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2017年国際サルトル学会年次大会参加報告 [サルトル関連情報]

2017年国際サルトル学会年次大会 Le colloque annuel du Groupe d'Etudes sartriennes 2017 参加報告


 2017年の国際サルトル学会(Groupe d’Etudes Sartriennes)年次大会は6月23日と24日の2日間にわたって高等師範学校(パリ)にて開催された。統一テーマは「遺稿」および「ラジオアーカイヴ」である。
 全体の構成としては、50年代から60年代にかけて取り組まれたいわゆる「第二の倫理学」の時期の遺稿を対象とした発表が5件と最も多く、関心の高さが伺えた。このほか、ル・アーヴル時代の講演「小説の技法と現代思想の大潮流」(『サルトル研究』誌第16号収録)を主題としたものが1件、イタリア旅行記『アルブマルル女王』と『奇妙な戦争の手帖』(以下『手帖』)を対象としたものが1件あった。また1日目にはサルトルのラジオ出演にかんする特別企画、2日目には『反逆は正しい』の英訳出版を記念したラウンドテーブルが組まれた。そのほかにVariaとして4件の発表があり、統一テーマ以外の題目も柔軟に受け入れられていることが伺われる。発表者の年齢・性別・出身国だけでなく専門分野も含めバラエティに富んでおり、多くの研究者に開かれた学会であるという印象を与えられた。また今回、日本からは北見秀司氏と関大聡氏がそれぞれ研究発表を行った。
 以下、発表順に内容を紹介する。プログラムはGESのウェブサイトから参照できる(http://ges-sartre.fr/colloque-annuel-2017.html 2017/07/26閲覧)。なお、この報告文の執筆に際して関氏から多くの有益な助言を得たことを言い添えておきたい。

6月23日
EVA ABOUAHI : Reliques et reliquats du rousseauisme dans les manuscrits « Liberté- Egalité » et « Joseph Le Bon »
 1970年代に端を発し『パンテオンの誕生』(1998)に集成されるジャン=クロード・ボネの研究以降、ルソーやヴォルテールのような作家=偉人への崇拝が共和国としてのフランスの成立に大きな役割を果たしたことは広く知られており、全体的知識人としてのサルトルはこの伝統の掉尾を飾る存在とも言える。では、ルソーという必ずしもサルトル研究において中心的主題とはならない人物の聖遺物(relique)はサルトルによってどのように批判的に受け継がれているのか。背景にこうした関心を抱かせつつ、Abouahi氏の発表は『弁証法的理性批判』を準備する50年代の3つの草稿(Mai-Juin 1789、Liberté-Egalité(いずれも『サルトル研究』誌第12号収録)、Joseph Le Bon(同誌第11号収録))を中心に、サルトルのルソー批判の骨子を分析するものであった。
 その際、同氏が鍵語として持ち出すreliqueは複数の意味のひろがりから提示された。第一にこの語は、革命以降すでに神聖な存在として捉えられるようになっていたルソーの偉人・聖人的性格を示唆するものであり、サルトルはその思想が抱える矛盾の脱神話化を試みる偶像破壊者として位置付けられる。たとえば、氏の指摘によれば、遺稿Liberté-Egalitéにおいてルソーはブルジョワ・イデオロギーやプロテスタンティズムの系譜に位置づけられ、一般意志をめぐる議論が持つ見せかけの平等性に批判が加えられる。その結果、ルソーの思想に潜む隠れた次元としての全面的疎外と、全体主義との近接性が明らかにされる。
 もう一つのreliqueの含意は、ルソーを文学的アンガジュマンとの対比において評価する際に理解される。氏の分析によれば、ルソーはあらゆる時代のための書物をのこし時代を超越したという意味において、書く現在において自己を聖化することを望んだ。一方、サルトルは「時代のために書く」ことを選択し、このことが一つの対立点を作っている。また自己の聖化と歴史をめぐる論点はサルトルによるカミュ批判にも部分的に流れ込んでいるという。
 ボーヴォワールの証言(『娘時代』)によれば、サルトルは青年時代からルソーについて特別な見方を有していた。その後この啓蒙の哲学者に対する言及は奇妙なまでに跡を消してしまうが、未整理であるがゆえに遺稿のなかではその影響が見えやすい。今回の発表はそこからサルトルのルソーへの関心を政治理論・文学的立場から再構成するもので、フランス思想の伝統に対するサルトルの批判とそれだけでは還元されない残りのもの(reliquat)を感じさせるものであった。

