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日本サルトル学会会報第52号 [会報]

研究例会のご報告
 第39回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告致します。
 今回の研究例会では、「竹内芳郎に応える」というテーマでシンポジウムが開催されました。また、立教大学文学部フランス文学専修との共催で、ロバート・ハーヴェイ教授の特別講演が行われました。多くの方々にご来場頂き、感謝申し上げます。

第39回研究例会
日時:2017年7月15日(土) 13 :30~18 :00
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)

13:30〜16:00 シンポジウム「竹内芳郎に応える」
永野潤(首都大学東京ほか(非))
      「竹内芳郎とサルトル哲学」
小林成彬(一橋大学大学院)
      「竹内芳郎の「戦後」」
鈴木一郎(討論塾)
      「竹内芳郎と討論塾の実践」
司会:生方淳子(国士館大学)
16:15 特別講演(共催:立教大学文学部フランス文学専修)
Robert Harvey  State University of New York Stony Brook, Distinguished University Professor
ロバート・ハーヴェイ(ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校教授)
「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」
   通訳:黒木秀房(立教大学兼任講師)
司会:澤田直(立教大学)

シンポジウム「竹内芳郎に応える」
 2017年7月15日、日本サルトル学会の第39回研究例会にて、シンポジウム「竹内芳郎に応える」が開かれた。
 ここで、シンポジウム開催に至るまでの経緯などを少し記してみようと思う。
昨年11月竹内芳郎が亡くなった。それは私(小林)にとって、衝撃だった。その理由は様々あるが、そのうちで最も大きなものは、近いうちに竹内芳郎に会いにいこうと思っていたからだった。結局、実際に竹内芳郎と会うことは出来なかった。
 今年の2月から、本シンポジウムの企画を練り始め、企画に賛同し、発表を行ってくれる人を探し始めた。発表者が決定してからは、何度もメールして意見交換を行い、また実際に会合をして合計十時間以上に及ぶ意見交換会を行った。
 私は竹内芳郎の全著作を読み込む作業を行った。そのうちに、竹内の個人史的側面にも関心を抱くようになり、討論塾のかつてのメンバーだった人や、討論塾の中核を担っていた人たちに取材を行った。また、竹内が生まれた岐阜県の資料を漁り、生い立ちなどが徐々に明らかになった。竹内自身は著作で個人史的なことをほとんど書くことがなかったので分からなかったのだ。なお、シンポジウム後のことになるが、親族の方にも取材を行うことも出来て、より立体的に竹内の姿が分かるようになった。また、取材を進めていくうちに、興味深い遺稿の存在することも明らかとなった。今回のシンポジウムで活用することはほとんど出来なかったが、将来に向けて、それは日本におけるサルトル受容史を解明する上でも極めて重要なものとなるだろうと思う。

 さて、今回のシンポジウムでは、はじめに小林が、以上の取材などを元にして、竹内芳郎の生涯を紹介し、現代において竹内芳郎を読むことの意味について、また本シンポジウムの意義について説明した。
 それに続いて、三つの発表が行われた。以下にそれぞれ発表者自身による詳細な報告文があるが、私なりにまとめると、(1)永野氏はサルトルから影響を受けた竹内芳郎の倫理思想を解明することで、そこから逆照射するようにしてサルトルの新しい読解を提示しようと試みた。(2)小林は、竹内芳郎のサルトル受容を日本哲学史の文脈から再構成することで戦後思想としてのサルトルの斬新さを明らかにしようとした。(3)鈴木氏は実際に長年に渡る討論塾の参加の経験をもとにして、竹内芳郎が「討論塾」という営為をもとに問題提起したことを要約的に提示しつつ、現代のアカデミズムに対する鋭い問いを突き付けた、というものであっただろう。
 当日は、会場を含めて活発な議論が行われた。だが、生方氏の報告文にもあるように、「あまりに時間が不足していた」。だが、どれほど時間があっても足りなかったであろう。議論が「実を結ぶ」ことはなかったかもしれないが、様々な思考の「種」を私は貰うことが出来たように思う。今後、それを育てていきたい。
 最後に、このような企画を受け入れてくださったサルトル学会、それから度重なる議論に付き合い、また発表を行ってくださった永野潤氏、鈴木一郎氏、また司会を引き受けてくださった生方淳子氏に、大きな謝意を表したい。(文責:小林成彬)

