たちは、不透明な物質としての作品を自分なりに読むという誤読を行うようになった。彼らは神経症の産物としての作品を読み、何の拘束もなしに憎悪を体験した。しかしこのことにより却って読者はより自由になったとも言える。

『家の馬鹿息子』における挫折をめぐって          澤田直 氏
 「挫折echec」は『家の馬鹿息子』の全体に現れるテーマであるということだが、澤田氏は特に最終巻に絞って論じる。サルトルは、新興ブルジョワジーの勝利により自らの階級の無能さを感じたロマン派の作家たちが、挫折感を一般化し、芸術と挫折を結びつけたと考える。これが「19世紀の客観精神」だというのである。彼らは選ばれた人間に傑作を贈与する。それに対してフロベールなどのポスト・ロマン派は、贈与する相手を持たず、自己救済を目指す。想像としての芸術が現実としてのブルジョワジーを破壊することを望む。フロベールは「神経症」を通して挫折のかなたの「絶対」を目指す。そこに至るためには、芸術家、人間、作品の三重の挫折が前提となる。サルトルは、フロベールを、挫折を演じるだけのル・コント・ド・リールと比較する。
 サルトルは、1920年代から1940年にかけての論文や著作以来、『言葉』に至るまで想像力についてほとんど語っていなかった。しかしサルトルは、ポスト・ロマン派の作家は、現実界での挫折を通して絶対的な想像の美の世界を創ろうとしたとする。澤田氏は、この現実における挫折に対応する術としての想像力と言う考えの原形を1939年に刊行された『情緒論素描』に見出す。ここにおいて「情動」が身体的なものとされている点でも、フロベールの「神経症」の発作とつながると言える。

 聴衆からは、サルトルにおける想像力の問題について様々な質問が出た。澤田氏は、初期の哲学的著作においては、知覚(存在)と想像(非存在)が二律背反の意識の在り方として捉えられていたのに対して、『家の馬鹿息子』では、現実と想像に二股をかけた態度が鍵になっていると述べた。また50年代の『聖ジュネ』や『キーン』、『アルトナの幽閉者』では現実と見せかけの対立がテーマになっていると述べた。そして『弁証法理性批判』に至っては、想像されたものはむしろ共有されるものとして捉えられているということである。
 また現在では癲癇と考えられているフロベールの発作を、サルトルが「神経症」としてフロベール論の要に据えているのは、父親との確執、挫折としての想像力というテーマに収斂させる必要からではないかとの指摘もなされた。

理事会からのお知らせ

・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。


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日本サルトル学会会報第70号 [会報]

研究例会のご報告

2021年12月18日に下記の通り、初の試みとして対面ハイフレックス(=ハイブリッド)方式により、第48回研究例会を開催しましたのでご報告いたします。今回の研究例会では、中村督氏(南山大学)による研究発表がおこなわれました。以下、報告文を掲載いたします。


第48回研究例会

日時:2021年12月18日(土) 16 :00 ~ 17 :30
場所: 対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催
   立教大学池袋キャンパス A 202 教室

研究発表:中村 督(南山大学)
「戦後フランスにおける知識人史の再検討—『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』におけるサルトルの位置と機能について」
司会:  竹本 研史(法政大学)


 中村督氏の発表「戦後フランスにおける知識人史の再検討—『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』におけるサルトルの位置と機能について」は、フランスの代表的なニューズマガジンであり、「知識人の雑誌」として知られてきた『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌(以下、「『N.O.』誌」と略記)において、とくに大きな位置を占めていたサルトルがどのような役割を果たしてきたのかについて、『N.O.』誌におけるサルトルの位置がどのように形成され、同誌の理念や方針に影響を及ぼしたのかを明らかにしたものである。
 中村氏は、『N.O.』誌に関して、年表やジャン・ダニエルらの言葉に基づき概要をまず説明したうえで、『N.O.』誌におけるサルトルの位置と機能について、(1)同誌にとってサルトルへの協力はどのような意味をもったのか、(2)同誌のなかでサルトルをめぐる集合的記憶はどのように形成されたのか、(3)同誌の歴史においてこの集合的記憶がどのような機能を果たしたのか、以上の観点から検討をおこなった。
 (1)について中村氏は、サルトルからの『N.O.』誌への協力については、彼が創刊号以来1970年くらいまでは定期的に投稿していること、またアンナ・ボスケッティらの言葉をひきながら、サルトルが時局に関して緊急の発言をする場として同誌が用いられていることを紹介した。他方で中村氏は、『N.O.』誌の創刊号で果たしたサルトルの「機能」について、(a)サルトルの語りの意義と、(b)サルトルが表紙を飾ることの意義の両面から分析がなされた。前者については、同誌とサルトルの発言の一致から、サルトルが同誌の編集方針を語る形式になっており、「68年5月」でも「聡明で熱意溢れるジャーナリストとしての役割を果たした」(アニー・コーエン=ソラル)点が指摘された。後者についての分析からは、『N.O.』誌にとってもサルトルは好都合な知識人であり、サルトル(=知識人)と『N.O.』誌(=ジャーナリズム)が一蓮托生の関係にあったことが明らかにされた。
中村氏はまた、(2)の側面に関して、『N.O.』誌の周年記念号などでのサルトルへの言及やサルトルの死去の際に再掲されたサルトルに関する過去の記事、あるいは重要な局面におけるサルトルの記事を取り上げながら、サルトルと『N.O.』誌との文化史的・社会史的意義を強調しつつ、(a)「68年5月」に際してのサルトルおよびアラン・ジェスマールとの対談後における文言をめぐる問題、(b)「いまこそ、希望を」掲載の可否問題、(c)1997年にジャン・ダニエルによって取り上げられた、戦時下でのサルトルの昇格人事をめぐる憶測など、両者の微妙な関係も併せて論じた。
 さらに中村氏は、サルトル没後の「危機の時代」において、1981年に左派政権が誕生した際の左派メディアとしての問い直し、および1980年代前半に相次いだ知識人の死や存在感が希薄化したことによる「知識人の雑誌」としての問い直し、というアイデンティティの危機と反省が『N.O.』誌でなされたこと、ならびに、「知識人の沈黙」や「知識人の終焉」といった一連の言説に対して、『N.O.』誌が知識人の役割の変化を強調しつつ、『N.O.』誌自身が養成することによって「知識人の発見」をおこなう必要性や、知識人の存在意義の肯定の必要性に迫られたこと、以上を『N.O.』誌が危機の克服の方法として採ったと討究した。その一方で、ブルデューと『N.O.』誌との関係についても論じられ、ブルデューにとって「敵地」であった『N.O.』誌に彼が寄稿した意義を、「知識人の終焉」という言説に抗して「知識人の擁護」をおこなおうとする点でブルデューの見解と『N.O.』誌の思惑が一致した結果、創刊号においてサルトルが果たしたのと同様の役割を担うことになったと主張した。
 最後に中村氏は、問いかけとして、「サークルの時代」(1964-72年)、「成功の時代」(1972-81年)、「危機の時代」(1981-86年)・「発展の時代」(1986-95年)という、『N.O.』誌の3つの時期におけるサルトルの位置と機能、「サルトルからフーコーへ」とは異なる、「サルトルからブルデューへ」という系譜、知識人とジャーナリズムとの関係の再考の3点を挙げた。
 会場からは、サルトルと『N.O.』誌とのより詳細な関係についてや、インターネット社会におけるメディア研究や世論形成について、フランスの文化史・社会史における言論誌の位置付けなどについて活発な議論が交わされた。当日の司会を務めた者として1つ付言すれば、ミシェル・ヴィノック『知識人の時代』を筆頭に、サルトルを知識人史の系譜に置く研究は数多いが、フランスの文化史・社会史において「サルトル」というアイコンあるいは現象をどのように位置付けるべきか、というのはあまり存在しないと言えるだろう。その点で、中村氏の今回の発表は非常に意義が大きく、速やかな活字化が大いに期待されるものであった(竹本 研史)。