LAURE BARILLAS: L’avenir dans les manuscrits des conférences de Cornell : pour une théorie temporelle de l’éthique ?
 Barillas氏の発表はコーネル講演に見られる未来の概念を主題としたものである。「道徳と歴史」と題され、『現代』誌2005年7月から10月号に掲載されたこのテクストのなかで、とりわけ未来に焦点があてられるのは「倫理と時間性」と名付けられた一節である。この時期の弁証学的倫理の根幹をなすのが、倫理の時間的性格についての考察である。発表者がまとめるように、一方では純粋な未来(avenir pur)が無条件的命法(なさねばならない)として主体に倫理的契機としてあらわれるのに対して、これまでの過去の制度化/習慣化されてきた道徳の時間性として不純な/制限的な未来(avenir impur/limité)が現れる。そのうえで、倫理的行為が純粋未来の次元を要請するさまを明確化した。氏の読解によれば、われわれの倫理的な行いは常にこの二つの未来によって引き裂かれている。一方で、それは何ものにも条件付けられず、自由であらねばならない。しかし他方で、行為は時間のなかで、時間的なものとして、有限化されたものとして実現される。後者において行為は反復的未来(不純な未来)とかかわり、無条件的な未来は反復的道徳と緊張関係を持つこととなる。これが、純粋未来がそれ自体で実現されないという倫理的困難である。
 サルトルの60年代の倫理学については本邦でも水野浩二氏によるものをはじめ複数の研究があるが、倫理学において語られる時間的次元への注目によって、たとえば『存在と無』や『倫理学ノート』からの時間論の発展を検証してゆくこともできるだろう。

LAURENT HUSSON : Être tenu par l’impossible : la relecture sartrienne du « Tu dois, donc tu peux » dans la conférence de Rome (1964)
 ひとつ前の発表からもわかるように、この時期のサルトルの倫理学においてカント的定言命法は批判的な参照項となっている。その「なさねばならない」は純粋な未来として、実現不可能なものでありつつ、同時に目指さねばならないという、統制的理念のような役割を果たす。続くHusson氏の発表は、サルトルがしばしば取り上げるカント的命法「君はなさねばならない、ゆえになしうる(Tu dois, donc tu peux)」の意味とサルトルによる用法を、広範なテクスト、特に1964年のローマ講演原稿「倫理の根」(『サルトル研究』誌第19号収録)を精査し検討したものである。
 評伝『ボードレール』や講演『実存主義とはヒューマニズムである』等では定言命法としてこの定式への言及ないし示唆があるのだが、『聖ジュネ』では「裏切り」におけるカント的命法の逆転が語られる。「道徳と歴史」では、いかにして主観的なものないし日常的生に命法が介入するのか、という視点からこの命法は再度取り上げられる。さらに、『家の馬鹿息子』ではこの定式が親による子への条件付けとして働く点に言及され、内なる道徳律としてではなく、他者関係における〈命令すること〉の意義が捉え直される。講演「倫理の根」においてはこの点が道徳、規範的なもの、客観的なものの経験、すなわち道徳や命法についての現象学的な分析を行う際に持ち出される。
 翌日のMouillie氏の発表にも共通するが、サルトルの60年代の倫理学においては、道徳現象の主観的・現象学的分析が試みられており、『存在と無』の時期には明確に論じられていなかった社会的世界や歴史的形成物の経験と実践との関係があらたな観点から取り上げられ直されている点は注目に値するように思われた。

