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日本サルトル学会会報第62号 [会報]

研究例会のご報告
 第44回研究例会を下記の通り開催致しましたので、ご報告致します。
 今回の研究例会では赤阪辰太郎氏の博士論文合評会、および谷口佳津宏氏による研究発表が行われました。以下、報告文を掲載致します。

第44回研究例会
日時:2019年12月7日(土) 13 :30~
場所:南山大学(Q棟4F 416教室)


博士論文合評会 
発表者:赤阪辰太郎(立命館大学)
「前期サルトルの哲学研究――形⽽上学の問題を中⼼に」(筆者自身による博士論文内容紹介)
特定質問者:生方淳子(国⼠舘⼤学)、⼩林成彬(⼀橋⼤学)
司会:根⽊昭英(獨協⼤学)
 
 例会の前半部では、私の博士論文の合評会を開催していただいた。
 冒頭の20分程度で私のほうから博士論文の内容を紹介した。拙論では「形而上学」という主題がサルトルの前期著作にとって文学・哲学・実存をつらぬいて独自の重要性をもっている、という仮説のもと、1920年代から40年代後半までのテクストを読み解いていった。要旨については大阪大学の機関リポジトリ上でも公開されているため、ご興味のある方は参照いただければさいわいである(http://hdl.handle.net/11094/73504)。
 その後、まず特定質問者の小林成彬氏から質問をいただいた。小林氏からは拙論の問題点を非常に詳細にわたって指摘していただいたが、ここでは頂いた質問・疑義のなかから数点を紹介するにとどめたい。紙幅の都合上、いただいたコメントの理路が正しく再現できていない点があるかと思うが、どうかご容赦いただきたい。
コーパスの問題:拙論が主に研究対象としたのは「前期サルトル」のテクストだったが、この前(中)後期という区分および論じるテクストの選択に恣意性があるのではないか。とりわけ、形而上学という主題がマルクス主義受容にともなう主体概念の改鋳にともない背景化してゆく、という筋書きに妥当性がはたしてあるのだろうか、という疑義が呈された。
『存在と無』緒論をめぐる問い:拙論では『存在と無』の取り組みを現象学的存在論と形而上学に分け、即自と対自の存在領域を設定する「緒論」が、即自と対自という二元性から存在にアプローチする視座を設定するという意味で「形而上学」に属する、と論じた。この点について、「緒論」の議論は現象主義批判から現象学的存在論へと必然的に辿りつく過程を示したものであって、そこには視座の決定や選択はないのではないか、という疑義が呈された。
承認をめぐる問い:拙論では『文学とは何か』における作家と読者の承認を論じる際に、サルトルがテクスト中で語る理想的な承認関係とは反対に、書いている現在の作家と潜在的読者、読書中の読者と作品から垣間見える作家がすれ違うようなコミュニケーション構造がみられるのではないか、と論じ、その上で承認を語ることの意義を「理念の不可能性の体験」に求め、その倫理的意義を論じた。これに対し、作家も読者も互いに自由を承認していなければ読む・書くことはできないのではないか、したがって互いの自由の想定があるのではないか、と疑義が呈された。
 以上のような質問の後に、小林氏は準備中の博士論文の内容ともかかわる「サルトルと夢」という主題について論じられ、ご発表を締めくくられた。
 つづく生方氏の質問で特に焦点となったのは次のような点である。
サルトルに独自の形而上学があるとして、それは形而上学の歴史にとってどのような貢献を果たしているのか(デカルト、カント、ハイデガーとの差異など)。
小林氏の質問とも関連するが、『存在と無』緒論においてサルトルが行っているのは彼が定義する形而上学なのか、あるいは存在論なのか(存在論なのではないか)。
他者論を扱う章において「認識」の問題と「存在」の問題を正しく区別しているか。
対自存在の出現という絶対的出来事を誕生の出来事と同一視してよいのか(『倫理学ノート』で参照される、ヘーゲルにおける人類史的な視点を考慮すべきではないか)。
 こうした質問のほか、『デカルト的省察』における、形而上学にかんする記述をめぐるハイデガーとフッサールとの思想上の対決が見られる点などを指摘され、拙稿で扱うことができなかった哲学史的な空白を補う有意義なコメントをくださった。
 会場からは、文学における形而上学と哲学における形而上学を架橋した上で前期サルトルのテクストを再評価する、という拙論の試みについて、その成否を問う声もあがった。上記のすべての質問にたいして十分な回答ができたとは言えないものの、いただいた質問については今後の研究のなかで応答してゆきたいと考えている。
 最後に、特定質問者を引き受けてくださった生方先生、小林先生、そして合評会に参加してくださった諸先生方に感謝いたします。 (赤阪辰太郎)


研究発表
発表者:谷口佳津宏(南山大学) 
「『弁証法的理性批判』における方法の問題」
司会:森功次(大妻女子大学)

