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日本サルトル学会会報第56号 [会報]

研究例会のご報告
第41回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では、加藤誠之氏による研究発表と、石崎晴己編訳『敗走と捕虜のサルトル』出版を記念したシンポジウムが行われました。

第41回研究例会
日時:2018年7月7日(土) 13 :30~
場所:立教大学 5号館5306教室

研究発表 「思春期危機と自我体験――『存在と無』の思索を手がかりとして」
13:30 ~ 14:45
 発表者:加藤誠之(高知大学)
 司会:水野浩二(札幌国際大学)

教育学の立場から不登校の研究をしている加藤氏は、不登校についての実証的研究にハイデガーやサルトルを援用して不登校問題の本質を剔抉しようとする。例えば、不登校の子どもたちは、ハイデガーのいう不安に近いものを抱えており、彼らは世界との日常的な慣れ親しみを失って不気味さ・居心地の悪さを覚えている、と述べる。とりわけサルトルは、加藤氏の議論の展開にとって重要であるように思える。というのも、加藤氏にとって、不登校の子どもたちは、「遊び」という形で「自由」を行使することで不安・居心地の悪さから解放される、というのが本発表の結論であるから。
加藤氏の考察は五段階からなっているように思われる。(1)まず、子どもたちは、慣れ親しんだ家族や地域社会から学校にやってくると、居心地の悪さを感じる。とりわけ思春期になると、第二の自我の目覚めにより、ある程度慣れ親しんでいた学校がより一層居心地の悪いものに思えてくる。(2)しかし、子どもたちは、この世界は「みんな」によって生きられている共同世界であり、「みんな」の可能性を実現するためにある無限の道具複合であることに気づく。こうして世界が再び慣れ親しみのある自分の世界になる。(3)それにもかかわらず、子どもたちは、他者によって利用される道具になることを受け入れるとき、「有用性」によって評価されるという現実も受け入れなければならなくなる。そのとき、他者からの評価のまなざしに苦しむ(罪責感)。(4)そこで子どもたちは、罪責感からのがれるために、現代の日本社会において有用性を体現している子どもである「よい子」を演じる。しかし「よい子」は、サルトルのいう「生真面目な精神」に陥っており、したがって自由を行使していない。(5)結局、子どもたちはこの状況を乗り越えようとして、「非行」に走る。なぜなら非行は自由を追求する「遊び」だからである。社会から逸脱したものである「遊び」を行うことによって、自由を否定する「よい子」から自分を解放しようとする。
論旨は極めて明快であり、また、サルトル哲学が実証的研究にも応用できることを教えてくれる貴重な報告であった。以下、当日会場で出されたいくつかの質問を紹介したい。
まず、思春期の危機の乗り越えに関して、加藤氏の発表を聞いて、不登校の子どもたちにはある種の「逆転」があることが分かった、という指摘に対して、危機の乗り越えには個人差がある、との回答があった。また、不登校の子どももオンラインゲームにはまっているのではないのか、との質問に、不登校の子どものすべてがはまっているわけではない、との回答があった。次に、ジャン・ジュネとの関係で非行についての質問があったが、非行に走る子どもたちには、社会に対する怒り、反発があり、また、彼らにとって非行自体が面白くなる、という側面があるとの回答があった。さらには、非行に走っている子どもたちの内部でいじめはないのかとの質問に、むしろ彼らには仲間に悪いことをするための作法を教える、という側面があることが紹介された。最後に、ひきこもりや不登校の歴史的経緯についての質問があり、不登校は皆が学校に行っていた時代以降の問題である、との回答があった。(報告:水野浩二)

『敗走と捕虜のサルトル』出版記念シンポジウム――『バリオナ』をめぐって
15:00 ~ 17:30
  石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
  翠川博之(東北大学)   『バリオナ』と『蠅』のあいだ
 パネルディスカッション  『バリオナ』をめぐって
  石崎晴己、翠川博之、澤田直(立教大学)
 司会:生方淳子(国士舘大学)