SHUJI KITAMI : Morale sartrienne en tant que force motrice de démocratie : sur Les Racines de l’Éthique
 北見氏の発表はマルクスとサルトルにおける「真の民主主義」および「全体的人間(homme intégral)」の概念について、共通点と差異を明らかにしつつ、サルトルにとってのこれらの概念の重要性を「倫理の根」に依拠しつつ強調するものであった。
 マルクスは「真の民主主義」を自由な個人のアソシエーションと捉え、生産手段が社会化された社会において実現されると考えた。この民主主義観は、明らかに、ソビエト型の官僚主義と異質なものである。北見氏によれば、「倫理の根」におけるサルトルはこの民主主義観を共有している。さらにサルトルはそれを発展させ、具体的人間を物象化し集列化する現行の間接民主主義に対して、直接民主主義をとなえる。
 「全体的人間」の概念についても双方に共通して用いられるものの、その含意は異なる。『ドイツ・イデオロギー』のマルクス、エンゲルスにとって、それは分業体制を乗り越えた先の自立した個人において完成されるが、「倫理の根」のサルトルでは、自律において人びとが結びつくところに実現される。そこで人びとの結合は、諸個人を包摂した上位の審級を意味するのではなく、あくまで北見氏が「万人の複数の自律」と名付けるものにおいて実現される。第二の差異は、マルクスにとってそれが生産様式の変化に応じて実現される上部構造にすぎず、道徳的含意を持っていない一方、サルトルにとってそれは倫理の目的であり、民主主義社会の自律性を獲得するための不可欠な動力因であるという点にある。
 発表後半では、「倫理の根」の記述に沿って「全体的人間」を回復することの必要性が強調された。かつてのソビエトにおいては、体制の一部をなし体制に服従する「疎外された道徳」が全面化していた。そこで人びとを解放し「複数の自律」を実現するためには、「全体的人間」の回復を目指した継続的な介入が求められる。こうした事態はソビエトに対してのみ有効なのではなく、あらゆる反抗運動とかかわっており、新自由主義が世界を席巻し、レイシズムがはびこる社会においてますます重要性を増しているという。
 質疑では、「倫理の根」では民主主義について直接言及されておらず、集団について語ることで間接的に問題化されている点の確認や、集団そのものがサルトルにおいて常に倫理的なものと考えられるのか否か、といった疑問が提出された。「全体的人間」の希求というマルクス/サルトル的な課題がまさに現代の問題であることを指摘する北見氏の発表は、サルトルの思想を今どのように読むか、という常につきまとう問題に正面から応えたものだといえよう。

ALEXANDRE COUTURE-MINGHERAS : La conscience et le monde. « L’idéalisme » de Sartre (1936-1943)
 Couture-Mingheras氏の発表は、しばしば実在論的と見なされるサルトルの初期の現象学的テクストについて、それが実在論的であるのか観念論的であるのかを問うた上で、観念論的な読解を試みた。発表は「志向性」論文、『エゴの超越』、『手帖』、『存在と無』を参照しつつ、それぞれについて長い注釈を与え、主にフッサール現象学と比較しながら進められた。発表者の意図は、いわゆる思弁的実在論における「相関主義」批判との関係からサルトルの実在論/観念論の問題に再び光を当て、初期哲学の意義を問い直すことにあった。
 たしかに、思弁的実在論の代表的な著作の一つに数え上げられるカンタン・メイヤスー『有限性の後で』には相関主義の哲学としてサルトルの名が見られ、博士論文である『神の非存在』でも『嘔吐』におけるマロニエの根の場面が(ごく簡潔に、自身の論じる不条理性との差異を示すためにだが)言及されている。事実性や偶然性といった鍵概念についての解釈等も含め、双方の突き合わせを通じてどれほど新しい展望が開かれてくるかは明らかではないが、未開拓分野という意味では検討される価値はあるだろう。