 谷口氏の発表は、『弁証法的理性批判』の冒頭部分にある「方法の問題」、そして公刊された『弁証法的理性批判』の前半部分、そして未刊に終わった『弁証法的理性批判』の第二部との関係を考察するものであった。谷口氏が現在進めているこの考察作業の一部は、すでに南山大学紀要『アカデミア』人文・自然科学編第16号に「『弁証法的理性批判』における方法の問題(その 1)」というタイトルで発表されている(http://doi.org/10.15119/00002376)。この著作間の関係を問い直す谷口氏の作業は現在も継続しており、今回の発表はその作業の中間報告にあたるものといえる。
 この時期のサルトルの一連の著作群の関係に関しては、「方法の問題」で提示された「遡行的-前進的かつ分析的-綜合的方法」という方法のうち、まず『批判』の公刊部分では「遡行的-分析的」方法が採用され、『批判』の未刊部分で「前進的-総合的」方法が採用された、と見るのが従来の基本的な解釈であった。だが谷口氏はこの解釈に異を唱える。
 まず、たしかに書物の構成としては「方法の問題」が先に来て、その後に「批判」が続く形になっているが、サルトル自身が、論理的な順序としては「批判」の部分が「方法」を基礎付ける形になっていると明言している。さらに『方法の問題』の当初雑誌に発表されたバージョンでは、『弁証法的理性批判』に言及する注の部分が過去形で書かれており、そこからは『方法』と『批判』は同時期に並行して書かれていたのではないか、と考えることも可能である。そして『方法の問題』の執筆経緯をみると、これは元はポーランドの雑誌への依頼論文であり、その点に鑑みれば『方法の問題』は、サルトルが長年抱え続けていた「マルクス主義を人間化する」という問題意識のうち公にできそうな部分をひとまず執筆して形にしたといえるかもしれない。
 さらに谷口氏は「基礎づけ」という関係に着目して『批判』を読み解く。『方法の問題』における考察は、史的唯物論が正しい理論であることを前提として進められている。『批判』をその史的唯物論を検討し立証するパートとして見るならば、『批判』は『方法』の基礎を提供する作業とも言える(ただしその史的唯物論の正しさを語る際に、サルトルが自己原因的存在について以前よりも寛容な態度を見せている点は注目に値すると谷口氏はいう)。この点を逆に見れば、『方法の問題』はあくまでその基礎づけ作業が成功するまではただの仮説に過ぎないもの、と見ることもできるのである。
 谷口氏は各パートで用いられている具体例の違いについても触れていた。『方法』では過去に遡る形で人物研究が行われるが、他方、『批判』では抽象的な個人を例に議論が進められる。この〈具体例の種類の違いが、そこで採用されている方法論とどのように関係するか〉という問題意識は、哲学的なアプローチとして非常に興味深いものであり、今後のさらなる成果を期待したいところである。
 最後に谷口氏は、「記述」という作業についても触れた。谷口氏の見るところ、『方法の問題』での作業の進め方は、サルトル自身が紹介しているアンリ・ルフェーヴルの方法論とかなりの部分軌を一にしている。じっさいサルトルは『方法の問題』の中でルフェーブルに言及しつつ、a)記述的、b)分析的-遡行的、c)歴史的-発生的、という作業手順を語っている。だが、谷口氏の見るところ、両者の作業には違いも見られる。それはサルトルが「記述」の部分を「現象学的記述」として解釈している点だ。ところがルフェーブルの作業に現象学的はあまり見られないし、「現象学的記述」というものをサルトル自身がどのように理解していたのかすら、あまり明らかではない(じっさい『批判』期やその後の著作にも「現象学的記述」という語はほとんど見られないという)。サルトルが『批判』の中に、現象学的な観点をどのようにして取り込み、どう維持しているか、という点は今後の検討課題である(谷口氏はコメントの形で、ここでいう「現象学的記述」はアルフレッド・シュッツがやっていた作業のようなものとして考えられるかもしれない、という示唆をしていた)。
 最後に全体的なコメントをいくつか付して、報告を終わりとしたい。谷口氏の発表では(氏がこれまで発表してきた論文と同じく)、ある書物の出版経緯や、書籍化に至るまでのささいな表現変更――そしてそこから読み取れるサルトル自身の思想の時系列的変化――に気を払う、非常に精緻な読解作業がなされていた。またディスカッションの中で谷口氏は「現時点で言えるのはここまでで、ここから先はあくまで推測にすぎない」といった類の留保を頻繁に述べていたが、そうした解釈上の線引きに常に配慮する氏の真摯な姿勢は、同じ分野の研究者として非常に感銘を受けるものであった。緻密な読解には時間がかかる。氏の発表は、その忘れられがちな事実をあらためて示す発表であった。(森功次)


サルトル関連文献
・澤田直『サルトルのプリズム:二十世紀フランス文学・思想論』法政大学出版局、2019年12月
・イ・アレックス・テックァン「理論と冷戦 第1回 右翼的なサルトル?」鍵谷怜訳『ゲンロン』10、p. 224-233.
・得能想平「トゥルニエの「非人称主義」――サルトルの『存在と無』との比較において」『哲学論叢』46、京都大学哲学論叢刊行会、pp. 32-43.


理事会からのお知らせ
 次回のサルトル学会例会は、7月上旬にて立教大学にて開催予定です。
 日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes 
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室 ℡03-3985-4790
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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