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日本サルトル学会会報第30号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°30 mars 2011
日本サルトル学会会報              第30号 2011年 3月


研究例会の報告

 第25回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。

日時 : 12月4日(土曜日) 14:00~17:30
会場 : 立教大学(池袋キャンパス)5号館5323教室

シンポジウム 「サルトルのイマージュをめぐって:その射程と批判的考察」

パネラー: 
荒金直人(慶應義塾大学) 郷原佳以(関東学院大学) 森功次(東京大学大学院・日本学術振興会)
司会:
 澤田直(立教大学)

1.荒金直人 : 「サルトルの像理論における類似的表象体の実体化について」
1936年の『想像力』の中でサルトルは、心象(心的な像)を意識の中にある対象とみなす見方を「素朴な存在論」による心象の事物化として退け、ある特定の仕方で意識の外部の対象に向かう意識の在り方(ある特定の志向的構造)が「心象」と呼ばれているのだと考えた。更に彼は、心象についての議論を画像についての議論へと接続し、意識が画像を(一つの物体として知覚するのではなく)像として捉えるとき、つまりその画像が表象する対象を意識するとき、その意識は「心象」の場合と同様の志向的構造を有していると考えた。つまり、「心象」という経験をする場合も、画像を「像として」経験する場合も、どちらも意識が「像形成的」に作用しており、両者の違いはヒュレーの違いに基づくと考えたのである。ここで、画像の像経験のヒュレーは感覚与件であるとされたが、心的な像経験のヒュレーが何であるかは確定されず、これが課題として残された。
以上のことを踏まえて、1940年の『想像的なもの』(邦訳『想像力の問題』)におけるこの課題へのサルトルの取り組みを、フッサール自身の取り組みと比較しながら検討した結果、暫定的にではあるが、次のような結論に達した。
サルトルは「心象は意識である」(心象は意識の中にある対象ではなく意識それ自体である)というスローガンを掲げた。そして像一般(画像と心象)を意識の作用として定義した。しかし彼は、像経験のヒュレーとしての「類似的表象体」を(画像の場合は物理的媒体として、心象の場合は意識における超越として)実体化して解明しようとした。一方フッサールは、紆余曲折を経ながらも、「感覚もファンタスマも既に意識である」と言い(「感覚」は知覚および像意識のヒュレー、「ファンタスマ」は空想ないし心象のヒュレー)、ヒュレーの実体化を回避する。このフッサールの視点は、サルトルが自分の当初の姿勢(「素朴な存在論」に対する批判)に忠実であれば、当然到達せざるをえなかったはずの視点であるように思われる。
意識が世界を如何に受け止めるのかという問題設定を維持し、想像する意識を具体的に論じようとしたサルトルと、意識の外部を前提せずに経験の構造を解明しようとし、ヒュレーを最初から「機能上の概念」とみなしたフッサール。この差異が、心的な像経験のヒュレーに対する捉え方を左右したように思われる。(荒金直人)