1940年冬、ドイツ軍の捕虜収容所Stalag ⅫDに収容されていたサルトルは、中世以来の伝統の聖史劇の形を借りてレジスタンスを呼びかける演劇の脚本を書き、演出し、捕虜仲間と共に自らも舞台に立った。それが彼の最初の戯曲『バリオナ』である。しかし、この作品はその後、作家本人の意思により公刊されず、上演されることもほとんどなかった。1970年にはミシェル・コンタとミシェル・リバルカによるサルトル著作目録 Les Ecrits de Sartre の付録の一部として掲載を受入れた彼だが、以降もこの作品については否定的な態度を取り続けていた。石崎晴己氏の最近の著書では、この埋もれた作品が翻訳紹介され、詳細な論考が加えられている。氏の言葉を借りれば、この戯曲は作者本人から「不当な仕打ち」を受けたことになるが、氏による翻訳出版はその名誉回復を図ったものと言える。同書の後半には、パリ帰還後のテクストで『自由への道』に関連する「敗走・捕虜日記」と「マチューの日記」の翻訳・論考も収録されているが、今回のシンポジウムでは前半のみを取り上げ、石崎氏のほか、サルトル演劇の研究を専門とする翠川博之氏とサルトル研究全般で活躍する澤田直氏を加えて、多角的にこの作品に迫った。各人の発表およびコメントの論旨は以下のとおりである。

石崎晴己(青山学院大学) 『バリオナ』の多角的分析
 著書の60頁に渡る多角的で詳細かつ明晰な論考をわずか1時間の発表で要約紹介するのは酷であったと思われるが、二人の主要人物、バリオナとバルタザールの言説の分析を中心に、相矛盾するメッセージの交錯を浮き彫りにしつつ、作品にこめられた意図が探り出された。
 それによれば、ローマの支配下にあるユダヤ人の村の村長バリオナは、圧政に倦み、もはや子孫を作らないことで村が自然消滅するのを待つという消極的集団自殺の道を村びとに強要しようとする。「落下」というキーワードに要約されるその言説を氏はハイデガーの「転落・頽落」Verfallen や「覚悟性」Entschlossenheit といった概念の影響を考慮に入れ、かつニーチェ的「気分」をそこに見出し、『嘔吐』的な自殺の誘惑に対する「ハイデガー・ニーチェ的変奏」と形容する。以降、物語の進行に伴って変化するバリオナの言説を多様な参照体系に基づき、悪を企てるリュシフェール的な神への反逆、全能の神の掟に背く人間の自由の断言、弱者に諦念を説くキリスト教へのニーチェ的批判として読み解いていく。これに対し、神の子の誕生の徴を見たとして東方からやって来た博士たちのひとり、バルタザールが発する希望の言説には、同時期に執筆が進んでいた『存在と無』で提示される「対自存在」の概念、不断に自己を逃れ、他所へと向かう人間のあり方が反映されていることが示される。そして、意外にもそれがキリスト教の教説と矛盾しないとして、「キリストと人間の存在論的な同質性の弁神論」という考え方が提示される。続いて、バリオナの妻サラに体現される母性の論理、イエスの父ヨセフに託された父親像についても時間の制約の中、ごくかいつまんでとは言え解説がなされ、サルトル劇において家族という次元のテーマが空前絶後の位置を占めることが指摘された。著書の論考で縦横かつ整然と語られた内容のごく一部ではあったが、その豊穣さを垣間見ることができ、改めて論考の熟読を私たちに促す発表であった。