サルトル関連文献

*論文
・郷原佳以「ジャコメッティを見るサルトルとブランショ : 距離について」、『言語・情報・テクスト : 東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻紀要』、第28号、2021年、17-35頁。



理事会からのお知らせ

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日本サルトル学会会報第69号 [会報]

研究例会のご案内

 下記の通り、第48回研究例会を対面ハイフレックス(=ハイブリッド)で開催しますのでご連絡いたします。
 次回の研究例会は、中村督氏(南山大学)による研究発表を予定しております。
 登録フォームを用意しましたので、参加ご希望の方は下記 URL より12月17日(金)21:00(日本時間)までにご登録をお願いいたします。
 当学会では非会員の方の聴講を歓迎いたします(無料)。多くの方のご参加をお待ちしております。

第48回研究例会

日時:2021年12月18日(土) 16 :00 ~ 17 :30
場所: 対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催
   立教大学池袋キャンパス A 202 教室
※フランスからの参加も想定し、午後遅くからの開催となっております。ご注意ください。

【プログラム】
16:00 冒頭挨拶
16:05 研究発表:中村 督(南山大学)
「戦後フランスにおける知識人史の再検討—『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』におけるサルトルの位置と機能について」
司会:  竹本 研史(法政大学)

全体討論

17:30 休憩
17:40  近況報告・情報交換会

※会員の方で、対面で参加をご希望の方は澤田直代表理事までメールにてご連絡ください(今回は、勝手ながら対面の対象を会員に限らせていただきます)。会員の方には会員向けのMLで別途連絡をいたします。

※今回は、対面ハイフレックス(=ハイブリッド)開催のため懇親会は行いませんが、総会終了後に、zoom上で簡単な近況報告および情報交換の場を設ける予定です。
参加登録フォーム URL :https://forms.gle/TtsPWB3a11PVegci7
QR_077835.png


※zoom開催に関する細かな注意は、こちらのフォームにてお知らせします。なおこのURLはサルトル学会のブログにも掲示いたします。そちらもご利用ください。


戦後フランスにおける知識人史の再検討—『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』におけるサルトルの位置と機能について

中村 督

 本報告の目的は、『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』(以下『N.O.』と略記)においてサルトルがどのような役割を果たしてきたのかを考察することにある。1964年に創刊された『N.O.』は、フランスの代表的なニューズマガジンであり、長いあいだ「知識人の雑誌」として知られてきた。実際、創刊当初から『N.O.』は、多くの作家、哲学者、大学人らを結集させ、文字どおり「知識人の雑誌」になっていった。しかし、『N.O.』の歴史を振り返ると、サルトルはほかの知識人とは異なって特別な位置を占めていたことがわかる。本報告では、『N.O.』におけるこうしたサルトルの位置がどのように形成され、同誌の理念や方針に影響を及ぼしたのかを明らかにする。そのために具体的には以下を検討したい。
 第一は、サルトルが『N.O.』に創刊号以来、定期的に記事を寄稿してきたことの意義である。1960年代後半から1970年代にかけて、『N.O.』の中核を成す知識人(フランソワ・フュレ、ジャック・オズーフ、エドガール・モランら)を別にすれば、サルトルは多くの記事を掲載し、繰り返し表紙を飾った。この点を受けて、従来の研究では、『N.O.』はサルトルの緊急の発言をするときの場として好都合であったことが強調されてきた。他方、『N.O.』の側に視点を移すと、同誌の理念の表明から読者の獲得に至るまで、サルトルほど格好の人物はおらず、そのかぎりにおいては同誌がこの知識人を利用したという側面も無視することはできない。別言すれば、知識人とジャーナリズム、どちらかが優位な立場にあるわけではなく、両者の関係は一蓮托生であったと考えられる。
 第二に、サルトルの記事が『N.O.』の歴史にとって重要な局面で掲載されたことの作用である。たとえば、創刊号(「アリバイ」)や68年5月(「レイモン・アロンの城塞」、「1968年5月の新しい思想」)などは同誌の歴史が語れるときにかならず言及されるものである。また、同誌のサルトルの記事は、文化史的・社会史的文脈のなかでも俎上に載せられることが多く、結果的に同誌内部でこの知識人の集合的記憶が形成されていったことを指摘したい。
 第三は、上記と関連して、こうして『N.O.』で形成されたサルトルをめぐる集合的記憶が同誌に及ぼした影響である。1980年代以降、サルトルが亡くなり、知識人の終焉という言説が流布することで『N.O.』の「知識人の雑誌」という創刊の理念も揺らぐことになった。同誌は新たな理念を模索した結果、結局、当初の理念に立ち返ることになるが、そのさいに再びサルトルが重要な機能を果たすことになる。
 本報告では、最終的に、こうしたサルトルと『N.O.』の関係を考慮することで、知識人史の展開を逆照射する。知識人史の文脈では、一般的にいって1970年代にすでに「サルトルからフーコーへ」という変化が生じていたことが指摘されている(『N.O.』もまたその名のとおりの論集を出版している)。しかしながら、『N.O.』が再び創刊の理念を参照し、「知識人の雑誌」として再規定するのに重要な役割を演じたのはピエール・ブルデューであった。『N.O.』の歴史を踏まえれば、「サルトルからフーコーへ」という図式と同時に「サルトルからブルデューへ」という図式も成立しうることを提示したい。



2021年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2021)参加報告

関大聡

 2020年6月の国際サルトル学会はコロナウイルスによる感染拡大のために延期を繰り返し、結局2021年9月24日、25日に開催されることになった。オンライン、対面を両立したハイブリッド式の開催でもよかったのではないかと思うが、一名の発表がアメリカからオンラインで行なわれたのを除けば、従来通りの形式を尊重した形になる。結果として、事前予告された発表のうち二名(A. MatamatsashviliとJ. Ireland)の発表がとりやめになったのは、残念であるとともに、世界的に見ると依然として感染状況が予断を許さず、移動の不自由を強いられていることを確認させる。

 筆者は2017年度以降、毎年この大会に参加しており、参加報告を何度か上梓している(2018年(https://ajes.blog.so-net.ne.jp/2018-09-10)、2019年(https://ajes.blog.ss-blog.jp/2019-10-24)。2017年(https://ajes.blog.ss-blog.jp/2017-07-29)の報告は赤阪辰太郎氏による)。例年に比べると、(これもコロナの影響だが)参加者の数はやや少なかった印象がある。発表の統一テーマは複数あり、「サルトルの美学」、「サルトルと言語についてのアトリエ:パフォーマティヴ性、弁証法、構造」、「『自由への道』をめぐって」の三つと、その他自由発表にまとめられた。なお、この発表の枠組みはコロナウイルスの感染拡大前から決められていた。「サルトルと感染症」、「サルトルとロックダウン(コンフィヌマン)」、または「サルトル、眼差しと恥とマスク」みたいなテーマで話すひとがいてもよかったかもしれず、話を聞いてみると個人的に取り組んでいたひともいたようだが、学会は良くも悪くも平常運転で進められた。

