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日本サルトル学会会報第54号 [会報]

研究例会のご報告
第40回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
今回の研究例会では、南コニー氏、堀田新五郎氏による研究発表が行われました。

第40回研究例会
日時:2017年12月9日(土) 14 :00~17:00
場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

研究発表
14:00 ~ 15:15
発表者:南コニー(神戸大学非常勤講師)
「サルトルにおけるラッセル法廷とその展開」
 司会:森功次(東京大学/山形大学)

 南氏の発表は1967年にストックホルム法廷、東京法廷、ロスキレ法廷と三回にわたって開催された民衆法廷、ラッセル法廷を材料にサルトルの思想面、とりわけ中期サルトルの倫理的思想を考察するものであった。
 南氏はまず「民衆法廷」という枠組みが要求された当時の社会・政治状況を説明した上で、民衆法廷の思想史的意義を考察した。従来、知識人・思想家が国家権力から裁かれる存在であったことをふまえると、民衆法廷とはそうした知識人・思想家が国家を裁く主体となったという点で画期的な転換点といえる、という南氏の主張は非常に興味深いものであった。
じっさい、民衆法廷という従来になかったシステムを立ち上げるに当たっては、数々の政治的・制度的困難があったという。そのとき、そうした困難を乗り越えるにあたって拠り所となった思想的指針は、「真実を民衆側から生成する」というものだった。刑の執行、法的意義などについては特に効力を持たない民衆裁判にとって、重要なのは、大衆側から真理を生成していくという点だったのである。
発表の後半では南氏は、その「真理の生成」という点からサルトルとキルケゴールの思想的近親性を指摘した。南氏のまとめによれば、キルケゴールのいう主体的真理とは、客観的真理と違い、「関わる対象が非真理であっても主体の関わり方が真理であるかが重要」なものである。キルケゴールは宗教的なものへの関わり方を、この「主体的真理」という概念で説明したのだった。さらに南氏は、サルトルの「キルケゴールは、単独者が歴史のうちに普遍者として自己を設定する限りにおいて、普遍者が単独者として歴史に入ってきたことを示したおそらく最初の人である」という文章を引きつつ、キルケゴールの「主体的真理」の概念を「単独的普遍者」概念と結びつけ、そこからラッセル法廷をサルトル的モラルの実践の場として読み解いた。ラッセル法廷とは人々が主体的に真理を生成しようとした社会的・倫理的実践の場だったのだ、というのが南氏の発表のひとつの結論である。
最後にいくつか申し添えておくと、全体として南氏の発表は、従来あまり内容が知られてなかったラッセル法廷の様子とその反響具合を、新聞記事、写真、映像等の各種資料とともに入念に紹介する、非常に資料的価値の高いものであった。さらに発表の最後に南氏は、現代の民衆法廷の事例を紹介しつつ、現在彼女が関わっている民衆法廷プロジェクトの様子も紹介していたが、彼女のこうしたプロジェクトへの関わりは、単なるリサーチを越えて彼女自身が行う一つの実践的活動でもある。資料的リサーチと社会運動を結びつける南氏の発表は、現代におけるアカデミシャンのひとつのあり方を示していた点で非常に刺激的であった。今後のさらなる成果に期待したい。(森功次)

15:30 ~ 16:45
発表者:堀田新五郎(奈良県立大学准教授)
「サルトル1952年の政治思想――その主権論的構成について」
 司会:永野潤(首都大学東京ほか)