HIROAKI SEKI : La notion de mesure dans la première pensée de Sartre
 関氏の発表は、初期テクストにおけるmesure概念の多義性を研究したものであった。はじめに、小説『嘔吐』においてアニーがロカンタンを自分の尺度(mesure)だと見なす場面の分析が行われ、なぜこのようなロカンタン=尺度という同一視が生ずるのか、という問いが議論の導きの糸になった。それは、世界における理想的な価値尺度の欠如という事態を反映している、というのが氏の見立てであり、そのことを明らかにするために、『嘔吐』だけでなく様々なテクストが渉猟される。
 まず、『真理伝説』における「尺度」の位置づけから、理想的な価値尺度の欠如/危険で不十分な価値尺度の出現という対比が導入され、この対比を歴史的に解明するためにジャン=ジョゼフ・グーの『言語の金つかい』における「価値尺度としての貨幣の変遷」が分析される。さらに、同書の分析がサルトルのテクスト分析にも妥当であることを論じるため、ル・アーヴル講演及び『手帖』におけるジッド論が参照された。これらの分析を経た上で最後に再び『嘔吐』に立ち返り、小説末尾の音楽に見出される拍子(mesure)に対する言及がサルトルのmesureに対する関心のあらわれであり、単独者/芸術こそが真の価値尺度としての美を提示するというビジョンを明らかにしているのではないか、という仮説が提示された。
 内容は好評をもって迎えられ、質疑ではジッド研究との連携の可能性が示唆されたほか、初期サルトルにおける偶然性の理論との位置づけをめぐる質問があった。

SOIREE EXCEPTIONNELLE, organisée par Grégory Cormann et Jeremy Hamers : « On écrit peu à peu moins bien, puis on cesse d’écrire ». Sartre en radio, 1946-1973. Ecoute d’extraits & commentaires.
 夜にはCormann氏とHamers氏の進行による、サルトルの出演したラジオ番組を主題とした発表が行われた。Hamers氏は導入において、サルトルとラジオとの関係にあらわれた特性を脱同期化(désynchronisation)、脱モニュメント化(démonumentalisation)という語によって表現した。知識人によるメディア出演は、しばしばその作品の単純化、世俗的解釈を意図して行われる。その際、過去の作品の有名な一節がとりあげられ、過去を振り返り確認するよう促されることがしばしばである。しかしサルトルはラジオに出演するたびに、自分の年齢を訂正し、過去の作品との連続性を否認し、人口に膾炙したフレーズ(「地獄とは他者である」等)による単純化を拒否するしぐさを繰り返すことで、ジャーナリストが試みるモニュメント化を挫折させる。
 こうしてHamers氏がラジオ番組の内容面での分析を担った一方で、Cormann氏はより広い文脈のなかにラジオ、あるいは広く作品と対立するマスメディアを位置づけ、この問題の持つ多様性に光をあてた。特に氏は55年から57年頃をひとつの転換点と見なし、メルロ=ポンティの『弁証法の冒険』への最初の応答が著作ではなくマスメディアに対して行われた点、アルジェリア戦争におけるレジスタンスのラジオが活用された点などを明らかにした。また『批判』における集列性の例としてマスメディアがつくる集団について批判的に言及される点を指摘しつつ、メディアがつくるある種の共同性・大衆といったものが当時のサルトルにおいては積極的に評価されない点が指摘された。その他にも、複数のディスクールの領域を横断するプロジェクトとして実存的精神分析を見なすならば、メディアを通じた活動をこの観点から取り上げ直すことができるのではないかという指摘、また、晩年のサルトルが作品を断念し次第にメディアへと進出してゆくことなど、サルトルとメディアについてのあらたな論点が多く提出されたように思われる。