1) 「竹内芳郎とサルトル哲学」(永野潤)
 かつて「サルトルを再評価するならば竹内芳郎的な読解とは違う新たなサルトルの読み方を提示しなければ」というようなことを言われたことがある。このように、竹内芳郎は、かつて主流だったが今は古くなってしまったサルトル読解の典型、としてしばしばとらえられている。しかし、はたして竹内、あるいは竹内的サルトル読解は、そもそも「古くなる」前に「主流」だった時代があるのだろうか。むしろ、竹内思想の本質的部分は、一度も受け止められることなく「黙殺」されてきたのではないのか。本発表では、サルトル哲学の影響を受けた、竹内の思想の核となる倫理思想の枠組みをとらえなおし、それが、どのように現代と「出会う」のか、ということを考察した。
 竹内によると、サルトルの他者論は、私の自由を否定する他者の「まなざし」、私の対他存在の、「敢然たる受容」を通じて自己脱出をはかる「脱自性」のなかに人間の真の自由を見いだす、という「おどろくべき弁証法的逆転劇」を秘めている。竹内は、「相剋」を「善用」し、「相剋」を通じて自由を獲得するというこの逆転劇に「実存的倫理」の根拠の一つを認めるのだが、ただし彼は、こうした実存的倫理が真に確立されるためには『存在と無』における他者論だけでは不十分である、と考える。「相剋」を引き起こすためには、実は「他者もまた私と同じまなざし得る主体なのだ」という「相互性」の認知が必要なのであり、それを自覚するところに真の実存的倫理が(サルトルの場合は『弁証法的理性批判』の段階に至って)成立する、と竹内は考える。
 とはいえ、ここで竹内が倫理の根底にとらえる「相互性」とは、「相剋」を隠蔽するところに成り立つ自己欺瞞的な人間関係、すなわち「馴れ合い的」な「共生」とはまったく異なったものである。竹内は、実存的倫理が「裸形の人間」から出発するものであることを繰り返し強調するが、裸形の人間とは、単なる「個人」ということではなく、共同体から排除された「構造からの食み出し者」(『文化の理論のために』)でもある。そして竹内は、近代的な人権思想の原点には、裸形の人間=食み出し者を救済する「普遍宗教」の成立と、その中で確立した「超越性原理」がある、と考える。竹内は、後年の討論塾における発言の中で、「構造からの食み出し者」に立脚した、ラディカルな労働運動、ラディカルなヒューマニズムの展望をしめしているが、その意味でそれは人権思想のはるかな原点に帰ることでもある。一方で竹内は、「裸形の個人」と対立するものとしての日本の伝統的な人間関係である「集団同調主義」を「天皇教」と呼んで一貫して激しく批判し続けた。それは、対立や矛盾を隠蔽する「欺瞞の体系」であり「無責任の体系」である。天皇教的なものが、権力側も反権力側も共通に支配する「日本的現実」と竹内は格闘し続けた。2000年に発表した文章の中で、竹内は、「ヴェ平連」系の団体が1991年に「この憲法のもとにあった45年間、日本はただの一人も軍隊によって人間を殺したことはありませんでした」という米紙への意見広告を出したことを例に、日本の市民運動の「自己矛盾への鈍感さ」を痛烈に批判している。ところで、例えばデモにこれだけの人数が集まった、と運動が誇り、また逆にこれだけしか集まっていない、とそれを批判するような状況がある。しかし、主流から食み出し、食み出した孤独の中でかえって普遍につながっていくという竹内の思想は、そうした発想の対局にある。(文責:永野潤)