2. 郷原佳以 : 遺骸としてのイメージ――サルトルに応えるブランショ
ブランショは、1951年の論考「想像的なもの(イマジネール)の2つのヴァージョン」(『文学空間』所収)において、サルトルのイメージ論に応答している。本発表では、この論考以外でのブランショとサルトルの関係性について概観したうえで、この論考のひとつの読解を提示した。
まず、サルトルとブランショの親和性を示唆するものとして、「夢」と「ジャコメッティ」という2つのテーマがある。『想像的なもの(イマジネール)』(1940)最終章におけるサルトルの夢の分析は、夢をイメージの典型的なトポスとするブランショの記述に似通うところがある。また、サルトルの2篇のジャコメッティ論(「絶対の探求」(1948)、「ジャコメッティの絵画」(1954))は、ジャコメッティの彫像のうちに観者との隔たり(distance)を見出す点で、「マラルメの経験」(1952)および「痕跡」(1963)で表明されるブランショのジャコメッティ解釈に引き継がれている。
次に、ブランショのサルトルへの反論であるが、「文学と死への権利」(1948)のなかに、作家のアンガジュマンについての『文学とは何か』(1948)の一節に対する辛辣な批判が読まれる。しかしながら他方で、同論考で「文学における2つの傾向」を語るときには、ブランショはサルトルの議論を参考にしているように思われる。
「想像的なもの(イマジネール)の2つのヴァージョン」は、従来、サルトル的なイメージ概念に対して、「遺骸的類似」と名づけられる別のイメージ概念を対置し、後者によって前者を否定しようとするものと解されることが多かった。しかし実際にはそうではなく、「ヴァージョン[versions]」という語にも示唆されているように、その眼目はイメージの二重性を示すことにある。そしてその二重性を理解するためには、レヴィナスのイメージ論を経由する必要がある。
ブランショはこの論考で、まずイメージの「第1のヴァージョン」として、「事物を否定することによって活性化させる」作用を挙げている。これはサルトルのイメージ論に基づくものと考えられる。ブランショによれば、このイメージは「不定形な虚無を人間化」する「幸福」なものである。ここで「不定型な虚無」として想定されているのが、レヴィナスの「イリア」である。レヴィナスは「異郷性」(1947)において、芸術におけるイメージは志向を対象に到達させずに感覚のなかに踏み迷わせるのだとして、そこで露呈される状態を表すものとして「イリア」概念を導入していた。そして続く「実存者なき実存」では、「イリア」を表す形象として「遺骸」を挙げたのだった。
ブランショはおそらくレヴィナスの議論から着想を得て、イメージの「第2のヴァージョン」として、「遺骸[cadavre]」ないし「抜け殻[dépouille]」をイメージのモデルに据え、遺骸は他の何ものにも類似していないが自らに類似している、という「遺骸的類似」の観念を打ち出す。この観念のもとになっているのは、やはりレヴィナスの芸術論「現実とその影」(1948)である。レヴィナスはそこでサルトルを批判しながら、イメージを、事物の真理に切り込む透明な思念ではなく、事物の非-真理を浮き立たせる不透明な厚みとして捉えた。ブランショは「遺骸」に、もはや送り返すべき何ものをも持たない不透明な厚みの現れを見て取ったのである。
ブランショは最終的に、イメージをこの2つのヴァージョンの二重性そのものにおいて捉える。すなわち、イメージの経験とは、一方では、否定作用によって事物を所有することであるが(第1のヴァージョン)、他方では、それを可能にしている否定性、言い換えれば、対象からの遠ざかり(éloignement)ないし対象との隔たり(distance)そのものによって捕らえられることである(第2のヴァージョン)。(郷原佳以)

3. 森功次 : 初期サルトルにおけるイメージと情動――フィクションの情動、情動のフィクション――
本発表は、初期サルトルの情動理論を、近年の英米系分析美学の領域で行われていた情動論争と照らし合わせることで、初期サルトルのフィクション作品観の特徴を浮かび上がらせようという試みであった。(情動論争とは〈フィクション作品観賞時の情動をどう位置づけるか〉という論争であり、1970年代以降、英米系の分析美学の領域で盛んに議論されているものである。)
第一節では、『情動論素描』『想像力の問題』の記述を手がかりに、サルトル理論における情動の位置づけを大まかに確認した。
第二節では、フィクション作品観賞時の情動がサルトル理論のなかでどのような位置づけを与えられているかを確認した。フィクション観賞時の情動は、〈意志的な情動〉とも〈対象が眼の前に本当に現実存在する情動〉とも、〈対象の現前性が薄い情動〉とも、〈完全に幻惑されている際の情動(夢の情動)〉とも区別される。
第三節では、サルトルの想像力論であまり明示的に指摘されていないひとつの事実を指摘した。それは、〈非措定的自己意識の否定的性格が保たれていること、すなわち、想像的対象によって幻惑されていないという事態が、そのまま美的距離になるわけではない〉という事実である。フィクション観賞時の情動は、〈いま観ているものが美的経験を狙いとして制作され、提示された、拵え物である〉という観賞者自身の認識に支えられているのである。
とはいえ、本発表は〈フィクション作品体験時の情動はどのようなものなのか〉という問題には、まだ直接的には答えきれていない。この問題を考えるには、戦後に発表された文献から、サルトルの文学観などが明らかにされる必要があるだろう。「拵え物」の認識は、われわれの情動的反応を根底で支えている。とはいえ、その拵え物がどのような拵え物として認識されているのかは、また別の視点から考察されねばならないのである。(森 功次)

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