 サルトルは『倫理学ノート』で探求した倫理的要請から、倫理を裏切らないために倫理学を放棄し、そして、倫理学は政治思想と評伝に転化されねばならなかった。本報告において堀田氏はそう論じ、それによって、サルトルの政治思想を「主体の決断主義」とする解釈を批判する。サルトルの倫理・政治思想は「非主体的決断による主体の構成」として捉えなおされるが、しかし、それはなおもメシア主義の危険をはらんでいる、と氏は結論する。多くの示唆に富む刺激的な報告であった。
 堀田氏はまず、「倫理」と「倫理学」はどのように違うのか、そして「倫理学」はなぜ「倫理」を裏切るのか、ということを、聖書の「善きサマリア人の譬え」を用いて説明する。「私の隣人とはだれですか」とイエスに尋ねた律法学者は、「義人となる」ことを目的とし、事前に「愛すべき隣人」が誰かを同定しようとしている。同じく、「倫理学者」は、「倫理」それ自体を対象とし、事前に同定することを目的とすることで、かえって「倫理」を裏切ることになる。一方、旅人を「助けるがために助けた」サマリア人にとって、目的は「倫理」ではなく、今ここでの「具体的な苦しみの除去」でしかない。倫理は、「過去」の具体例を媒介に誘っていく事柄であり、その意味で倫理は「倫理学」ではなく、「評伝」で伝えられねばならない。サルトルが『倫理学ノート』冒頭で言うように「『倫理的であるために倫理を為す』という金言は毒にまみれている」のであり、「倫理は倫理以外の目的へと止揚されなければならない」のである。
 しかし、今ここでの具体的苦しみが継続的・構造的な暴力によって生み出されているとすれば、倫理においては、「この私」の単独的行為ではなく、暴力のメカニズムを暴き出し、他者たちに世界変革を呼びかけることが要請される。倫理は、構造的暴力を媒介に、政治思想へと止揚される。サルトルの「倫理とは、倫理の選択ではなく、世界の選択でなければならない」(CM)という言葉もその意味で理解されるべきであり、政治思想とは、「あるべき世界」を提示することとして「未来」形で倫理を語ることでもある。
 このように「倫理」そのもの、「être authentique」そのものをポジティヴに「事前に」提示することは不可能である。ところが、サルトルの倫理思想を「être authentique の探求」と捉えてしまうところから、「サルトル=無からの決断主義者」というサルトル像が生まれてしまうが、そうした解釈はサルトルの思想をとらえそこなっている。
 一方で、氏は『文学とは何か』、『倫理学ノート』を読み解くことで、その政治思想的帰結がウルトラ・ボルシェヴィズムとなってしまう点を指摘する。『文学とは何か』では、無からの価値の選択が提起されているが、ただしそこには羅針盤があり、存在的次元での具体的な自由が選択の価値基準なのである。その意味でそれは政治と不可分の関係を持つ。しかし、その「政治」とは、既存の秩序を前提に、価値の権威的配分をめぐる「技術的な政治」ではない。それは、既存の法秩序を無化し、新たなそれを構成する革命的な暴力violence(『倫理学ノート』では「一撃としての贈与」)に基づく政治である。『共産主義者と平和』においては、この主体的ないしは主権的自由は、〈党〉 (Parti)の自由として現れるのではないか。ここに、メルロ=ポンティが批判したウルトラ・ボルシェヴィズムの危険性を看取すべきではないか。
 その上で氏は、サルトルのアブラハム解釈の、「主体の決断主義」から「非主体的決断による主体の構成」への転回をたどり、また、デリダのアブラハム論を参照することによって、サルトルの立場を「非・主体の決断主義」として提示する(この観点から、メルロ=ポンティのウルトラ・ボルシェヴィズム解釈は批判される)。『実存主義とは何か』でのアブラハムの叙述においては、(単独者として無根拠に)「決断するのはつねに私」という形で「決断主体」としての〈私〉が召喚されているが、『聖ジュネ』においては、〈私〉が事後的にしか成立しえないことが強調されている。前者とは違い、『聖ジュネ』では「私はアブラハムだろうか?」という問いが否定され、「神のまなざしが、外部から彼を構成した」のであり「アブラハムは客体なのだ」と言われる(SG)。決断の瞬間にはアブラハムは決断主体の〈私〉ではなく〈客体〉にすぎない。これは、内在的他性としての〈それÇa〉に突き動かされる瞬間(狂気の瞬間)である。しかも、事後的に構成された主体は、一切の「責任」を引き受けて現れる。デリダがアブラハム論で言うように、決断は、「私の中における他者の決断」でありつつも、それは、無責任や受動性を意味しないのであり「『それが私にまなざしを向けるÇa me regarde』が『それは私の問題だ、私に関係することだ、私の責任事だ』と私に語らせる(『死を与える』)」のである。このように、サルトルとデリダはそのアブラハム論において邂逅する。ただし、こうした「非主体的な決断」は、デリダがいうように、シュミット流の主体的決断主義を批判するものだとしても、氏はそこにむしろメシア主義の完成を見る。メシア主義的な思想は、主体性ではなく他者性が強調されるとき、より強度を高めるのであり、『聖ジュネ』(『共産主義者と平和』と同時期に書かれている)末尾の「モラルが我々にとって不可避であると同時に不可能」に関しても「他律的な決断の否応なさ」が強調されているのではないか、と氏は考える。最後に、メシア主義をめぐるサルトルとデリダの相違が指摘されることで発表は締めくくられた。
 質疑応答では次のような指摘があった。「『実存主義とは何か』を見ると、主体の決断主義に見えるが、その立場が変わったともいえない。『存在と無』では、対自は自分が決めるわけではなく、常に前の自分と切られてしまっている。ただしそれを、Ça(それ)あるいはフロイト的エスに繋げるのはサルトル的ではない。むしろ〈私〉、自我自体が他者であるという、『自我の超越』で言われている非人称的意識のあり方ではないか。」「サルトルの主体性はデカルト的コギトではなく〈社会的主体性〉。そこには、無意識・歴史・身体が含まれている。それをサルトルは明確に60年代、後期になって明確にとらえた。」「最終的に第三の倫理まで含めた場合、サルトルがこだわっているのは、52年のころの〈党〉とは異なり、〈左翼gauche〉である。」「50年代にサルトルは過去の自分自身に逆らって『ジュネ論』を展開した。そこでは、他者性の引き受け、受動性をポジティブに方向転換することとして〈回心〉が論じられている。ところが(非主体的だとしても)〈決断〉、という言葉を使うと、やはり主体的なものが念頭に置かれているように感じられてしまう。」
 最後に、今回の発表における「他者のまなざしによる倫理的主体の構成」という議論と、前回の例会との関係についても指摘しておきたい。竹内芳郎もまた、他者の「まなざし」、私の対他存在の、「敢然たる受容」を通じて自己脱出をはかる「脱自性」のなかに人間の真の自由を見いだす、という「おどろくべき弁証法的逆転劇」にサルトルの「実存的倫理」の根源を見ていたのである。(永野潤)

サルトル研究関連文献
・ J-P・サルトル『敗走と捕虜のサルトル 〔戯曲『バリオナ』「敗走・捕虜日記」「マチューの日記」〕』石崎晴己(編訳)、藤原書店、2018年
・ 鈴木道彦『余白の声 文学・サルトル・在日 鈴木道彦講演集』閏月社、2018年
・ 海老坂武『戦争文化と愛国心 非戦を考える』みすず書房、2018年
・ 澤田直編『異貌のパリ 1919-1939 シュルレアリスム、黒人芸術、大衆文化』水声社、2017年

理事会からのお知らせ
日本サルトル学会では、発表者を随時募集しております。発表をご希望の方は、下記の連絡先までご連絡下さい。なお例会は例年、7月と12月の年二回行われております。

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