2) 「竹内芳郎と「戦後」」(小林成彬)
 戦後日本にサルトルは大きな影響を与えた、と言われる。だが、それは具体的にどのような影響であったのだろうか。あるいは、サルトル受容は実際どのようなものであったのだろうか。このような問いを立てた時、私は呆然とせざるをえない。第一に、その受容はあまりに広汎に渡っているからであり、第二に、それがゆえに、その「大きな影響」の具体的な内実については暗闇の中にあるように思えるからだ。
 しかし、戦後思想、とりわけ丸山眞男などを代表とする、いわゆる「戦後民主主義」との緊張関係においてサルトルの影響を考察してみると、サルトルが戦後日本に与えた影響の意味が明らかになってくるように私には思われた。例えば、竹内芳郎は「日本的現実との闘い」としてサルトルの思想を受け止めたが、この「日本的現実」の内実を見てみると、「戦後民主主義」思想家たちが徹底して分析し批判しようとした対象とほとんど同じように思われたからである。しかし、竹内芳郎は「戦後民主主義者」からも一定の距離を置いていた。この「距離」を分析することで、サルトル受容を先鋭的に提示することは出来ないだろうかと最初私は考えた。
 しかし、歩みを進めていくうちに、「戦後思想」そのものが、彼らの「戦争体験」に根差し、また、戦前の思想たちへの対立のうちで育まれているということが明らかになった。「戦後思想」の成立の条件には、「戦争体験」と「戦前思想」があったのではないか。
 「竹内芳郎の「戦後」」と題した本発表で扱ったのは、竹内芳郎にとっての「戦後」が可能となった条件を明らかにすることである。それを明らかにすることで、「戦後日本におけるサルトル受容」の生産的側面を明確化できるのではないかと私は期待した。探究を進めていくうちに、竹内芳郎においても、「戦前思想」と「戦争体験」の二つの軸から「戦後」の意味を明らかにできるように思われた。戦前の京都学派の思索に竹内芳郎は大きな影響を受けていた。だが、自身の「戦争体験」を基盤として、それを徹底的に批判しようとし、「戦後」にサルトルを発見し、受容したことが明らかになった。竹内芳郎は「戦争体験」についてほとんど公で語ることはなかったが、晩年の『討論塾』などでの述懐や遺稿をもとに「戦争体験」の再構成を試みた。京都学派と竹内芳郎の関係も極めて複雑なものである。図式的に言えば、竹内芳郎は和辻哲郎の思索に対するラディカルな批判意識を持ち、それへの批判としてサルトルを武器としたと言えるだろうが、竹内のサルトルの受容には九鬼周造への大きな依拠が認められる。根底に横たわっている問題とは、一言でいえば、「他者」をどのように考えればよいか、「根源的社会性」をどのように考えればよいのか、というものであっただろう。
 日本の「哲学」界において、サルトルには厳しい判定がこれまで様々な形で下されてきた。竹内芳郎はその法廷でサルトルの要求を護ってきた。サルトルの要求に異議を唱える、反対側の席には誰がいるのだろうか。その暗闇の席に光を当ててみると、そこに座している最も大きな人物として、西田幾多郎とハイデガーが見えてくるように思われる。私は再審請求を行ってみたい。それによって、「日本におけるサルトル受容」の歴史的側面をより明らかにし得るであろう。また同時に、サルトル自身の哲学的生産性を新たに明らかにし得るのではないか。本発表を通して抱いた感想である。(文責:小林成彬)

