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日本サルトル学会会報第60号 [会報]

研究例会のご報告
第43回研究例会を下記の通り開催致しましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では茨木博史氏、水野浩二氏による研究発表が行われました。以下、報告文を掲載致します。

第43回研究例会
日時:2019年7月13日(土) 14 :00~
場所:法政大学 市ヶ谷キャンパス ボアソナードタワー(BT) 26階A会議室

研究発表 
茨木博史(在アルジェリア日本大使館) 「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」
 茨木博史氏の発表「サルトルとアルジェリア戦争:アルジェリア側の視点からの再考」は、アルベール・カミュやマグレブ文学およびアルジェリアの地域文化研究を専門とする茨木氏が、サルトル自身の言説と彼の協力者たちが、アルジェリア戦争期にアルジェリアにもたらした影響について、言説分析および受容・影響の観点から検討したものである。
 茨木氏はまず、サルトルがアルジェリアについて論じたものとして、『シチュアシオン V 』に所収された「植民地主義はひとつのシステムである」をはじめ、多くの評論が残されている一方、アルジェリアの知識人たちが、サルトルについて直接的に言及している文献はほとんどないという事実を明らかにした。
 サルトルとアルジェリアとの具体的な関わりは、1948年のガルダイアやタマンラセットなどの砂漠地方へのボーヴォワールとの旅行である。一方、茨木氏が引用するヌレッディーヌ・ラムシが指摘する通り、サルトルは1945年のセティフの大虐殺についても同時期に言及をしておらず、彼は1950年代になってからアルジェリアの植民地問題について発言するようになった。茨木氏は、フランシス・ジャンソンらは、サルトル主宰の『レ・タン・モデルヌ』誌でそれ以前に反植民地主義キャンペーンを明確に打ち出しており、サルトルのアルジェリアに関する言説はそのキャンペーンの一環で読まれるべきだと提唱した。
 茨木氏は、これまでサルトル研究ではほぼ扱われていなかった、フェラト・アバース(のちのアルジェリア共和国臨時政府大統領)率いる『ラ・レピュブリック・アルジェリエンヌ』紙に掲載された1953年1月のインタビューを取り上げた。茨木氏はそこからまず、同紙による、国際的名声のあるサルトルが仕事に忙殺されているにもかかわらず、文書で回答いただいた、とする非常に恭しい紹介に着目し、同紙にとってサルトルが距離感のある象徴的存在に祀り上げられていることを明らかにした。また茨木氏は、サルトルが先のインタビューへの回答のなかで、「コロン」の人種主義がフランス本国にも有害なものであり、植民地の問題がフランス社会の民主主義の問題と分かちがたく結びついており、その植民地の問題は人種主義が支えているという見方を示す一方、この枠組みをジャンソンが52年に『レ・タン・モデルヌ』誌に発表したテクストですでに提示していることを喚起し、それが以降のサルトルにとっての基本的な論調となっていると主張した。
 つぎに茨木氏は、1956年のサルトルのテクスト「植民地はひとつのシステムである」について論じたが、そこでサルトルが「良いコロンと悪いコロンがいるのではない。コロンがいる、それがすべてだ」という、《改良主義者=新植民地主義者》の欺瞞を批判した有名な言説を分析しつつ、「私は、小役人や、労働者、小さな商店主といった、体制の無実の犠牲者でもあり受益者でもある人たちをコロンとは呼ばない」という文言も取り上げたが、その文言は当時のコロンの事情とは辻褄が合わず、サルトルは「コロン」概念を非常に曖昧で粗雑に扱っているのではないかという問題提起をした。ただし、こうした正確さを欠くイメージはサルトルのみならず、本国で流布しており、茨木氏は、こうした「コロン」のイメージに対するカミュやジャック・デリダの批判などアルジェリア側からの不満を持った反応を紹介した。