 以下では、とくに興味をもったものを中心に発表内容を紹介したい(プログラムの全貌については学会HPのpdfを参照(http://ges-sartre.fr/pdf/Programme%20Colloque%20GES%2024%20et%2025%20sept%202021.pdf))。

 まず、一日目(9月24日)の午前中の「サルトルの美学」では、ふたつの発表が行なわれた。ソルボンヌ大学博士課程所属のジョルジア・テスタは、マラルメを読むサルトル/デリダに関する博士論文を準備中で、「不在の美学:マラルメの場合」というタイトルで発表した。サルトルの想像力論における「不在」の論点と、マラルメ論における「不在」の主題が結ばれた。興味深かったのは、サルトルとマラルメの間には、主題的に見てだけでなく、エクリチュールのレベルでも結びつきがあるのではないかという結論部での指摘で、あくまで示唆に留まるものだが、今後博士論文のなかでどのように展開されるか、期待をもって聞いていた。
 次の発表はハイナー・ヴィットマンによるもの。氏にはサルトルの美学に関するドイツ語の著作が複数あり、そのうち一点は『サルトルの美学』(ラルマタン、2001年)という題で仏訳されている。発表内容は1927年のイメージ論における空間の位置づけなどを手掛かりに、サルトルの美学の原点を探り、そこからティントレット論などでの空間性への着目を再解釈するものであった。1927年のイメージ論は、最近刊行されたばかりのテクストで、初期のサルトルの思索の出発点を示すものとして、多くの研究者の注目を集めている。私もそれを紹介する論文を一点日本語訳したことがあるので、よければ参照していただければと思う(ヴァンサン・ド・コールビテール「イメージ、身体と精神の間で サルトルの高等教育修了論文(https://resonances.jp/11/le-memoire-de-sartre/)」)。

 次に午後の発表だが、こちらは自由発表枠である。まずグレゴリー・コルマンが戯曲『墓場なき死者』と『恭しき娼婦』を扱った。1946年に初演されたこの二つの戯曲を手掛かりに、実存主義運動の最初期を再構成しようとする試みと言えるもので、すぐには呑み込むのが難しいほど豊かなものであった。ジャン・ヴァールによる劇評や、リュシアン・ゴルドマンによるサルトル演劇への批判などを取り上げながら、メルロ=ポンティやボーヴォワールも当時直面していたレジスタンスやヒロイズム、モラル、共同体の問いをそこに読みとろうとする氏の企てはここにまとめきれるものではない。これらの劇が、極限状況(situation-limite)における人間を問うだけでなく、実存主義そのものも極限にまで追いやる劇だった、という発表者によるまとめを紹介するに留めておきたい。
 ふたつ目の発表はクレモンティーヌ・フォール=ベレーシュによるもの(オンライン発表)。サルトルの父方と母方がカトリック、プロテスタントに分かれていることは自伝『言葉』などでも語られているとおりだが、その二つの傾向を作家における内的な緊張として追いかけるのが趣旨だと受け取った。同種の緊張を生きた先達としてジッドを取り上げることまで含め、私自身の関心にかなり類似しているので内心焦ったが、ともかく優れた発表であった。サルトル自身は無神論だが、この点との整合性をどう受け取るのかという会場からの問いについては、二十世紀初期(とくに20-30年代)の人々にとって、宗教は多くの場合、信仰の問題というよりも態度、主体性の構造の問題なのだと応答していたのは、非常に示唆的なものだと思われた。
 最後にピエール・リローによる、サルトルとパスカルの関係についての発表。発表者はパスカルが専門だが、サルトルの『青年期著作集』のパスカルへの言及から、『言葉』の初期テクストである『土地なしジャン』まで、マイナーな参照にもあたりながら、表面的な議論(実存主義の先駆者パスカル……)に留まらぬ見事な議論を展開しており、圧倒された。『土地なしジャン』が『言葉』になるに伴い、パスカルへの参照は薄まるそうだが、サルトル的文体とはまさにパスカル的文体なのだという著者の結論にも思わず頷かされるものがあった。

 二日目の午前は「サルトルと言語についてのアトリエ:パフォーマティヴ性、弁証法、構造」。このアトリエには筆者も参加させていただいた。出発点は2019年秋にリエージュで開催された会合で、若手の研究者の間で共通のテーマを設定し、議論と交流の場にしようというアイデアからだった。言語の問題をテーマにしたのは、各人が自分の関心から取り組める程度に開かれたテーマで、かつこの問題が複数の水準(サルトルの言語論、サルトルの言語実践、言語を介したサルトルの思考)に及ぶためである。やはりコロナの影響もあり、また発表者が世界各地に散らばっていたため、その後の会合は難航し、オンラインで各自の発表を検討しながら、苦心しつつ進められた。しかし、結果としてはかなり充実した、熱気の伝わるアトリエになったのではないかと思う。各人の発表時間は15分で、通常の発表時間より短く、関心の要諦しか伝えることはできなかったとはいえ、互いの発表を参照し合いながら、全体としてひとつの、たとえ網羅的ではなくとも、それこそ弁証法的に全体化を目指すような試みとなった。
 非常に短くだが、各人のテーマを掲げておこう。筆者(関)の発表では、『存在と無』の言語論を中心に、サルトルとジャン・ポーランの対比、また両者の共通した関心としての「言葉の力」の問題が扱われた。エステル・ドゥムーランは、サルトルと構造主義の間の論争(ポレミック)を再訪した。トマ・ボルマンはフローベール論『家の馬鹿息子』にフーコー(「ブルジョワジーがマルクスに対して築いた最後の防波堤」)への批判を見出した。クセノフォン・テネザキスは『弁証法的理性批判』における言語の地位を、同書における実践と惰性のめぐりあう場として描いた。アレクサンドル・フェロンは同じく『批判』を扱いながら、むしろそのエクリチュールの側面を扱い、長々しい文章で構成される同書を読むという経験そのものが弁証法的な経験なのだと指摘した。アリックス・ブファールは『批判』で扱われる言語経験として、「指令語mot d’ordre」と「スローガンslogan」の違いに注目し、いずれも集団の形成とその実践に関わるものでありながら、前者はより実践に、後者はより惰性に接近したものだという違いをまとめた。フェルナンダ・アルトは植民地支配における言語の問題を、サルトルとファノンの言語論を通して検討した。サルトル自身もまた植民地主義的心性を逃れるものではなく、またその点の自覚を通してしか克服はありえないだろう。
 若手で、各方面で活躍する面々との共同作業には、教えられるものが多かった。このワークショップの成果は本になるかもしれないので、あらためて全容をみなさんの前にお披露目する日が来ることを期待している。