3) 「竹内芳郎と討論塾の実践」(鈴木一郎)
 竹内芳郎は、1989年に討論塾を創設した。討論塾は、論争や討論がすっかり消滅してしまった日本の言論空間に抵抗して、討論を通じて日本社会独特の精神風土である集団同調主義=天皇教を克服することを目指した教育機関である。また、討論塾は、1960年代後半の我が国の大学闘争の挫折を教訓として踏まえたものである。この点で、大学闘争によって提起された課題を殆どすべて放置してきたため、昨今の所謂<大学問題>と称される様々な矛盾に直面せざるを得なくなっている大学アカデミズムの在り方と鋭く対立する。討論塾の目指す所は、<真理性>という基準を立て、異なる思想・意見を持つ者同士が、「相互吟味」(ソクラテス・林竹二)を通じて行う真理追求の営為である。この場合の真理とは絶対的なものではなく、あくまで、討論の過程で認識し得る根拠のある確からしさ(明証性)であり、何時でも検証によって更新され得る暫定的なものである。討論において、こうした真理性を基準として設けることによってプロタゴラス的な相対主義を克服することができる。さらに、真理に恭順であるためには、人類史の中で普遍宗教の成立とともに生まれた超越性原理に従う必要があり、この原理の徹底化による自己批判を通して我執を去ることが求められる。これによって、異質な他者との間で、暴力を回避しつつ、言論による共通認識を形成していくことが可能となる。討論では、専門家と非専門家の垣根を超えた対話を行うことによって脱タコツボ化を目指すとともに、明示性言語の行使によって、含意性言語に基づく<察しの文化>(昨今の言われるKYや忖度の文化)の排他性をも克服する。この営みを重ねることによって、公論形成と真の民主主義精神の確立を目指す。他方、大学闘争の経験から学ぶことを怠ってきた大学アカデミズムは、一般的には、このような討論塾の目指した理念とは逆の方向を辿った。即ち、研究者集団は、専門性を口実に、ひたすら市民社会の日常との関連を絶ち、ますます疎外された知の中に逃げ込み、その自信の無さから異質な他者との討論・論争を避けてきた(だから、異論に応える(répondre)責任(responsabilité)を放棄し黙殺を以て応じるのが慣例。この黙殺文化の根底には対他存在を希薄化してしまう天皇教の無責任文化がある。)。もし今後も、異質な他者や市民社会との相克の中で自らの営みを真摯に検証し、生きた知的営為を回復する契機を失するのであれば、少子化や財政難といった社会構造の変化の中で、市民社会での自らの立脚点を失い、政治権力側の圧力に抵抗する事もできずに、嘗て福沢諭吉が揶揄した幕末・開国時の卑屈な漢学者のように歴史の中で淘汰されていくことであろう。