6月24日
JEAN-MARC MOUILLIE : Sartre, penseur subversif de la norme
 Mouillie氏の発表は「道徳と歴史」および「倫理の根」に見られる規範的なもの(le normatif)についての考察を〈規範の現象学〉と捉えた上で、その考察の独自性を評価するものであった。
60年代の道徳を扱ったテクスト群において規範は、主体から独立して存在する、行為を外側から抑圧し規制する要因ではなく、実践そのもののなかに織り込まれ、行為の可能性を限定しつつ実現させる要因をなすものとして経験される。また規範は主観的側面にかかわるのみならず、それ自体客観的なものでもある。その意味で、規範は間主観的に共有されるものであり、それを通じて個人的な選択のみならず集団的な選択についての分析をも可能にする。こうした規範の両義性は『存在と無』の時期にはあらわれていなかったものであり、ここにサルトルの発展と一貫性を見て取ることができる。前日の発表と趣旨において通ずるものであるが、極めてクリアな見立てによって、サルトルの倫理観の特徴がより明らかになったように思われる。
 倫理そのもののなかに葛藤と差延を含むという点で、デリダの脱構築的な理論とのかかわりが指摘できるのではないかという質疑もあったが、これについてはさらに展開して検討されることも可能だろう。

PAOLA CODAZZI : Réflexions sur le roman : Jean-Paul Sartre et le « tragique moral » d’André Gide
 ジッドの著作における「ヨーロッパ」について博士論文を準備しているCodazzi氏の発表は、ジッド研究者としての観点からサルトルのル・アーヴル講演における『贋金つかい』論を検討するものであった。サルトルは同講演において、ジッドの小説の主題を登場人物の葛藤、道徳的悲劇のなかに見てとっている。現実と仮象、金と贋金といった二元性に引き裂かれた登場人物たちは、その葛藤を克服すべく物語を生きる。なかでもオリヴィエとヴァンサンの兄弟の命運は対照的で、発表者によれば、オリヴィエは葛藤を引き受け乗り越えることに成功するが、ヴァンサンはそれに失敗し悲劇的な死に至る。
 サルトルの考察のジッド論としての正確さと可能性を指摘する発表であったため、ここからサルトル研究/ジッド研究に何をもたらすかという点については聴き手に委ねられた感もある。しかし、質疑でも指摘されたように、サルトルのジッドに対する関心は恒常的なもので、両者の対比はさらにシステマティックに展開される必要がある。たとえば、人間主体の内的引き裂かれという主題は、後の本来性/非本来性にかんする考察にも連なるものであり、倫理にかんするサルトルの思索の大きな源泉をなしている。その萌芽をなすものがハイデガーの読書以前の比較的早い時期(1932-33年)に見いだされる点は興味深いといえよう。

ESTHER DEMOULIN : Sartre, « l’antipédéraste » ?
 Demoulin氏の発表はENSで行われたセミネール「文学と(複数の)同性愛」に基づいたものである。
 彼女はまず『聖ジュネ』と「対独協力者とは何か」を取り上げ、前者でのジュネの同性愛についての決めつけともとれる分析、後者での同性愛者と対独協力者を結びつける言説に言及した上で、サルトルは同性愛嫌悪者(アンチペデラスト)かと問いかける。ついで、この否定的判断には慎重さが必要であることがサルトルの文学作品における同性愛表象から分析される。サルトルの文学作品にはほぼ必ず同性愛者が登場するが(『嘔吐』の独学者、『自由への道』のダニエル、『出口なし』のイネス等)、その役割は一義的ではない。それはマゾヒズムや自己欺瞞、裏切りといった否定的価値に結び付けられることもあるが、『聖ジュネ』のパラテクストや他の作品(特に『出口なし』のイネス)においては明晰さという肯定的価値に結びつけられ、対独協力者で同性愛者のダニエルは作品の未完結部分ではレジスタンスとして真の自由を体現する人物に変身する。こうして数多くのテクストからサルトルの同性愛観の両義性を提示したあとで、先行する/同時代の同性愛言説として、ジッド、プルーストの同性愛観との対比が行われた。サルトルにおいて、同性愛は同性の同性に対する関係に固定化されず、女性化した男性、男性化した女性といった形式をとり、ジェンダーの二項関係を撹乱する多元的な側面をも持つ。最後に、ボーヴォワールの小説や『第二の性』における同性愛言説との対比が行われ、精神分析における同性愛観との対比から、サルトル/ボーヴォワールの同性愛についての考えの相違が明らかにされた。
 理論的にはディディエ・エリボンの『ゲイ問題の考察』(いうまでもなくサルトルの『ユダヤ人問題の考察』を意識したテクスト)も背景にあり、サルトルにおける同性愛表象の内的多義性と他の作家たちとの対比が展開される豊かな発表だったように思われる。