 サルトルの「植民地はひとつのシステムである」も発表された1956年1月にパリで開催されたミーティングで、アルジェリアの詩人ジャン・アムルーシュが、アルジェリア人であるとともにフランス人でもあることを信じているという、フランスへの愛着も語りながら、「ヨーロッパのフランス」とともに、「植民地主義のフランス」という側面も持っており、アルジェリアのゲリラが武器を取る相手は後者のフランスなのだと主張している。茨木氏は、アムルーシュをはじめとするアルジェリア人なども含めて、知識人の集いの場がサルトルを中心にしてつくられることも、サルトルの功績のひとつであると指摘するとともに、このアムルーシュの論考をサルトルに関連づけて、サルトル自身が守りたかったのは、アムルーシュのいう「ヨーロッパのフランス」であったのだと強調した。併せて、歴史のなかで自らの存在を認めさせるというのが被植民者たちのスローガンであったし、この時期から多くのアルジェリア人作家たちの重要なテーマとなったことも述べられた。
 さらに茨木氏は、「植民地はひとつのシステムである」以降のアルジェリアについての論考を分析した。サルトルはアルジェリア戦争中、次々に論考を発表していくが、アルベール・メンミなどの色々な本から学びながら、その都度その都度ひとつずつ新たな要素を付け加え、「コロン」についての概念も明確化していくという特徴も示した。1957年、58年ごろから拷問の存在が明らかになっていくが、サルトルがそれを深刻に捉え、植民地主義や「コロン」による人種主義が、本国のフランス人と切り離された問題ではなく、有害なものとして自分たちに到達してしまった問題なのだと危機感を抱き、フランスを恥辱から、アルジェリア人を地獄から救うために交渉を開き、戦争を止めるべきだと本国のフランス人をnous として呼びかけを行っている。こうした事実から茨木氏は、ラムシを引きながら、サルトルの言論が本国のフランス人を明確な宛先として書かれていることが、アルジェリアでの直接的な反応が少ない原因のひとつではないかと導き出した。
 以上から茨木氏は、「100万人のアルジェリア人を殺戮させたという我々の敗北」とサルトルが記した1962年の「夢遊病者たち」に至るまで、アルジェリアに関するサルトルの論考について、アルジルダス・ジュリアン・グレマスの物語分析を援用しながら、我々という sujet が、フランスの解放を、objet として求めて冒険を続けていたが、結局それに敗れてしまうということ、自分たちを妨害する敵とみなしていた「コロン」がしだいしだいに自分たち近づいてきて、自分たちのなかに入り込んでしまうこと、フランスの民主主義の敗北の過程などといった、ひとつの苦い「物語」として読めるのではないかと示唆した。
 茨木氏は最後に、アルジェリア人にとってのサルトルを考えるにあたって、アンガージュマンの問題が戦後の文学に長い間占めてきたがゆえに、アルジェリアの知識人たちがサルトルとどのような距離を取るべきかが課題だったという、作家ムールード・マムリの文章を紹介した。また茨木氏は、サルトルから強い影響を受けたフランツ・ファノンや、サルトルの近くにいたモーリス・マスチノなどの言説も取り上げられ、その後のアルジェリアについても言及をおこなった。そのなかで茨木氏は、アルジェリア戦争には関係者も多く、社会学者ピエール・ブルデューや人類学者ジェルメーヌ・ティヨンなどの優れた論考に比べると、サルトルの思想的独自性は疑わしいが、むしろこのことは、サルトルが運動の中心にあったこと、サルトルが運動の場を作り出したことの大きさを意味するものである。それがサルトルの功績であり、サルトルのアルジェリア論が現在も読まれ続けている要因となっており、サルトルの一連の論考はその運動の一環として読まれるべきであると強調し、本発表を締めくくった。
 本発表は、茨木氏が豊富なアルジェリアの歴史や社会についての知見を基にして、サルトルのアルジェリアについての諸論考を精緻に分析し、サルトルとアルジェリア側の双方の非対称的な見方を露わにするのみならず、サルトルのアンガージュマンの意義そのものを問い直した非常に意義深いものであったと言えよう。 (竹本研史)