【質疑応答】(鈴木に対するもの)
問:大学の研究会などに出てみても、海外の思想の紹介などはあっても研究者自身がどう考えているかが見えない事が多いし、現実の喫緊の課題を考えていることも少ない。 答:研究者と市民との対話の機会を創り出して行かなければ研究者集団の先行きはどん詰まりとなるだろう。 
問:絶対的真理は否定されるべきものだが、真理への意志が人間の中にあるからこそ討論が行われると理解した。真理への欲求をどう考えるか? 答:共同主観性の中で真理はその時点で見えている確からしさだ。その根拠が変われば真理は更新される。現象学的に言えば、真理への意志を成り立たせているのは<射映>という認識の構造だ。サルトルに従えば、現れていないものに向かっていく指向性とも言えるだろう。 
問:竹内の『言語・その解体と創造』における文学言語論は哲学・思想的には啓発的だが、象徴派などのフランス文学の流れの厚みの理解が足りない印象があるがどう思うか? 答:同著の第二論文「アンガージュマン文学の言語論的再検討」は、詩的言語をアンガージュマン文学から排除するサルトルを批判し、詩的言語の可能性を高く評価したもの。逆に文学に対する大きな理解を示すものだ。
問:現在、竹内の著作は読まれていないが、その思想が日本社会を変えていない理由は何か? 答:そもそもある思想が日本社会を変えるなどということは戦後日本の中では未だかつて無かったのではないか? それは竹内個人の思想云々ではなく、日本の思想風土全体の問題だ。他方、竹内の思想自体は現実変革に極めて有効だ(例えば直接民主主義による代議制批判等)。
(文責:鈴木一郎)
4) 司会者からの報告
 今回の例会は、サルトル学会の20年あまりに及ぶ活動の中でも稀に見る挑戦的な異色のシンポジウムとなった。大学院生による発案と準備のもと、在野で哲学思想を研究する人々をパネリストおよび聴衆の中に迎えて、戦後の日本思想から最新の時事問題に至るまで、サルトル研究の枠を超えて縦横に議論が交わされた。その中心に置かれたのが竹内芳郎の業績である。竹内は日本におけるサルトル哲学研究の先駆者のひとりで、『サルトル哲学序説』(1956年)や『サルトルとマルクス主義』(1965年)など本格的な研究書の著者であり、『自我の超越』、『情動論粗描』や『弁証法的理性批判』などの翻訳・注釈者であり、また戦後日本の「近代性」に辛辣な批判を向ける思想家でもあった。90歳を超えてなお健在ぶりが伝えられていたが、昨年11月に不慮の死を遂げられたことから、追悼とオマージュの意味も込めて、彼が提起した問題、今も決着がつくどころかさらに重みを増している問いに新たに向き合おうと試みたのである。
 最初に、発案者の小林成彬氏から、この会の趣旨、竹内芳郎の生涯、そして彼が取り組んだ問題について導入的な解説があり、続いて、サルトル研究者としてすでに多くの著作を公刊している永野潤氏から、存在論と倫理を踏まえて共同体からの「食み出し」や民主主義の欺瞞という問題をめぐってサルトルと竹内芳郎との接点を探る洞察に満ちた発表があった。続いて再び小林氏から、竹内がいかにサルトルを武器として戦後日本の現実の中にあった「愚劣さ」と戦おうとしたかということについて多くの貴重な指摘がなされ、そして最後に、竹内芳郎の主催する「討論塾」に、その発足時より長年にわたって参加してきた鈴木一郎氏から、考えの異なる者同士が討論をするということの意味について、サルトルの他者論やソクラテスの対話を引きつつ問いが発され、門外者との議論を避けようとする研究者の閉鎖性や外部へのコミュニケーションの意図を欠いたアカデミズムの不毛に対して忌憚ない批判が寄せられた。サルトル学会のあり方に対しても、質問状(「塾報」など)を送っても反応がなかったとして容赦ない批判が浴びせられた。この点、サルトル学会は大いに反省し、外部との対話のパイプを確保するため早急に検討をせねばなるまい。
 会場からは、竹内のサルトル論の不備も指摘されるとともに、竹内の思想に真に現実を変える力があったのか、といった疑問の声や、指導的思想が日本を大きく変えたことが一体あったのか、といった根本的問いかけも出された。論点は、発表内容を受けて安全保障関連法反対運動やいわゆる「共謀罪」をめぐるメディアのあり方や日本的精神風土と天皇制にまで及び、刺激的な「対話」が素描されかけたが、残念ながらそれが何らかの実を結ぶには、あまりに時間が不足していた。
 今回のシンポジウムは、サルトル学会に思いがけない風を吹き込み新しい地平を開いたものとして特記すべき「事件」でさえある。今回を単なる例外とせず、ぜひとも第2回、第3回のセッションを企画し、討論を深めていくことを切望する。(文責:生方淳子)