翠川博之(東北大学) 『バリオナ』と『蝿』のあいだ
 翠川氏は、数年前に科研費による研究の一環として『バリオナ』を全訳していたが、出版という形での公表はしていなかった。今回はその成果を活かし、また演劇というジャンルに固有の意味作用に関する知見に基づいて手際よい精緻な分析を披露してくれた。特に、演劇記号論の手法を用いて「コード」という概念を軸に作品を読み解き、観客の心理にまで立ち入って受け止め方を推察するという姿勢から、『バリオナ』をその半年後に執筆開始された『蝿』と比較検討し、共通性と対称性をあぶり出した。
 それによれば、両戯曲にはナチス・ドイツの支配に対する抵抗の呼びかけという共通の政治的メッセージと人間の自由をめぐる思想の提示という共通のテーマがある。しかし、各作品を構成するモチーフを整理していくならば、両者間には著しい対称性が現われる。家族関係、眼差し、自由、神の存在、死生観、主人公の社会的地位という六項目の主要モチーフをめぐって、両戯曲は鮮やかな対称性を示すのである。それは何に由来するか。その謎を氏は記号論的に解いていく。演劇舞台は、現実の空間と時間の流れの中に記号の多義性を提示し観客がそれを汲みとることで成立するが、その読み取りの規則として、意味生成と解釈を可能にする社会習慣・規則・規範の体系、「コード」がある。コードには共同体の心性としての家族観・世界観・死生観・宗教観も含まれ、作家はこのコードを守ったり故意に破ったりすることで様々な作品を生み出す。『バリオナ』はその点でコードを尊重し遵守した作品であり、それゆえ観客に一体感と感動をもたらした。これに対して、『蝿』ではコードが破られている。オレステスの自由を象徴する重大な行為としてサルトルはギリシャ悲劇からある「記号」を借用するのだが、その記号は現代のコードに背くものだった。それが、母殺しという記号である。氏は間テクスト性の観点からギリシャ悲劇における三つのオレステス物語と『蝿』を綿密に比較対照し、五点にわたる改変を取り出して『蝿』の独自性を明らかにするが、その中で特に母殺しの正当性をめぐる改変に注目する。アイスキュロスにおいて「神の正義」として正当化される母殺しは、エウリピデスにおいては共同体の法に照らして裁かれる。ところが、サルトルはこうしたコードの時代性を考慮せず、アイスキュロス的な神の正義と家父長制の男尊女卑的規範をそのまま残存させてしまった。サルトル演劇は同時代性への強い依拠を特徴とするが、『蝿』では同時代における意図しないコード破りが生じている。『バリオナ』との対称性はここに起因するのである。
 この発表は、『蝿』の斬新な魅力を浮き彫りにした上で、にもかかわらずなぜ占領下のパリにおいて不首尾に終わったのか、という疑問に明快な答えを与え、かつ演劇記号論という方法のサルトル演劇へのさらなる適用可能性を示唆し、新たな展望を開くものであった。他方、コードを遵守したことで成功を博した『バリオナ』に芸術作品として単なる迎合ではないどのような価値の創造を認めるか、という点は改めて問われねばなるまい。

 パネルディスカッションでは、『バリオナ』の読解にさらに新たな視点が加えられた。澤田直(立教大学)は、この戯曲が「映像提示者」と名づけられた語り手の前口上から始まっていること、劇の途中で何度か顔を出すこの語り手がこの演劇の演劇性を暴露していることに着目した。そしてその人物が目の見えない者と設定されていることから、見えるものと見えないものとの対立の構図があることを指摘、降誕という神話を神の可視化として捉えるこの戯曲に彼の想像力論、イマージュ論とのつながりを見出した。その上で、なぜサルトルがあえてこの芝居が芝居であることを暴露するような手法を用いたのかとの疑問を投げかけたが、これに対して石崎氏は寺山修司などを、翠川氏はブレヒトなどを引き合いに現代演劇の典型的な手法としての異化効果をサルトルが意識していたこともありうるとの見解を述べた。

 会場からは、『バリオナ』に関する研究書や論文の所在情報を求める質問や『バリオナ』において語られる自由と『存在と無』で緻密に概念化される自由との間に単純な対応関係を見ることはできないのではないか、といった意見が寄せられ、発表者もこれらに丁寧に答えていた。ただ、時間切れのため、これ以上論旨や方法論に深く立ち入った質疑応答ができなかったのが心残りであった。(生方淳子)

総会報告
日時:2018年7月7日17時45分〜18時15分
会場:立教大学5306教室

議題
1. 2017年度収支決算
2. 2018年度会計予算案
3. 2018〜19年度理事・監査選任
4. 2018年度 事業案

1. 翠川博之理事より、2017年度収支決算の報告がなされ、水野浩二監事から会計監査報告がなされ、満場異議なく承認された。

2. 翠川博之理事より、2018年度会計予算案の提案があり、満場異議なく承認された。

3. 澤田直代表理事より、2018〜19年度、理事・監査選任として、現行理事は残留とし、新たに水野浩二氏、生方淳子氏を理事とするとの提案があり、満場異議なく承認された。同じく、監査は、竹本研史氏、根木昭英氏とする提案があり、満場異議なく承認された。

4. 澤田直代表理事より、2018年度事業案として、冬の例会は2018年12月8日に立教大学で開催し、 ジル・フィリップ氏の講演を行うことが発表された。来年度は、澤田代表理事がサバティカルで不在だが、事務局はそのままとし、中田麻里氏にこれまで通り、会報の発送などの業務を委託することが説明された。本件について出席の会員からの異議はなく、総会は閉会となった。