 二日目午後、最後のテーマは「『自由への道』をめぐって」である。エレーヌ・バティ=ドラランドはドリュ・ラ・ロシェルやマルタン・デュ・ガールのような、今日ではあまり日の目の当たらない二十世紀前半の作家の再評価を行なっていて、今回の発表ではポール・ニザンとの友愛という観点から『自由への道』を再読した。同書のとりわけ第一巻『分別ざかり』、第二巻『猶予』は、ニザンとの友情だけでなく三十年代という時代に対する喪として読めるというのが発表の趣旨だったと思うが、澤田直氏の「小説家サルトル──全体化と廃墟としてのロマン」(『サルトル読本』所収)もなんとなく思い返しながら、小説の世界に入り込むことができた。
 次はジャック・ルカルムの発表で、『自由への道』の未完成性について。この老大家にはすでに同じテーマをめぐる重要な論考が存在するが、今回のタイトルはほとんど騙し絵のようなもので、氏が関心をもった対独協力問題(サルトルもその嫌疑をかけられた)や、同性愛の主題など、何にも制約されない自由な調子で話を繰り述べていた。テーマだけでなく時間的にも自由な発表だったため、不機嫌そうな次の発表者との間で板挟みにされた司会のアレクシ・シャボーの苦悶の表情が不憫でならなかったが、フランス語なら“causerie”と呼ぶような、氏のいわゆる四方山話は、いつものことながら筆者は好きである。
 最後の発表はジャン=フランソワ・ルエットによる『自由への道』の同時代受容についてのサーベイ。氏は最新の『サルトル研究』誌で『壁』の同時代受容についても調査しており、近年の関心はこの方面に向かっているらしい。新聞や雑誌などに発表された『自由への道』への反応には、大別すると五つの論点があると氏は言う。(1)サルトルのキャリアにおける位置づけ、(2)哲学と小説の関係、(3)登場人物の取り扱い、(4)同時性の技法、(5)言語実践。このうち、(2)、(3)、(5)を発表のなかでは扱い、当時の批評家や読書人が『自由への道』という巨大な著作にどう向き合ったのかを見事にまとめてみせた。

 来年のテーマは「サルトルとインターセクショナリティ」と「『家の馬鹿息子』」のふたつになるという。そのときまでには平常に戻った仕方で、とりわけ国外からの発表者を受け入れることができればよいと思う。日本からも発表者が参加してくれることをとても期待しています。(文責:関大聡)

サルトル関連文献

*著作
・ジャン‐ポール・サルトル『家の馬鹿息子 5 ギュスターヴ・フローベール論(1821年より1857年まで) 』 鈴木道彦・海老坂武(監訳)、黒川学・坂井由加里・澤田直訳、人文書院、2021年[12月刊行予定]。
・『竹内芳郎著作集』第1巻[サルトル哲学序説、実存的自由の冒険]閏月社、2021年。
・永井玲衣『水中の哲学者たち』晶文社、2021年。
・上野千鶴子『 NHK 100分 de 名著:ボーヴォワール『老い』』、NHK 出版、2021年。

サルトル関係イベント

第32回獨協国際フォーラム「アルベール・カミュ:生きることへの愛」開催のお知らせ
 12月3日(金)、4日(土)の2日間、第32回獨協インターナショナル・フォーラム「アルベール・カミュ:生きることへの愛」がオンライン開催されます(参加無料・要事前申込)。
詳細は以下のサイトをご覧ください。
https://www2.dokkyo.ac.jp/fre/camus/


理事会からのお知らせ

・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。
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日本サルトル学会会報第68号 [会報]

研究例会のご報告

 第47回研究例会を下記の通り、オンラインで開催しましたのでご報告いたします。
 今回の研究例会では、昨年(2020年)に法政大学出版局より刊行された、生方淳子著、ミシェル・コンタ序『戦場の哲学 ―「存在と無」に見るサルトルのレジスタンス』の合評会を、ハイデガー研究会との共催でおこないました。以下、報告文を掲載いたします。

第47回研究例会

日時:2021年7月10日(土) 15 :00 ~ 17 :50
場所: zoom によるオンライン開催

    司会:   谷口 佳津宏(南山大学、日本サルトル学会)
    発表者:  生方 淳子(国士舘大学、日本サルトル学会、著者)
    特定質問者:齋藤 元紀(高千穂大学、ハイデガー研究会)
          根木 昭英(獨協大学、日本サルトル学会)
          永野 潤(東京都立大学ほか、日本サルトル学会)

生方淳子著、ミシェル・コンタ序『戦場の哲学 ―「存在と無」に見るサルトルのレジスタンス』合評会 総評(司会者 谷口佳津宏)
 生方淳子氏がこの度公刊された『戦場の哲学 ―「存在と無」に見るサルトルのレジスタンス』は、サルトル研究の第一人者ミシェル・コンタ氏による2015年4月のニューヨーク大学における講演(本邦未紹介)を丁寧な解説を付したうえで翻訳紹介するとともに、その講演における「レジスタンスの書としての『存在と無』」という視点をふまえつつ、『存在と無』を対ナチズム,対ドイツ哲学(カント・ヘーゲル・フッサール・ハイデガー)という二つの戦線を舞台とした「戦場の哲学」として読むという統一的な視点から、これと真正面から取り組んだ本格的な論考であり、今後、『存在と無』を語る際には無視すること能わざる書物である。本合評会は、まず著者生方氏自身によるパワーポイントを使っての委細を尽くした本書の内容紹介の後、三人の特定質問者の方々によるそれぞれの持ち味を生かした質問がなされ(詳細は以下参照)、その後で、それらの質問に生方氏がひとつずつ答えるという仕方で行なわれたが、司会の不手際もあり、議論を深めるだけの時間が足りなかった点が何としても惜しまれる。が、いずれにしても、本書のような重厚な内容を備えた書については、短い時間で論評するということは到底不可能であるのだから、今後も本書に関する議論を継続する新たな機会が見出されることを切に希望する。


著者による要約紹介(発表者 生方淳子) 発表資料のPDF版 https://bit.ly/3r6jwgh
 まず反省点だが、500頁近い内容を1時間にまとめようとしたものの、簡略化しきれず大幅に予定を超過してしまった。そのため、3人の特定質問者とのやり取りが十分にできず、他の参加者の方々から意見を聴く時間もなくなり、残念であったし申し訳なかった。
 発表の流れとしては、まず執筆の動機と経緯に簡単に触れた後、「レジスタンス」というキーワードの複数の意味に沿って本書の骨子を紹介した。すなわち、ミシェル・コンタの「『存在と無』は対独レジスタンスの書だ」という読みを出発点とし、それを発展させて、第二次世界大戦下で書かれたこの著書がいかにナチズムに対して真逆の人間観を突きつけ「存在論的平等」の概念を打ち出した哲学と言えるかを探ったということ、同時にこの意識の学がいかにカント、ヘーゲル、フッサール、ハイデガーへの挑戦でありそれらの換骨奪胎となっているかを具体的に検証したということ、これらを断片的ながら可能な範囲で説明した。その上でサルトル哲学は自らの時代社会に向き合い戦う哲学でもあると主張し、21世紀の今、世界を脅かす幾多の問題と自由な意識を脅かすドクサを前にこの哲学が私たちにいかなるレジスタンスの可能性を開いてくれるかという問いを改めて投げかけた。
 特定質問者の齋藤元紀氏からは、ドイツ哲学およびレヴィナスとの関わりで筆者が力及ばなかった点や疑問が残っていた点について意義深いご教示を頂いた。「運動」概念や時間論の扱いが不十分だったことに気づかされたほか、取り上げなかったsubjectivité 概念についても氏の質問を受け、無視できない多義的な揺れがあることをその後確認できた。
 根木昭英氏からは、カント的規範性、authenticité、回心そして死をめぐって、著書で論じ尽せなかった点について発展的考察を提示して頂いた。特に「死よりも拷問に耐えられるかどうかがより深刻だった」という指摘は正鵠を射ており、より踏み込んで論じるべきだったと思う。
 永野潤氏からは、終章で「革命的暴力」の問題に関連し、サリドマイド児殺害事件に関するサルトルの考察に触れたことについて、それらを同一線上には置けないとの指摘を受けた。大義による「正当化」と可知性の追求による「理解」を区別する目的で補足的に言及したのだが、障害児への暴力という問題はたしかに戦争や革命における暴力とは異質の問題である。論じるなら稿を改め別の文脈で真正面から扱うべきだろう。
 以上、三人の方々からの貴重なご指摘を確と受け止め、より深めて次の仕事につなげたい。