ロバート・ハーヴェイ 「サルトルによる「自己欺瞞」概念の現在性 Actualité de la mauvaise foi de Sartre」

 ハーヴェイ氏は、サルトルの最も有名な概念の一つである「自己欺瞞」と、私たちの身近な現状との間にいかなるつながりがあるのか、というシンプルな問いを立てることから始めた。
 ハーヴェイ氏は、「自己欺瞞」概念の受容を辿り直すことで、この概念が古びてしまうどころか、神経解剖学等による新たな発見に裏打ちされる形で、その妥当性がより強く示されてきたことを指摘した。その「自己欺瞞」とは、「自分以外のものになる可能性」というポジティヴなものであるというよりは、むしろ「取るべき決定を退ける」というネガティブなものであり、「自由」と弁証法的な対立関係にあるものだった。
 このように「自己欺瞞」概念を再確認した上で、再び現実世界の方を見るならば、ポピュリズムやナショナリズム、外国人排斥等が世界中で蔓延する現状は、まさに自己欺瞞的状況であるとハーヴェイ氏は述べる。こうして「自己欺瞞」概念と現実的な状況を照らし合わせて見えてくるのは、「政治的判断の可能性の条件」という問題だった。すなわち、自らに嘘をつくことで、結果として他者への責任から逃れるということだ。しかし、だからといって「自己欺瞞」が私たちを存在論的に規定しているわけではないことをハーヴェイ氏は強調する。そこで今一度サルトル自身の「自己欺瞞」の例が取り上げられ、再検討された。
 そこから引き出されたのは、自分に対する嘘についていかにして意識的であるか、という逆説的な問いである。ハーヴェイ氏は、現代社会の政治リーダーのうちに、自己欺瞞の痕跡が見出されると述べるものの、彼らは自己欺瞞の例としてふさわしくないと断言する。というのも、彼らは自らの嘘に対して意識的だからだ。ハーヴェイ氏自身が自己欺瞞の例としてあげるのは、意外にも『タルチュフ』の登場人物オルゴンだった。彼は、好きな人には騙され、自惚れが強く、盲目的であり、政治的判断能力を奪われたものとして描かれているとハーヴェイ氏は指摘する。
 最後にハーヴェイ氏は、このオルゴンのような「自己欺瞞」の現代的な形を見出すことができるのは、平気で嘘をつくことのできる現代の政治的独裁者ではなく、SNS等を通じて他者の仮面をかぶって生き、政治的判断能力を奪われた現代人であると述べて締めくくった。
 以上のように、本講演は、概念とアクチュアルな問題を往還するようにして、概念が刷新される一方で、現状に対しても鋭い分析が加えられ、ダイナミックなものだった。じっさい、質疑の際には、自己欺瞞と無意識をめぐる精緻な質問が上がった一方で、アクチュアルな問題への哲学的アプローチに刺激を受けたという声が上がった。(黒木秀房)


サルトル関連文献
・植村玄輝・八重樫徹・吉川孝編著、富山豊・森功次著『ワードマップ現代現象学 : 経験から始める哲学入門』新曜社、2017年
・水野浩二「サルトルにおける「非-知」の問題とその射程 : 一九六一年の講演をめぐって」『札幌国際大学紀要』 (48), 2017年, pp. 15-20.
・高橋由貴「大江健三郎「死者の奢り」におけるサルトル受容 : 粘つく死者の修辞」『昭和文学研究』(74), 2017年, pp. 102-115.
・梅﨑透「新左翼とサルトル/ニューレフトとカミュ : 日米の「一九六〇年代」と実存主義」『社会文学』(45), 2017年, pp. 78-90.
・伊藤氏貴「文学の敵たちをめぐる一考察 : 漱石、サルトルに抗して」『文芸研究 : 明治大学文学部紀要』(132), 2017年, pp. 11-18.
・竹本 研史「サディズムとマゾヒズム : ジャン=ポール・サルトルにおける性的態度について」『人間環境論集』17(1), 2016年, pp. 1-42.

次回例会のお知らせ
 次回の例会は12月9日(土)に大阪で開催の予定です。
 日時:12月9日(土)13:00 - 17:00

場所:関西学院大学、大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクエア13階アプローズタワー貸会議室

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