役員 会長:鈴木道彦(再任) 代表理事:澤田直(再任) 理事(再任):岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、翠川博之、森功次、理事(新任)生方淳子、水野浩二、監査:竹本研史(再任)、根木昭英(新任)


2018年度国際サルトル学会年次大会(Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2018 )参加報告
関大聡

2018年の国際サルトル学会(Groupe d’Etudes Sartriennes)年次大会は6月22日と23日の2日間、高等師範学校(パリ)にて開催された。今回は特に統一テーマは置かず、多様な主題からなる全14の発表が行われた。例年に比べると文学に関する発表が多かったように思われる。
今回の報告文では発表の要約に加え参考文献を付すことにした。というのも、本会報向けにも既に何度か書いていて実感することだが、学会の報告文を書くのは中々難しい。外国語での発表を要約可能なレベルで聴取するのが難しいのは勿論だが、学会発表の報告という作業それ自体に伴う困難がある。すべての発表に等しく興味を配分するだけでなく、なるべく中立的・客観的な視点を採用するよう努めなければ、大切な発表の主旨を曲げて伝えることになりかねない。ましてGESの発表は近年専門化が進んでおり、特に哲学系の発表に顕著だが、概念の彫琢は安易な要約を受け付けるものではない。そこで、要約は最小限に留め、その議論に触発された方は、それを(外国語が中心だが)参考論文によって深めていただければと考えた。現在サルトル研究がどのようなアプローチを行っているか、大掴みにでも接していただければ幸いである。

Jean-François Louette, « Erostrate et le langage des Justes »
今年度ソルボンヌ大学でルエット氏の『壁』に関する講義を受講したが、60分という枠のなかで各短編を鮮やかに論じていた。分析の一部は既に刊行された論文に基づいているから、以下の参考文も参照されたい。私見によると近年の氏の関心の主軸は、半ば偏執的なまでのテクスト・間テクスト分析を通してサルトルを文学史のなかに位置づけることにある。今回の「エロストラート」論もこの方向に沿うもので、前半では同短篇に現れる語(« tirer », « cartons », « paquet »)の性的・エクリチュール的な隠語としての側面を分析。後半はこうした殆ど暴力的なまでの言語遊戯が標的とする読者として、掲載誌であるNRFの主要な読者層(合理主義者、シュルレアリスト、ナショナリスト、さらにジッド)が指摘された。発表でも言及され、これまた隠語としても使われるsucerという語を用いるなら、まさに短篇の味わいを「吸い尽くす」ような分析であった。
Jean-François Louetteの論文:
「部屋」:« “La Chambre” de Sartre ou la Folie de Voltaire », dans Traces de Sartre (2009).
「水いらず」:« À propos de “l’Intimite” », dans Europe (no 1014, octobre 2013).
「ある指導者の幼年時代」:« La dialectique dans “L’Enfance d’un chef” », dans Silences de Sartre (1995) ; « “L’Enfance d’un chef” : la fleur et le coin d’acier », dans Traces de Sartre (2009).
短編集全体:« Sartre et la nouvelle », dans Traces de Sartre (2009).
知るかぎり「壁」論は未刊行。今回の「エロストラート」論はLittérature誌に刊行予定。

Samuel Webb, « Sommes-nous délivrés de Proust ? Sartre et l’amour éprouvé ».
ウェッブ氏は英米分析哲学における自己意識論の文脈からサルトルを論ずる博士論文を用意している。発表では情動とりわけ「愛」における自発性と反省性の問題が扱われた。サルトルは『存在と無』など随所で「意欲された感情sentiment voulu」と「体験された感情sentiment éprouvé」に区別はないとするジッドに同意を与えているが、それでは「真の愛」と「演じられた愛」の区別ができないのではないか。この問いを出発点として氏はサルトルによる愛の現象学的分析を浚ってゆく。議論の導きにはプルーストへのサルトルの言及も用いられているが、文学作品の扱いはもう少し慎重であってよいように思う。しかし(分析)哲学と文学作品の出会いとしては興味深い。論点としては(発表者も言及していたように)V. ド・コルビテールの言う「シニスムのアポリア」に通じるものも多く、そこからさらに議論の深まりが期待される。
Vincent de Coorebyter, « La jeune femme et le séducteur : genèse, structure et enjeux », Études sartriennes VI, 1995, p. 27-38.
Vincent de Coorebyter, « Le corps et l’aporie du cynisme dans l’Esquisse d’une théorie des émotions », Bulletin d’analyse phénoménologique VIII 1, 2012 (Actes 5), p. 273-285.
Webb氏の論文についてはAcademia.eduを参照されたい。