水野浩二(札幌国際大学) 「倫理と歴史――1960年代のサルトルの倫理学――」
 2004年に『サルトルの倫理思想−本来的人間から全体的人間へ』(法政大学出版局)を公刊されたあと、水野氏は「全体的人間homme total」に準拠する1960年代の倫理思想を主題に研究を深められ、現在、その成果を著書にまとめておられるところである。今回はその成果の一部として、主に1965年のコーネル大学講演草稿《倫理と歴史》に基づく考察を披露していただいた。《倫理と歴史》には「倫理的案出invention éthique」なる用語が頻出する。さて、「倫理的案出」とは何か。この概念の内実を詳らかにするとともに、それを基軸に展開されるサルトル倫理思想の特徴を明らかにすることが本発表の主題となった。
 講演草稿において「倫理的案出」に言及するとき、サルトルはいくつかの具体例を挙げている。発表では《倫理と歴史》から特に三つの事例が選ばれ、氏による注釈が加えられた。1)病に冒され、余命一年を宣告された妻にその事実を告げぬことを決意する夫の例。もはや真実を受け止められる精神状態にない妻を思いやる夫は、「嘘をついてはならない」という伝統的規範に抗して、新たな規範「人間らしく生きるべきである」を案出している。 2)民主党の大統領候補指名選挙におけるケネディの演説。カトリックである彼は、プロテスタント優位の歴史的伝統のなかで、有権者にカトリックの候補者に対する寛容を要求した。つまり、合衆国の「歴史的伝統」という規範に抗して「寛容」という徳の遂行(=投票)を要求したところに彼の「倫理的案出」があった。3)レジスタンス運動の闘士フチークとブロソレット、アルジェリア独立戦争の闘士アレッグの例。彼らは逮捕されたあと、拷問を受けながらもついに口を割ることがなかった。彼らは「身体的苦痛は避けるべきものである」という普遍的規範に抗し、苦痛に耐えることによって、またさらなる苦痛を回避すること(=自殺すること)によって「口を割らない」という使命に従った。「苦痛」を単に状況に付随する出来事と見なすことによって、また自らが置かれた環境から平時ならば忌避される自死の手段を見いだすことによって、彼らは「倫理的案出」を行った。
 本発表ではさらにこれらの事例に加えて、1964年のローマ講演《倫理の根源》で引用されている女子高校生へのアンケート(95%の生徒が嘘は悪であると考えていながら、実際には90%の生徒が嘘をついた経験があると回答した)や、「リエージュの嬰児殺し事件」(サリドマイドの影響で奇形児を産んだ母親が「生の絶対的価値」に抗し、「人間的に生きる機会を予め奪われている子供の生を引き延ばすことはできない」という規範を案出し、わが子の命を奪った)、また1965年の《命令と価値》で引用されている軍隊の曹長による兵士への命令(曹長が兵士に「箒がない」と叫ぶとき、それは「箒を見つけよ、ゆえに見つけることができる。つまり、何かを使ってこの場で箒を作るべし、ゆえに作ることができる」という、兵士の「案出の自由」への呼びかけである)といった事例も「倫理的案出」の具体例として付け加えられた。
 「人間関係は倫理的規定(déterminations éthiques)によって規制されている」とはサルトルが《倫理と歴史》で明確に述べているところである。水野氏の解釈によれば、普遍性を前提に措定された倫理的規定ないし定言命法はときに特殊な現実から遊離した規範となることがあり、それに従うことが不可能になる場合に「倫理的案出」が現れる。では、規範の遵守が不可能になるとはどういう事態か。それは、人間が人間らしく生きる機会、人間が人間として生きる機会、すなわち「全体的人間」であることを脅かされるような事態である。それゆえ、現実に基づかない観念的な倫理規範の乗り越えを目指したサルトル60年代の具体的倫理(サルトル自身の表現で「弁証法的倫理」とも言われる)において、「倫理的案出」はとりわけ重要な概念になっている。これが本発表の結論である。
発表後の質疑応答では、特に「リエージュの嬰児殺し」を巡って、それが許容される理路に違和感を覚えるとする意見が複数の参加者からあげられた。また、こうした「個人的」な決定を、そもそも倫理規範として認めることができるのかといった問いもこれに付随して発せられた。水野氏からは、「嬰児殺し」についてはそれが犯罪的な行為であることをサルトルも重々承知している、確かに反論を喚起する事例ではあるが、彼がこれを示した意図は「倫理的案出」の主体的決断をことさら強調することにあったのだろうという回答がなされた。さらにこれに対し、マルクスの倫理思想の影響下にあるこの時期のサルトルには、他者を包摂するような倫理を重視する側面もあったはずだという意見が提起された。水野氏は、そうした側面が確かにあることを認められたうえで、本発表の主題からはやや離れるために今回はあえて言及を避けた旨を告げられた。かくして活発な質疑応答が交わされた。60年代の倫理思想の全体像に触れる氏の新たな著書の刊行が大いに待たれるところである。(翠川博之)

サルトル関連文献
・水野浩二『倫理と歴史:一九六〇年代のサルトルの倫理学』月曜社、2019年10月(近刊)
・石崎晴己著『ある少年H――わが「失われた時を求めて」』吉田書店、2019年6月
・永野潤『イラストで読むキーワード哲学入門』白澤社発行、現代書館発売、2019年4月
既刊の2冊について、学会のブログに生方淳子さんによる「新刊のご紹介」が掲載されております。

理事会からのお知らせ
・次回のサルトル学会例会は、12月7日(土)に南山大学(Q棟4F 416教室)にて開催予定です。
 ※名古屋での開催となりますので、ご注意下さい。
・日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
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