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第31回研究例会のお知らせ+発表要旨 [研究例会のお知らせ]

次回研究例会のお知らせ

 第31回研究例会が下記のように開催されることになりましたので、ご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時 : 7月6日(土) 14:00~17:00

会場 : 立教大学 池袋キャンパス 5号館 5210教室


研究発表1 「サルトル/ファノン試論」

発表者:中村隆之(大東文化大学)

司会:鈴木正道(法政大学)





研究発表2 「サルトルの思想と生における「遊戯」について 」

発表者:関 大聡(東京大学大学院)

司会:翠川博之(東北大学)



研究発表3 「サルトルとバタイユ ―不可能な交わりをめぐってー」  

発表者:岩野卓司(明治大学)

 司会:澤田直

総会:17:30
懇親会 18:00


以下、各発表者の要旨を掲載しておきます。



「サルトル/ファノン試論」
中村隆之(大東文化大学)

 この発表では、最初に、サルトルの状況論を手がかりに、サルトルの反植民地主義の戦いを、主にカリブ・アフリカの文脈から振り返る。
 そのうえで、今度はファノンに注目する。マルティニックに生まれてアルジェリア解放闘争をFLN側の人間として闘うファノンは、サルトルの思想と行動をどう見たのか。反対にサルトルはファノンをどう評価したのか。
 脱植民地化運動を背景にした両者の関係性を考えてみたい。



「サルトルの思想と生における「遊戯」について」
関 大聡(東京大学大学院)

 必ずしも思想として彫琢されていないように思えるが、しかし、サルトルの生を理解す るために重要なキーフレーズとして「遊戯」を提示すること、それが今発表の本旨である。 サルトルの思想のなかで「遊戯」とはどのような役割を果たしているだろう。代表的な 例としては『存在と無』における記述がある。スポーツを例に挙げての印象的な記述に沿って、それが「為す」ことのうちでもきわめて脱我有化的傾向が強いことを確認しつつも、「やはり、根本的に」それが我有化的傾向から免れえない、という曖昧な結論を下す。そ してそれ以後「遊戯」というものが俎上に載せられる機会はなくなるように思われる。そ のため「遊戯」とはサルトルの現象学的分析の一例にすぎず、特権的なものたりえないよ うにも思われるが、果たしてそうだろうか。
 当時の思索、とりわけ『奇妙な戦争日記』を読み進めるうちに、「遊戯」とは当時の、そ してそれまでのサルトルの思索において決定的に重要な役割を果たしており、きわめて倫理的な問題系のなかで問い直されるべきものだということが露わになる。そこには、ボー ヴォワールの「かつての我々の関心は、遊戯やごまかしや嘘によって、状況と距離をとる ことにあったからだ」(『事物の力』)という回想にみられる自己欺瞞や虚偽意識への反省対 象としてではなく、むしろ「くそ真面目」に対峙するための決定的な装置としての「遊戯」 の新たな層がうかがえるはずである。
 また、『存在と無』及び『奇妙な戦争日記』において「遊戯」に属するあるいは類似する ものとされた属性は、創作行為や始原性、それに若さといったものであるが、それらの諸属性はサルトルの後の思索においても再度現れることが確認できる(『文学とは何か』『弁 証法的理性批判』及び多くの伝記的作品群)。それはつまり、遊戯がすがたを変えながらも、 常にサルトルにとって一つの軸でありつづけた、ということを証立てるものに他ならない。 これまでサルトルにおいて jeu, jouer といえば「演技」「賭け」を意味することがもっぱらであって、それがまた「遊び」をも意味するという側面が看過されてきたように思われる。本発表はそれを補うものだが、他方、それら三つの jeu は相互に如何なる関係を持つの か、という問いかけもさらに生じてこよう。この問いに全面的に応答することは、まとまった一つ発表のかたちでは難しく、今後の課題としてすすめていきたいと思うが、そのた めの予備的考察も念頭に置いている。
 これらの検討は、サルトルを思想史における「遊戯」の系譜に組み込むことを可能にし てくれる。そのための準備作業として、サルトルが言及しているフリードリヒ・シラーの『人間の美的教育について』や、いくつかの箇所にサルトルへの言及が見られる西村清和 の『遊びの現象学』に依拠しつつ、広い展望のもとでサルトルの論を捉えることを目指す。



「サルトルとバタイユ ―――不可能な交わりをめぐって」
岩野卓司(明治大学)