Jacques Lecarme, « Nizan revisité par Sartre, ou les bénéfices de la méconnaissance »
サルトルに関する目立った著作こそないが*、ルカルム氏の諸研究は小説家サルトルの理解に有益なものである。しばしば揶揄的にsartrologueとも呼ばれるサルトル主義者とは一線を画し、むしろ文学の愛好者として、氏はサルトルの作家としての技量に疑問を投げかけることも厭わない(一つ目の参考文献参照)。今回の発表はポール・ニザンの『アデン・アラビア』に付されたサルトルの序文(1961年)をめぐるものだが、随所でサルトルよりもニザンの作家としての力量を評価していた(« Le talent du romancier Nizan est incontestable ! »)。発表の趣旨は序文が発表・受容された1960年代前半の雰囲気を再構成するもの。レジス・ドブレやアラン・バディウのような同時代人の政治的態度を引き合いに出しつつ、「非政治的で文学的な」自らの高等師範学校時代をユーモアたっぷりに回想していた。なお発表の一部(小説『トロイの木馬』をめぐる議論)に関してはニザン研究誌Aden掲載の論文を参照されたい。(*あとで教えてくれたことだが、文章を書くのはあくまで仕事で、口頭での発表や対話こそが愉しみだと言う。その愉しみに交われたことは今回の学会で得た貴重な収穫だった。)
Jacques Lecarme, « Le succès et l’insuccès : Sartre et Paulhan », dans Ingrid Galster (dir.), La Naissance du « phénomène Sartre » : Raisons d’un succès (1938-1945), Paris, Seuil, 2001, p. 238-261.
Jacques Lecarme, « Le crime de M. Lange. Sartre dans le texte de Nizan », Aden : Paul Nizan et les années trente, no 1, déc. 2002, p. 89-104.

Antonio Vidal Filho, « La nuit de l’engagement. Textes de Sartre publiés dans Les Lettres Françaises (1943-1944) »
占領下フランスで創刊された雑誌『レットル・フランセーズ』は対独抵抗作家たちが匿名で活動する牙城となり、サルトルもそこに複数の文章を寄せている。ヴィダル・フィルホ氏の発表はこの時期のサルトルのテクストを再読するもの。対独協力作家への攻撃である「ドリュ・ラ・ロシェル、あるいは自己嫌悪」から「文学、この自由」における文学と民主主義の本質的な連帯性の肯定に至るまで、同誌掲載文は『文学とは何か』における新たな戦後的価値の創出を準備するものだと氏は結論する(ジゼル・サピロの言う「新しい精神性」)。ただ同時に付け加えておかねばならないのは、まさにこの文筆上のレジスタンス活動という点において、少なからぬ批評家や歴史家がサルトル批判の論陣を張っていることである。論争の詳細はルカルム氏の論文などに詳しいが、ある意味では非常にフランス的な文脈のなかで展開されているそうした議論には言及することなく、ブラジル出身の氏はテクストそれ自体を読むことによってその意義を改めて強調した。
Gisèle Sapiro, La guerre des écrivains (1940-1953), Paris, Fayard, 1999.
Jacques Lecarme, « Un Sartre clandestin », Médium 2013/4 (no 37-38), p. 270-285.