特定質問1 サルトル『存在と無』におけるハイデガーとの対決(齋藤元紀)
 本書は、ミシェル・コンタの洞察を引き受けつつ、サルトルの「意識の現象学」を「レジスタンス」として捉え、『存在と無』ならびにその成立過程におけるヘーゲル、フッサール、ハイデガーとの関連を緻密に考察している。評者は、とくにサルトルとハイデガーとの関係の考察に焦点をあて、以下四つの疑問点を提起した。
 第一は、意識と現存在の関係である。第三部第一章の指摘のとおり、サルトルはレヴィナスとコルバンからの強い影響下で「フッサールとハイデガーの連続性」を引き受けたが、レヴィナスはこの連続性のうちに「活動性」概念の拡張と移行を見てとってもいた。サルトルも「《中に-存在する》」ことに「運動」の意味を見いだしたと本書は指摘しているが (306頁)、その内実はどのようなものか。
 第二は、意識の主体性の身分である。本書では、サルトルが意識と現存在の間に「交換可能な要素」を見いだすのみならず、現存在の了解における意識の欠如を批判し、了解を意識へと置き換えるという「二面作戦」を講じたことが見事に究明されている(320、376頁)。ところが他方、こうした交換可能性を認めるとすれば、現存在にはなお「意識」ないし「主体性」の概念が残存していることになるが、翻って、たとえ「非定立的」とされるにせよ、サルトルの「意識」にもなお「主体性」の概念が残存していると考えられることになる。この場合の主体性は、いかなる身分を有しているのか。
 第三は、即自に対する本質直観の意義である。本書は、サルトルが人間以外の存在を即自へと狭め、「環境や多様な生命」への責任を不問とした点を批判しつつ、その克服の可能性を探っている(453-456頁)。後期ハイデガーの技術批判とも一脈通じる優れた洞察といってよいが、そのさい「即自を本質直観によって捉え直」す (454頁) という場合の「本質直観」はどのような役割において考えられているのか。
 第四は、時間性の重心の相違である。ハイデガーの時間論が将来に優位を置くのに対して、サルトルは現在を強調している。双方ともに、時間の脱自性とその統一を理論化している点では同一と言えるが(389頁)、『存在と時間』以降ハイデガーは、「現在」をさらに批判的に問題化していく方向性へ進んだ。サルトルは現在を強調することで、そこにいかなる含意を込めたのか。


特定質問2(根木昭英)
 根木よりは、おもに以下五点について質問させていただいた。1)サルトルの60年代モラル論草稿でカントの言葉として頻出するようになる« tu dois, donc tu peux. »は、実際にはシラーによるパラフレーズが一般化したものであるようだ。ここでのカント受容について、本書の間テクスト的アプローチからなにか見通しがあればお聞きしたい。2)本書では、サルトルの「真正さ(authenticité)」が、非本来的想念に捉われた具体的人間をも包摂するモラルとして、ハイデガーの「本来性(Eigentlichkeit)」が持つある種の貴族主義に対置される。しかし、「回心(conversion)」を前提するサルトル的「真正さ」も、やはり同様の傾向を共有しているとは言えないだろうか。3)コンタ氏の講演は、戦時中のサルトルの振る舞いをめぐる論争の渦中で書かれた反論という側面も強いのではないかと思うが、その点について補足的なコメントがあればお願いしたい。4)本書では、「死」をめぐるサルトルの思索が、死の恐怖のただなかにおいて「死へと向き合う存在」を拒絶する、抵抗への誓いとして取り出される。一方、サルトルはレジスタンスについて語るさい、「死」ならぬ「拷問」の恐怖についても語っているように思うが、その点をどう位置付けるべきだろうか。5)『弁証法的理性批判』などを中心に研究を進めて来られた氏が、遺稿などのコーパス拡大のなかで、とりわけ『存在と無』へと遡ろうと考えられた理由について伺いたい。
 質疑については時間の制約も大きかったが、とくにカント受容やauthenticitéの解釈について議論となり、カント的規範性に対するサルトルの両義的態度が確認されたほか、authenticitéについても、「特異的普遍」やサルトルのエクリチュールの多様性といった観点から議論が深められた。あらためて最初の主著に立ち返る必要性を感じたという氏の言葉も印象的であった。振り返ると、評者の質問は、本書の考察そのものからはやや外れた事項に関わるものも多く、噛み合った議論を発展させにくいものであったかもしれない。これはひとえに、本書の内的な論理に正面から切り込むことが容易でなかったためで、準備にあたっては、氏の調査の緻密性、論証の堅牢性を痛感した次第であった。