 ブランショの小説『アミナダブ』をサルトルはカフカの『城』に似た幻想文学と捉え解読を試みるのだが、その根底にあるのは「表」と「裏」の二元論である。幻想文学が示しているのは、「裏側」の「あべこべの世界」であり、それをひっくり返せば「表側」の日常の世界である。それに対し、バタイユは『有罪者』の中で、『アミナダブ』の世界を日常の世界を反転したものとはとらえずに、「夜」の神秘経験としてそのまま肯定している。この差は何を表わしているのであろうか。
 この違いは「新しい神秘家」での、サルトルによるバタイユ批判にも現われている。この批判にはいくつかの論点があるが、本稿では「無」について検討していく。バタイユは恍惚や笑いという内的経験を語るとき、「非-知」、「非―意味」、「無」を問題にする。『内的経験』では、ブランショの助言のみならずその小説『謎の男トマ』も援用されており、これらの問題系にはブランショも関係しているので、彼もまた槍玉に上がっている。サルトルはバタイユが「非-知」や「無」を実体化していると論難するのだが、それは「非-知」や「無」が思考や知や存在の側にあり、その意味で「虚妄な実体」だからだ。こういったサルトルの批判が依拠しているのは、『存在と無』の中で引かれている「存在は存在し、無は存在しない」というパルメニデス以来のテーゼである。ただ、バタイユが述べようとしたことは、「存在」でも「無」でもなければ「存在」でも「無」でもあるような何か、知でもなければ非-知でもなく知でもあれば非-知でもある何か――後にブランショは「中性的」という言葉をあてている――なのだ。これをサルトルは『アミナダブ』同様に二元論で割り切ろうとしている。
 どうしてこういった距離が生じるのだろうか。フランソワ・ルエットが『サルトルの沈黙』(増補版)で説明している、サルトル自身のかつての自分に対する「自己批判」という解釈は説得力のあるものだろう。『嘔吐』と『内的経験』の間には、「瞬間」、「沈黙」、「絶対的なものの魅惑」、「木々を通しての神秘体験」といった類似があるだろう。この意味で、かつてのサルトルとバタイユは似た者どうしであったのだろう。しかし、こういった近さの中にはすでに遠さがやどっていないのだろうか。『嘔吐』でロカンタンが感じるのは「存在」へのむかつきであり、むしろどうにも逃れられない「存在」への固執である。それは、「存在」の意味がずらされ、「無」と区別できなくするような、ある意味で「存在」の枠組みを破壊するような考え方ではない。サルトルがバタイユに感じたのは、かつての自分への単なる批判だけでなく、存在への嘔吐感すらも壊しかねない自己破壊的な何かではなかったのではないのだろうか。存在の枠組みをずらしたり超え出たりしようとするものへの自己防衛だったのではないのだろうか。
 『嘔吐』と『内的経験』の近くて遠い関係は、「余計なもの」と「最後の人」との違いにも見出せる。『嘔吐』は「余計なもの」の物語とも言える。働かないでぶらぶらしているロカンタンは、社会からすれば「余計なもの」であり、「余計なもの」に関して、サルトルはさらに深く「存在」のレヴェルまで掘り下げている。存在に理由のないことを発見したロカンタンは、木々、柵、小石などの存在が「余計なもの」であるように感じてくるのだ。『内的経験』を執筆しているバタイユも孤独を味わっている。彼は書くことで他者に呼びかけて「交流」しようとするが、また同時に孤独にさいなまれている。この孤独は、「最後の人」かどうかというあり方を前提にしている。内的経験の孤独は、あらゆる他者が不在となった「最後の人」であるかどうかという問いの試練を経たものであり、他者との「交流」の考えもこの問いの上に成立している。『嘔吐』のロカンタンの「余計なもの」という考えよりも、「最後の人」であるかどうかという問いの方が、他者が完全に消失する危険性にさらされているという点で、掘り下げかたが徹底しているのではないのだろうか。そうだからバタイユのテクストを彩っているのは、「極点」、「可能事の極限」、「可能な限り遠くまでいくこと」、「既知の地平を越えていくこと」という、極端さを指し示す言葉の群れである。バタイユは存在の伝統的な枠組みを破壊しかねないぐらい思考を極端に推し進めるとともに、至高な孤独を「最後の人」かどうかの次元にまで徹底するのだ。こういった点を考慮にいれれば、『嘔吐』と『内的経験』の近さには、ここでも既に遠さが孕まれていると言えるだろう。
 しかし、極限にまで行かないことは、サルトルの思想の多様さの源泉ではないのだろうか。小説、劇作、現象学哲学、ヒューマニズムとアンガージュマンの理論、文芸批評、社会哲学など、彼は時代の要請に応じて多岐の分野で多様な思想を展開している。また、予告し書き始めて思想を展開しても、最後までやりとげてない仕事も多い。徹底しないで未完に終わることが多様なかたちで展開していく彼の思想を形作っているのではないのだろうか。この多様な書き手としてのサルトルに対し、バタイユはまったく理解を示さない。『クリティック』誌に発表された論文「実存主義」では、バタイユはサルトルのことを「最高度に」知性の勝った男で「純粋に感覚的なもの」に対して嫌悪感を示す傾向があると考えている。知性の人サルトルの実存主義は、「純粋に感覚的なもの」、すなわち内的経験や「非-知」の排除のうえに成立しており、知の極限への冒険もなく相変わらず知の領域に留まっている。しかしこの知を注意深く調べてみると、この実存の哲学者は知の領域のなかでいくつもの分野を移動しながら豊かな世界を生み出していることがわかる。バタイユは徹底しないことで産みだされる複数の多様な可能性について完全に盲目になっているのではないのだろうか。
サルトルとバタイユ。彼らはある種の近さを持った同時代の二人であるが、その近さにはすでに遠さが孕まれている。後者は、極点に向けて問いを徹底するし、前者は、究極までは行かずに知の間を絶えず移動する者である。彼らの近さには本質的にお互いを遠ざけてしまうような何かがあるのだ。それでは、バタイユの徹底とサルトルの多様さ――これを現代のわれわれはどう捉えていけばよいのであろうか。サルトルとバタイユの不可能な交わり、あるいは交わりの不可能性がもたらしてくれる可能性をどう探っていけばいいのであろうか。

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