TABLE-RONDE On a raison de se révolter (A. van den Hoven & V. von Wroblewsky)
 『反逆は正しい』英訳刊行記念ラウンドテーブルでは、アメリカとドイツにおけるサルトルの翻訳者二人が『反逆は正しい』とリベラシオン紙創刊に至る歴史的・政治的・思想的文脈を語り直した。詳細は省くが、当時の熱気とこの書物の重要性を感じさせるものであった点は指摘しておきたい。ただ、このテクストを2017年に翻訳・刊行することの意義について質問があった際に明白な答えがなかった点はやや残念であった。

GIUSEPPE CRIVELLA : Quel imaginaire pour le roman? Sartre et Blanchot
 Crivella氏のサルトルとブランショにかんする発表は、『シチュアシオン』第1巻に収録された『アミナダブ』への書評に基づくものである。そこでサルトルはブランショの世界観について、日常の有用性が逆さまにされた世界、すなわちファンタスティックな世界を描いているという評価を下しているが、これがサルトルの『想像力の問題』結論部にあるイマージュの把握と現実把握の反転的関係とのかかわりのなかで論じられる。そこから、ブランショ自身のイマジネールと言語との関係、イマジネールと現実との接触との関係等が比較された。

ALEXIS CHABOT : Du mouvement et de l'immobilité de Poulou
 Chabot氏の発表は「運動性/不動性」を鍵語にしてサルトルのテクストを独自の観点から読み解いてゆくものであった。『手帖』における状況の硬直(不動)と「前進」の合図(動)、ブルジョワに特有の価値観の固定性、イデオロギーの保守性、土地持ち(不動)に対して、そこから逃れようと試み、自己自身と一致せず、ホテル暮らしをするサルトル(動)など、動/不動の対立はサルトルのテクストと生をつらぬいてあらわれる。さらに、『手帖』でその現場を見てとることができるように、サルトルの思考は多弁によって新規さと創造性を獲得しており、自己限定によってではなく絶え間ない創造によって、つまり動き続けることで成立している。その根底には運動へのオブセッションと同時に不動に対するオブセッションが存在する。ひと組みの概念によって複数のテクストを横断してゆく手つきは鮮やかであった。
 発表題目はイヴ・ボヌフォワの『ドゥーヴの動と不動』へのアリュージョンで、まず詩の一節(Hier régnant désert)の朗読からはじめられたが、発表日は奇しくもボヌフォワの誕生日であった。

CLAUDIA BOULIANE : Comment voyager comme un saumon. Sur trois métaphores du tourisme de masse dans La Reine Albemarle ou Le dernier touriste
 Bouliane氏は遺稿旅行記である『アルブマルル女王』を観光ツーリスムという観点から論じることを標題に掲げたものだが、そのなかで思いがけぬかたちで『手帖』の重要性が強調された。まず、サルトルの従軍当時の社会でツーリスム、ツーリストが持っていた両義性に光が当てられる。フランスでは資本主義の発展と1936年の人民戦線の勝利以降の法整備によって有給休暇、ヴァカンスの大衆化が進み、ブルジョワ以外にもひろく旅行の楽しみが可能となった。他方で、植民地への侵攻や戦争も旅行と同様に、世界中で、しばしばピトレスクな趣を持つものとして受け入れられた。『手帖』を紐解けば、サルトル自らもはじめは戦争を短期で終結するヴァカンスのように捉えていたことがうかがえるが、それは同時代の変容した旅行観を反映したものになっている。すなわち、一方では大衆的な動員としての旅行として、また他方では美と破壊の両面にかかわる旅行として。
 発表はこれらの有益な歴史的視座を含みながら旅行の問題系を論じるもので、サルトルの旅にかんする決して少なくないテクストを読むための道しるべとなるものであった。
(文責・赤阪辰太郎、協力・関大聡)

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