特定質問3(永野潤)
 『戦場の哲学』終章「戦争と存在論」で、生方氏は、サルトルの暴力論は「暴力に訴えることへと追い詰められた意識への問い」である、と言う。暴力を「人間らしく生きることの不可能という否定的状況にあってその否定を否定すべく炸裂する」ものと考えるサルトルは、暴力を非合理な絶対悪として排除するのでもなく、逆に「正当化」するのでもなく、暴力が繰り返されないために「理解」しようとする。そうしたサルトルの「暴力論」の一例として、本書では、1964年のローマ講演でのサリドマイド児殺害事件についての記述が取り上げられている。サルトルによると、この行為に既存の法や倫理的規範への単純な違反を当てはめるべきではない。生方氏が言うように、サルトルは殺害を「正当化」しているわけではないが、彼はこの行為を、薬禍を生み出す非人間的制度の否定、「実践的惰性態に対する実践の闘い」として考えるのである。しかし、質問者は、サリドマイド児の例が、サルトルの「全体的人間の倫理」の例として適切な役割をはたしているのだろうか、という疑問を持った。
 サルトルの議論には、70年代、80年代以降の障害者運動が踏まえられていないこともあるが、限界があるのではないだろうか。まず、子どもを殺した母親たちの暴力に着目するサルトルの議論は、殺される「障害者の」視点が欠けている。70年代、日本では、脳性麻痺者の団体「青い芝の会」が、重度障害のある子どもを殺した母親に対する減刑嘆願運動に反対したが、彼らは、母親の行為を既存の法や倫理的規範によって批判したのではない。彼らの運動は、自分たちを人間以下のものとして否定しようとする「健全者文明」に対するラディカルな闘争であった。ところでサルトルは、ダウン症児殺害など「自然的」なケースについては障害児殺害を「ブルジョア個人主義」として批判しているのだが、サリドマイド児殺害は「反自然」のケースとして区別して考える。しかし、この「自然」と「反自然」の区別は問題がある。そのことは例えば脳性麻痺当事者の堤愛子が、反原発運動が内包する障害者差別を批判する中で指摘している。
 一方、70年代のウーマン・リブ運動の中で、田中美津は、母親の子殺しの暴力を、ブルジョアジーのための労働力の再生産を担わされ、自らの〈生〉を生ききらせない女が、最も手近な矛盾物としての子どもを殺すという「被抑圧者の極限の自己表現」だった、と言った。この視点もまた、64年講演のサルトルには欠けている。70年代、障害者と女性たちは、対立しつつも、同じく否定的状況にあってその否定を否定すべく闘い、豊かな論争を繰り広げていた。しかし、サルトルが知らなかったこれらの運動と論争は、サルトルの暴力の思想によって読み解くことができるのであり、その意味で、そこに「可能性としてのサルトル」を見て取ることもまたできるのではないか、と質問者は考えた。


以上

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日本サルトル学会会報第67号 [会報]

研究例会のご案内

 下記の通り、第47回研究例会をオンラインで開催しますのでご連絡いたします。
 次回の研究例会は、昨年(2020年)に法政大学出版局より刊行された、生方淳子著、ミシェル・コンタ序『戦場の哲学――「存在と無」に見るサルトルのレジスタンス』の合評会を、ハイデガー研究会との共催で予定しております。
 登録フォームを用意しましたので、参加ご希望の方は下記 URL より7月9日21:00(日本時間)までにご登録をお願いいたします。
 当学会では非会員の方の聴講を歓迎いたします(無料)。多くの方のご参加をお待ちしております。


第47回研究例会

日時:2021年7月10日(土) 15 :00 ~ 17 :50
場所: zoom によるオンライン開催
※フランスからの参加も想定し、午後遅くからの開催となっております。ご注意ください。

【プログラム】
15:00 冒頭挨拶
15:05 生方淳子著、ミシェル・コンタ序『戦場の哲学――「存在と無」に見るサルトルのレジスタンス』(法政大学出版局、2020年)合評会
    司会:   谷口 佳津宏(南山大学、日本サルトル学会)
発表者:  生方 淳子(国士舘大学、日本サルトル学会、著者本人)
特定質問者:齋藤 元紀(高千穂大学、ハイデガー研究会)、永野 潤(東京都立大学ほか、日本サルトル学会)、根木 昭英(獨協大学、日本サルトル学会)

全体討論

17:50 休憩
18:00 総会
18:45 近況報告・情報交換会
※今回はオンライン開催のため懇親会は行いませんが、総会終了後に、zoom上で簡単な近況報告および情報交換の場を設ける予定です。

参加登録フォーム URL :https://bit.ly/3eSGxig

※zoom開催に関する細かな注意は、こちらのフォームにてお知らせします。なおこのURLはサルトル学会のブログにも掲示いたします。そちらもご利用ください。


サルトル関連文献

(1)著作
・永井敦子・畠山達・黒岩卓編『フランス文学の楽しみかた―ウェルギリウスからル・クレジオまで』、ミネルヴァ書房、2021年(根木昭英「ジャン=ポール・サルトル『文学とは何か』」、同「文学は「役に立つ」のか」所収)。

(2)論文
・伊吹克己「「反ユダヤ主義」について――サルトルとハイデガーにおける古い問題 」『専修人文論集』、第106号、2020年、225-262頁。
・Nariaki Kobayashi and Hiroaki Seki, "The Discovery of the Other in Post-War Japan: Two Sartreans on Kyoto School and Zainichi Koreans", Alfred Betschart & Juliane Werner, Sartre and the International Impact of Existentialism, Palgrave Macmillan, 2020, pp. 285-305.
・ヴァンサン・ド・コールビテール「イメージ、身体と精神の間で――サルトルの高等教育修了論文」関⼤聡訳、『Résonances ――東京大学大学院総合文化研究科フランス語系学生論文集』、第11号、2020年、 38-57頁。
・根木昭英「作家と著名性、その一致なき一致 ――サルトルにおける「読まれること」の諸相 (セレブリティの呪縛――18~20世紀フランスにおける著名作家たちの肖像)」『立教大学フランス文学』 、第49号, 2020年、11-27頁。
・大場健司「一九五〇年代日本におけるアメリカ論ブームと安部公房 ――エッセイ「アメリカ発見」と J=P・サルトル、鶴見俊輔」、『九大日文 』、第37号、2021年、47-66頁。
・澤田直「サルトルと第三世界(1)」『立教大学フランス文学』、第50号、2021年、33-59頁。
・谷口佳津宏「サルトルの (現象学的) 記述について――『弁証法的理性批判』における方法の問題 (その2)」『アカデミア. 人文・自然科学編 = Academia. Humanities and natural sciences』 第21号、2021年、41-51頁。
・陳柯岑「村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』試論――サルトルの受容を中心に」『言語文化学研究(日本語日本文学編)』、第16号、 2021年、19-44頁。
・水野浩二「サルトルとアロン――歴史の概念をめぐって――」『札幌国際大学紀要』第52号、2021年、41-50頁。

(3)サルトル関係の著作に関する書評
(A)水野浩二『倫理と歴史――一九六〇年代のサルトルの倫理学』、月曜社、2019年。
・澤田直「書評:水野浩二著『倫理と歴史――一九六〇年代のサルトルの倫理学』(月曜社、2019年)」、『フランス哲学・思想研究』、日仏哲学会、第25号、2020年9月、256-259頁(http://sfjp-web.net/journal/journal/revue-de-philosophie-francaise25-reblique-du-compte-rendu-de-livres.pdf)。
・増田靖彦「道標を打ち込むサルトル サルトル倫理学のありえたであろう全貌に迫る」、『図書新聞』、第3436号、2020年2月22日。

(B)澤田直『サルトルのプリズム――二十世紀フランス文学・思想論』、法政大学出版局、2019年。
・鈴木道彦「【書評】澤田直『サルトルのプリズム』」、『ふらんす』、白水社、2020年3月号。
・赤阪辰太郎「「生きること」と「書くこと」」、『週刊読書人』、 第3331号、2020年3月13日。
・渡辺諒「サルトルへの愛/サルトルからの愛」、『図書新聞』、 第3440号、2020年3月21日 。
・竹本研史「書評:澤田直著『サルトルのプリズム――二十世紀フランス文学・思想論』(法政大学出版局、2019年)」、『フランス哲学・思想研究』、日仏哲学会、第25号、2020年9月、238-242頁(http://sfjp-web.net/journal/journal/revue-de-philosophie-francaise25-reblique-du-compte-rendu-de-livres.pdf)。
・Hiroaki Seki, « L'époque, cet obscur objet du désir. Note de lecture sur Nao Sawada, La littérature française du XXe siècle au prisme de Sartre, Tokyo, Presses Universitaires de Hosei, 2019, 373p. », L'Année sartrienne, n° 34, 2020, Presses Universitaires de Liège, p. 222-228.
・酒井健「幾条もの新たな問いかけの光」、『法政哲学』、第17号、2021年3月30日、67-70頁。