Jo Bogaerts, « Marthe Robert, critique des biographies existentielles de Sartre »
ボガエルツ氏はフランス実存主義におけるカフカ受容に関する博士論文を2015年に上梓している。フランスにおける初期カフカ受容の特徴はカフカを形而上学的作家と規定したことにあるが、こうした所謂実存主義的解釈に反してカフカの生い立ちなど歴史性を強調したのがマルト・ロベールである。それに対して氏が一貫して強調してきたのは、サルトルのカフカへの関心(及び実存的精神分析の方法)は決して歴史性を軽視するものではなく、むしろロベールと近いということである(この主張は2013年の新版『シチュアシオンIII』 に初収録された「ユダヤ人作家カフカ」によって実証されたと言える)。今回の発表ではロベールのフローベール論(En haine du roman : étude sur Flaubert, 1982)と『家の馬鹿息子』の比較が焦点。ここでもやはりロベールとサルトルの関心は(当時の構造主義的読解と対照的に)生と作品の関係、作家の誕生という側面に向かう点で共通する。だが幼少期のフィクショナルな再構成という点に関して、その虚構性こそ小説の起源と考えるロベール(『起源の小説と小説の起源』も参照)と、しばしばそれを事実として扱おうとするサルトルの間では相違がある。発表はこの点を詳細に検討したもので、その視座が有益たりうるのは『家の馬鹿息子』読解には留まらないだろう。
Jo Bogaerts, « Sartre, Kafka and the Universality of the Literary Work », Sartre Studies International, vol. 20, issue 1, 2014, p. 69-85.
Jo Bogaerts, « Jean-Paul Sartre. Situations III », The Germanic Review: Litterature, Culture, Theory, 90:2, 2015, 145-149.

Jérôme Englebert, « Psychopathologie de l’homme en désituation. »
精神病理・臨床心理の研究者であり臨床心理士でもあるアングルベール氏は、著書Psychopathologie de l’homme en situationで、サルトルに依拠しつつ「状況のなかの人間」の精神病理学を展開している(第五章は『聖ジュネ』を犯罪心理学的観点から考察したもの)。同書とは逆に、本発表では「脱状況désituationのなかの人間」が考察される。氏の指摘によれば、この概念は『方法の問題』及び『家の馬鹿息子』に見出される。前者は社会学者の調査対象に対する距離を、後者はフローベールの非現実的なものを志向する態度を指すものだが、この科学的態度と審美的態度に共通するのは主体と状況の相互性の不在である。特筆すべきは、氏がそこから精神病理学の知見や自ら接する統合失調症患者の臨床例を用い、そこに共通する「脱状況」的性格が現れていることを指摘する点である。サルトル自らはこの概念を統合失調症の説明に用いたわけでは全くないが、議論の構造を取り出すことにより他領域への応用可能性を模索する本発表は、サルトルの「利用法」を考えるうえで一つの手本となるものであった。
Jérôme Englebert, « L’acte incendiaire, son sujet et sa signification : propositions à partir du Saint Genet de Jean-Paul Sartre », dans Psychopathologie de l’homme en situation. Le corps du détenu dans l’univers carcéral, Éditions Hermann, 2013, p. 129-145.

Laurent Husson, « Henri Lefebvre précurseur de Sartre ? Préexistentialisme lefebvrien et existentialisme sartrien »
ユソン氏は別の論文でもサルトルとルフェーヴルの思想を比較検討しているが、今回の発表はルフェーヴルをプレ実存主義者として論じるものであった。ルフェーヴルは1946年の著書L’existentialismeのなかで、 1920-30年代にPhilosophies誌やEsprit誌に集った自分とその周辺の人々の思想には、サルトルらの実存主義のテーマを殆ど先取りするものが含まれていたと主張する。氏は、このルフェーヴルによるサルトルに対する先行者としての権利要求から出発し、ルフェーヴルの初期論文« Position d’attaque et défense de nouveau mysticisme »の検討などを通して、超越や自我批判など両思想家に共通するテーマを明らかにした。実際、『奇妙な戦争手帳』でサルトルはルフェーヴルらの雑誌における「絶対の探求」に同時代的な影響を受けたことを告白しており、フランスにおけるプレ実存主義の系譜はサルトルの知的形成を理解するうえでも重要なものと思われる。なお質疑ではルカルム氏によって、L’existentialisme以降の著書でのルフェーヴルによるニザン=裏切者というレッテル貼りの問題が喚起された。これが別の重要な問題であることは言うまでもなく、鈴木道彦氏の文章はこの点に関して日本語で読める優れた解説になっていることを言い添えておく。
Laurent Husson, « Sartre et Lefebvre : aliénation et quotidienneté » dans Sartre et le marxisme, sous la direction d’Emmanuel Barot, Paris : La Dispute, 2011, p. 217-239.
鈴木道彦「二人のルフェーヴル」、『異郷の季節 新装版』、みすず書房、2007年。