(C)生方淳子著、ミシェル・コンタ序『戦場の哲学――『存在と無』に見るサルトルのレジスタンス』、法政大学出版局、2020年。
・柏倉康夫『「戦場の哲学」、ムッシュKの日々の便り』、2020年11月19日https://monsieurk.exblog.jp/28302723/
・竹本研史「二一世紀のレジスタンス」のための真正なる読解――書評:生方淳子著、ミシェル・コンタ序「戦場の哲学――『存在と無』に見るサルトルのレジスタンス」、『図書新聞』、第3491号、2021年4月、第5面。


サルトル関係イベント

哲学カフェ横浜 報告者:永野潤「入管問題とサルトルの反植民地主義思想」
2021年5月23日(日)13:00~15:30(zoom開催) 申し込みは https://www.tetsu-cafe-yokohama.info/ 


理事会からのお知らせ

・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。

以上


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 Tel : 03-3985-4790
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1 Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-Mail:ajes.office@gmail.com Blog : https://ajes.blog.ss-blog.jp (ブログの URL が変わりました)
Website : http://ajes.html.xdomain.jp/ (HP の URL も変わりました)

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日本サルトル学会会報 第66号 [会報]

研究例会のご報告
 第46回研究例会を下記の通り、オンラインで開催しましたのでご報告いたします。
 今回の研究例会では、昨年講談社学術文庫より翻訳が刊行されたサルトル『イマジネール』をめぐるミニ・シンポジウムが行われました。以下、報告文を掲載いたします。

ミニ・シンポジウム「『イマジネール』をめぐって」
日時:2020年12月19日(土)16:00 - 20:30
場所:zoom によるオンライン開催

・澤田直(立教大学)「サルトルのイメージ論:想像界と現実界 その境界はあるのか」
・水野浩二(札幌国際大学)「イメージは本当に貧しいのか」
・関大聡(東京大学大学院)「思考、言語、イメージ――サルトルの高等教育修了論文(1927)とその指導教官アンリ・ドラクロワ」

 2020年5月、コロナ禍のなかでL’imaginaireの新訳が『イマジネール 想像力の現象学的心理学』として講談社学術文庫より出版された。これはアルレット・エルカイム=サルトルの校訂のフォリオ版の完訳であり、アルレットの序文は初訳となり、訳注と訳者解説の充実も特筆される。今回はこの出版を記念して、インターネット上のZoom会議室でミニ・シンポジウムが開催され、翻訳者である澤田直・水野浩二両氏による発表と、先ごろヴァンサン・ド・コールビテール「イメージ、身体と精神の間で サルトルの高等教育修了論文」の翻訳を『レゾナンス』誌に掲載した関大聡氏の発表が行われた。澤田氏は東京から、水野氏は札幌から、関氏は留学中のパリからの参加となった。

 澤田直氏は、まず『イマジネール』が心理学研究の流れのうちに生まれつつ、イメージの問題のターニングポイントとなった著作であることを示す。それまでフランス哲学においてイメージは主要な問題点ではなかった。それに対して、心理学ではサルトルが取り上げる問題が活発に議論されていた。とりわけジョルジュ・デュマの監修した『心理学概論』および『心理学新概論』が多くの研究者を巻き込んで、多角的な研究成果を発表していた。澤田氏は、サルトルがこれらの知見を存分に利用しつつ、それを哲学の領域へと転換していた点に着目する。それは知覚とイメージを峻別し、知覚を実在的な定立作用、イメージを非実在的な定立作用として考えることによる。従来の心理学的アプローチから離れて、より包括的な視座からなされた主張は、同時代のブランショ、レヴィナス、メルロ=ポンティ、そして後に続く哲学者、文学者たちの反応を呼び起こすことになった。19世紀においてフランスの哲学者たちはイメージの問題を扱わず、もっぱら詩人、文学者たちの領分であった。これはプラトン以来の哲学がロゴスを中心とし、イメージを排除してきたからである。
 こうした明快な見取り図の提示のあとで澤田氏は、知覚と想像の二分法とは何かという問いに議論を進める。Présence、absenceと定立の問題が結びつくことで生じた現実界と想像界の対立は果たして、適切だろうかという問いである。澤田氏はその違和感を口にし、サルトルのイマジネール論がこの後十全な展開が続かなかったのは、サルトル自身が知覚とイメージでの二元論では十分ではないとうすうす感じていたためではないか、という考えを開陳する。
 ここで言及されるのは、サルトルが晩年に「イマジネール」の問題を取り上げなおした『家の馬鹿息子』における「脱現実化」であり、最初期の1927年の高等教育修了論文『心的生活におけるイメージ』に登場する「多重知覚」surperceptionである。後者は澤田氏によれば、写真の二重露出に似て、一つの知覚が別のものを喚起し、二重化するものであり、これと似たものが、『イマジネール』の物まねについての記述にあるとする。確かに物まねにおいては、「完全な知覚でも完全なイメージでもないハイブリッドな状態」(p.93)が生じるとあり、精査に値する。知覚と想像の峻別という『イマジネール』の根本問題に外部の視点からの批判でなく、サルトル自身の思考に即して訳者が言及した意義は大きい。この峻別の再検討という問いはここに口火を切られ、今回のシンポジウムを通して繰り返し言及されていくことになった。

 水野浩二氏は、イメージの貧しさをキーワードとして論じた。イメージの「本質的貧しさ」という表現は、サルトルのイメージ論をネガティヴに評価する人たちによって好んで使われてきたものであるが、水野氏はその表現を俎上にのせ、明快な議論によって誤解を解いていく。
 まずこの表現がでてくるのは、ひとはイメージとしてのパンテオンの柱の数を数えることはできないというアランの発言である。サルトルはこれを引いて、イメージの準観察という特徴を説明している。水野氏はイメージの本質的貧しさはイメージの対象の貧しさのことであり、イメージの対象が貧しいのはイメージの素材が貧しいからであるとまとめる。一方、意識の作用としてイメージを見るならば、そこには自発性があり、非現実的なもの、想像的なものを志向する人間の自由を認めることができ、豊かなものとして理解できることになる。
 以上を踏まえて、水野氏は、ご自身が訳されたフランソワ・ダゴニェの『イメージの哲学』(法政大学出版局)の議論を参照しつつプラトン主義との関係について論を進める。ダゴニェはサルトルをプラトン主義に陥っていると批判する。イメージから正確で新しい情報が得られないのは、サルトルがイメージを現実の影とみているからで、これこそプラトン主義の証左であると。これに対し、水野氏はサルトルの画家の制作に関する記述が、プラトン主義批判になっているという。サルトルによれば画家は物質的なアナロゴンを作るだけであり、先に自分の心的イメージがあり、それを絵画化しているのではないのだから。
 最後に水野氏は、イメージの語義の曖昧さにもどり、意識の作用としての側面と図像という側面をサルトル自身が意識し、利用していることを指摘した。

 関大聡氏は、1927年、サルトルが高等師範学校在学時に執筆し、2018年にÉtudes sartriennes誌に掲載された『心的生活におけるイメージ 役割と本性』という研究の最前線の資料を扱った。しかし単なる紹介ではなく、サルトルが指導教官アンリ・ドラクロワの著作『言語と思考』を精読していることを示し、その影響と離反を1927年論文と『イマジネール』におけるイメージと思考に関する記述の変化に探るという野心的なもので、パワーポイントを駆使しつつ圧倒的な情報量と緻密な議論によって聴衆を魅了した。
 関氏は、まずこの時期のサルトルに言語に関する関心の薄さを指摘し、その理由としてドラクロワの「言語なき思考は存在しない」をずらした「イメージなき思考は存在しない」という主張によって、イメージ論のうちに言語論は回収されてしまったのではないかと考える。この主張は新カント派に対する、思考のイメージ的豊かさの強調であり、イメージを言語に対して優位におくものであった。だがこの主張は、1940年の著書では放棄されたとする。関氏によれば、『イマジネール』の心的イメージの準観察という特徴からは、イメージ自体が知であって、思考の道具になるものではないことが導き出せる。これを関氏はイメージ的知と呼ぶ。その一方、サルトルはイメージを欠いた純粋な知、いいかえると関係性の意識が存在することを明言しており、よって2種の知が存在する。
 さらに関氏は、ドラクロワではイメージは言語より劣った思考の道具としてとらえられており、逆の主張のサルトルはドラクロワの言語論を援用しつつ変形していると指摘し、ここに裏切りの師弟関係という人間ドラマを重ねた。この師弟関係の提示は多くの聴講者にとって意表を突くものであっただろう。影響としては、当時サルトルがドラクロワの著作からソシュールについて知識を得ていた可能性、単語よりも文を重視するドラクロワの言語論の継承が指摘された。

 この後、発表者間の応答に加え、参加者からも『イマジネール』の深い理解に基づく高度で鋭角的な質問が続き、シンポジウムは非常に充実したものとなり、最終的には4時間を越えるものとなった。また今回は会員外の聴講も多く、30名を超える参加者があった。
(報告:黒川学)


理事会からのお知らせ
・日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。次回例会は、2021年7月に、生方淳子著『戦場の哲学――「存在と無」に見るサルトルのレジスタンス』の合評会を予定しております。オンラインか、オンサイト(立教大学)か、ハイブリッドかは、今後の状況などを勘案して決定いたします。
・会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。

以上
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日本サルトル学会会報第65号 [会報]

研究例会のご案内
 第46回研究例会を下記の通り、zoom を利用してオンラインで開催しますのでご連絡いたします。
 次回の研究例会では、本年(2020年)に講談社学術文庫より日本語訳が刊行された『イマジネール』をめぐってミニ・シンポジウムが行われます。
 登録フォームを用意致しましたので、参加ご希望の方は下記URLよりご登録をお願い致します。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎いたします(無料)。多くの方のご参加をお待ちしております。

第46回研究例会
日時:2020年12月19日(土) 16 :00~  
※フランスからの参加も想定し、夕方からの開催となっております。ご注意ください。

【プログラム】
16:00 冒頭挨拶
16:05 ミニ・シンポジウム「『イマジネール』をめぐって」
趣旨説明
澤田直(立教大学)「サルトルのイメージ論:想像界と現実界 その境界はあるのか」
水野浩二(札幌国際大学)「イメージは本当に貧しいのか」
関大聡(東京大学大学院)「思考、言語、イメージ――サルトルの高等教育修了論文(1927)とその指導教官アンリ・ドラクロワ」
全体討論
17:50 休憩
18:00 総会
18:45 近況報告・情報交換会
※今回はオンライン開催のため懇親会は行いませんが、総会終了後に、zoom上で簡単な近況報告および情報交換の場を設ける予定です。

参加登録フォームURL  https://forms.gle/RF92Baz9B2qRHq8S8 
※zoom開催に関する細かな注意は、こちらのフォームにてお知らせします。

  

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日本サルトル学会会報第64号 [会報]

研究例会のご案内
 第45回研究例会を下記の通り開催いたしますので、ご連絡致します。
 先般お伝えしました通り、日本サルトル学会では新型コロナウイルス感染症への対応について理事会で協議した結果、次回研究例会をzoomを利用したオンライン開催とすることに決定致しました。
 次回の研究例会では、小林成彬氏(一橋大学)による研究発表が行われます。
 登録フォームを用意致しましたので、参加ご希望の方は下記URLよりご登録をお願い致します。
当学会では非会員の方の聴講を歓迎致します(無料)。多くの方のご参加をお待ちしております。

第45回研究例会
日時:2020年10月11日(日) 16 :00~  
※フランスからの参加も想定し、夕方からの開催となっております。ご注意ください。

【プログラム】
16:00 冒頭挨拶
16:05 研究発表:小林成彬(一橋大学)
    「ティントレットの物語──サルトルとランシエールから」
    司会:森功次(大妻女子大学)
17:30 休憩
17:40 総会
18:15- 近況報告・情報交換会
※今回はオンライン開催のため懇親会は行いませんが、総会終了後に、zoom上で簡単な近況報告および情報交換の場を設ける予定です。

参加登録フォームURL  https://bit.ly/2F13cKb
※zoom開催に関する細かな注意は、こちらのフォームにてお知らせします。  

発表要旨
小林成彬(一橋大学)「ティントレットの物語──サルトルとランシエールから」

ジャック・ランシエールは『哲学者とその貧者たち』(1983)で苛烈極まるサルトル批判を展開している。しかしながら、彼はもともとサルトリアンであり、近年のインタビューにおいても自身が大きくサルトルから影響を受けていることを隠そうとしない。しかし、ランシエールとサルトルが比較検討される機会は世界的に見てほとんどなかったと言ってもいいのではないだろうか。本発表では、『哲学者とその貧者たち』のサルトル批判を軸にしつつ、両者を比較検討し、サルトル美学の政治的射程を改めて探っていきたい。

サルトル関連文献
・澤田直:「文学とは何か──加藤周一、サルトル、そして〈独自的普遍〉──」三浦信孝・鷲巣力編『加藤周一を21世紀に引き継ぐために 加藤周一生誕記念国際シンポジウム講演録』)(水声社、2020年 p. 251-270)
・竹本研史「個人の実践と全体化の論理――ジャン=ポール・サルトルにおける特異性の位相」、東京大学大学院総合文化研究科博士論文、2019年。


理事会からのお知らせ
・ 日本サルトル学会では、研究発表・ワークショップ企画を随時募集しています。発表をご希望の方は、下記のメールアドレスにご連絡下さい。なお例会は例年7月と12月に開催しています。
・ 会報が住所違いで返送されてくるケースが増えています。会員の方で住所、メールアドレスが変更になった方は、学会事務局までご連絡ください。なお、会報はメールでもお送りしています。会報の郵送停止を希望される方は、事務局までご連絡ください。
・ 今年度の冬の例会では、新訳『イマジネール』(澤田直・水野浩二訳、講談社学術文庫、2020年)に関するワークショップを開催する予定です。日程は12月19日(土)を予定しています。
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