Fabio Recchia, « Pour Sartre. Réponse à Pierre Bourdieu »
レッキア氏の発表はブルデューによるサルトル批判への応答の試みである。ブルデューは『存在と無』における「根源的投企」の観念に「被造物ではない創造者créateur incréé」の神話、つまり、生育環境や社会の影響を受けずに芸術創造を行う孤独な天才という神話の典型を見る。氏はこれに対して、『存在と無』の主要概念が構想される『奇妙な戦争手帳』を参照しながら、サルトルの議論において人間主体は自らの置かれた社会的環境のなかに根本的に根差していることを明らかにしようとした。この応答は、おそらくそれほど異論の余地がない(ブルデューによる批判はサルトルの単純化に基づいている。一つ目の参考文献を参照)だけに、そこからどう議論を拡げるかが肝要になると思われる。ブルデューとサルトルの共通点・対立点は多岐にわたるだけに、質疑も熱がこもったものとなった。
Fabrice Thumerel, « De Sartre à Bourdieu : la fin de l’intellectuel classique ? », Études sartriennes VIII, 2001, p. 131-163.
Gisèle Sapiro, « Pourquoi le monde va-t-il de soi ? De la phénoménologie à la théorie de l’habitus », Études sartriennes VIII, 2001, p. 165-186.

Alexandre Féron, « Un appel au meurtre ? Une relecture de la préface des Damnés de la terre »
フェロン氏の発表は、「『地に呪われた者』序文」におけるスキャンダラスな表現、「反抗の第一段階においては、殺さねばならないil faut tuer」をめぐるものである。一連の文章はテロの暴力を正当化するだけでなく奨励・教唆するものとまで受け止められたが、サルトルの意図はどこにあったのか。氏はこれを『弁証法的理性批判』の理論的構成から理解しようとする。サルトルとテロリズム・暴力の問題に関して重要なのは、サルトルが暴力を正当化したのではなく、いまそこにある暴力(社会構造的な暴力も含む)の存在を、目を背けようのない事実として認め、それを理解する仕方を検討したということであるだろう。この正当化justificationと理解可能性intelligibilitéの違いはしばしば人の目を逃れるもので、質疑でもサルトル及び発表者の議論を暴力の正当化を図るものと早合点した批判が見られた。だが発表者が示唆したように、この序文の意図が誤解されスキャンダルとなることをサルトルが予め見越していたのだとすれば、この発表も同種のスキャンダルの必然性nécessité de scandalisationを含んでいたのかもしれない。
Valentin Schaepelynck, « Sartre avec Fanon : notes et réflexions sur une alliance », Sartre et le marxisme, sous la direction d’Emmanuel Barot, La Dispute, 2011, p. 201-215.
Jean-François Gardeaux, « Sartre et la violence », Jean-Paul Sartre, violence et éthique, sous la direction de Gérard Wormser, Sens Public, 2005.

Alix Bouffard, « Processus et processualité dans la Critique de la raison dialectique »
ブーファール氏の発表はサルトルの著作における過程processus、過程性processualitéを対象としたもの。5月28日、筆者がリエージュで開かれた研究集会「全体性、全体化、非連続性」に参加したときにも、同様のテーマからサルトルとルカーチの比較検討を行っていた。歴史過程processus historiqueの議論は、教条的マルクス主義の文脈では十分に検討されないまま公式化される一方で、実存主義的マルクス主義の文脈では回避されてきたものと理解されがちである。氏の発表は、こうした通説に反して、サルトルの著作における過程/過程性の思考を綿密に追うものである。その明晰な整理のなかで、「実践的惰性態」や「集列性」のような概念が再び位置づけられ、サルトルにおいて過程/過程性は、1) 多次元的なもので、2) 脱線を含むが目的論的構造を持ち、3) 非直線的ダイナミズムを特徴とする、という見取り図が与えられた。
Michael Heinrich, Alix Bouffard, Alexandre Féron, Guillaume Fondu, Ce qu’est Le Capital de Marx, Les Editions sociales, 2017.

Giorgia Vasari, « “Tout est en acte”. Réflexions sur le rapport entre matière, forme et contingence dans l’ontologie de Sartre »
ヴァザーリ氏の発表は、サルトルの存在論における偶然性の直観の問題を扱うものである。『存在と無』において存在の偶然性は彼の存在論の基礎に据えられているが、とりわけ『嘔吐』と比較するとき、偶然性は、その対として把握される「美の必然性」との対置において異なるコントラストを与えられることになる。この、『嘔吐』と『存在と無』の相違という点に関しては、ユソン氏やド・コルビテール氏などの研究において厳密に追究されてきたものでもある。氏の発表は、これらの先行研究を踏まえながら、議論をさらに高い水準に深めてゆこうという意志が感じられるものであった。
Laurent Husson, « L’épreuve d’être : exigence et expérience », Études sartriennes VI, 1995, p. 39-67.
Vincent de Coorebyter, Sartre avant la phénoménologie : autour de « la Nausée » et de la « Légende de la vérité », Bruxelles : Ousia, 2005.
Chiara Collamati, « Hysteresis et anticipation : politiques du temps chez Sartre »
コルマッティ氏の発表はサルトルの歴史的時間性の議論におけるヒステリシス(履歴現象)の意義を扱ったものである。ギリシア語で「遅れ」を意味するヒステリシスは、物理化学においては、効果が原因に対して遅れて(しばしば原因が消滅したあとに)現れる現象を指し、心理学や哲学の領域においても、過去の働きが慣性的・惰性的に物質や心に保存された状態を指す。たとえばブルデューはこの概念をハビトゥス概念に関して用いており、外部環境に対する習慣の不適応状態を論じている(これについてはファビオ氏の発表に付した二つ目の参考文献及びブルーノ・カルサンティの著作を参照)。『存在と無』のサルトルは、ジャック・シュヴァリエの『習慣』に言及しながらこの概念を批判的・否定的に扱っており、過去の現在への惰性的持続として「ねばねばしたもの」の本性に結びつけている。だが、『弁証法的理性批判』の2巻及び『家の馬鹿息子』においては、この概念の生産的側面に着目している。このことはルエット氏の『家の馬鹿息子』論文においても扱われているが、キアラ氏は、このヒステリシスとアンティシパシオン(未来予測)とが構成する時間の弁証法的性格を明らかにしようとしており、多くの著作への言及とともに蒙を啓かれるものであった。
Jean-François Louette, « Revanche de la bêtise dans L’idiot de la famille », Traces de Sartre, ELLUG, 2009, p. 301-324.
Bruno Karsenti, D’une philosophie à l’autre. Les sciences sociales et la politique des modernes, Gallimard, 2013.

Gérard Wormser, « Présence absente des thèses sartriennes sur la Morale de Sartre »
二日間の学会を締めくくるヴォルムセール氏の発表は、アクチュアルな問題を考えるためにサルトルがどのような手掛かりを与えうるかを考察するものであった。とはいえ、サルトルの名前は殆ど出てこない。ブルーノ・ラトゥール(『ガイアと向き合う』)、チャールズ・テイラー(『世俗の時代』)、マルセル・ゴーシェ、ハルトムート・ローザなど現代の理論家を引き合いに出しながら、世俗化と個人主義が展開する現代社会、あるいは<人新世>と呼ばれる新たな年代における*、共生と共働の可能性について氏は考察をめぐらせた。そののちに、氏は、そうした取り組みがサルトルが「倫理の根」講演で示した倫理的展望と深く通底していることを示した。サルトルの著作の直接的検討は欠くにもかかわらず、他のどの発表よりも「サルトル的」と評したくなるような発表として、会の結びには相応しいものであった。(*同じく人新世を見据えたサルトル哲学の可能性としては、未刊だが、2016年の北米サルトル学会でDamon Boriaが考察を行っていた。北米圏はこうした研究により積極的であるように思われる。)
Damon Boria, “The Serialized Individual in the Anthropocene, or, Lessons from and for Sartre’s Social Theory in a Time of Ecological Ruin”, communication given at 22st Annual Meeting of the North American Sartre Society, University of North Caroline, 4 November 2016.
Matthew C. Ally, Ecology and Existence: Bringing Sartre to the Water's Edge, Lexington Books, 2017.

サルトル関連文献
・井上直子「« l'étranger » と世界 : ヴァレリー、サルトル、カミュ」Gallia(大阪大学フランス語フランス文学会)57, pp.65-74, 2018年
・澤田直「サルトルとイタリア(2)」『立教大学フランス文学』(47), pp. 63-91, 2018年
・鈴木正見「サルトルのカント的障壁について ――ジェイムスンとジジェク」『大正大學研究紀要』 (103), pp.215-232, 2018年
理事会からのお知らせ
・日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。
・次回の例会は12月8日(土)、立教大学にて開催の予定です。
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