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日本サルトル学会会報第50号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°50 mai 2017
日本サルトル学会会報              第50号 2017年 5月

研究例会のご報告
第38回研究例会が下記の通り開催されましたので、ご報告申し上げます。
今回の研究例会では、最近博士論文を提出されました根木昭英、森功次、両氏の博士論文合評会を行いました。多くの方にご来場頂き感謝申し上げます。

第38回研究例会
日時:2016年12月3日(土) 14 :30~18 :15
場所:立教大学 池袋キャンパス 5209教室(5号館)


14 :30 -16 :15  提題者:根木昭英 Akihide Negi (司会:北見秀司、特定質問者:水野浩二) 「La « Poésie de l’Échec » : la littérature et la morale chez Jean-Paul Sartre」(「挫折のポエジー」――ジャン=ポール・サルトルにおける文学とモラル)

根木昭英による発表は、博士論文について、最初に着想経緯や意義などについて説明を行ったあと、全三部の梗概を、順を追って説明してゆくという形でなされた。
根木は、博士論文における考察の中心コーパスであった批評群(『ボードレール』、『聖ジュネ』、『家の馬鹿息子』、『マラルメ』等)の多面性を指摘することから報告を始めた。これらの批評は、実在の作家や詩人たちの生涯をめぐる伝記的描写であると同時に、彼らの実存や作品、さらにはその背景をなす歴史状況の哲学的分析でもあるという混合的な性格を持っている。執筆年代的にも内容的にも、サルトルの知的営為のほとんどすべてと絡み合って展開しているこの批評群に、これまでのところ既成理論の個別的事例への適用という副次的な位置づけが与えられる傾向があったとすれば、それにはこうした一見曖昧な性格も与っていたはずだと発表者は指摘する。しかし根木の考えによれば、これらの批評においては、じっさいには芸術とその倫理的位相をめぐる思索が展開されており、しかもそれは、独立した著作としては理論化されずに終わった一貫した体系を形成している。それは、「詩的な世界内存在」としての「ポエジー(poésie)」をめぐる思索である。サルトルのテクストにしばしば現れる「ポエジー」の語には、世界内存在の一様態、すなわち「挫折(échec)」あるいは「不可能なもの(l’impossible)」の選択という意味が与えられており、芸術作品は、何よりもこの審美的な実存様態から生み出されるとされる。そしてこの芸術創造の過程は、普遍-特異両面における実存の自己意識化およびその「証言(témoignage)」としての倫理性と結び付けられていると根木は言う。美学と倫理とのこうした潜在的接続をサルトルの新たな思想軸、さらに言えば、書かれることなく終わった「第二の『文学とは何か』」として再構築することが、根木によれば博士論文の主目的であった。
続いて報告は、論文の具体的な内容説明に移った。根木の博士論文は、作品創造の前提となる芸術家の存在様態を扱った第一部、詩的な実存様態の客体化たる作品創造の問題を扱う第二部、そして、前二部で構造解明された芸術的営為が持つ倫理的射程を探る第三部によって構成されている。各部の詳細については、次のような説明がなされた。
第一部においては、「ポエジー」の語が持つ、詩的な世界内存在としての意味から出発して、その構造および存在論的含意の解明が行われている。まず「ポエジー」の意味に関しては、サルトルにおける「ポエジー」が、「詩」のみならず、先述のように「挫折」あるいは「不可能なもの」の選択を指すために用いられていること、そして、こうした実存様態が、行為の有効性の否定によって道具連関を逆転し、世界を審美的様相において開示する態度として定式化可能であることが指摘される。続いて、以上の分析を「実存的精神分析」(『存在と無』)の存在論的観点からあらためて考察する後半部では、詩的な世界内存在が、不可能な「即かつ対自」、つまりはサルトルの無神論哲学における「神」たらんとする試みに収斂することがまず示される。つぎに考察は、サルトルにおける神概念の検討に移り、「神」のもうひとつの定義である「自己原因」の概念を、聖トマスからデカルト、スピノザを経てライプニッツへといたる神学史へと位置付けることで、サルトルの「神」が、何よりもそのフォイエルバッハ的な人間化された性格によって特徴づけられることを明らかとした。そして最終部において、以上の分析から、「ポエジー」が、自己の「瞞着(mystification)」により世界の我有化を目指す実存様態であることが確認された。
第二部では、詩的世界内存在が現実的事物、すなわち芸術作品(とりわけ文学作品)へと客体化される過程をめぐるサルトルの思索が検討される。そこではまず、サルトルが、作品における詩的投企の客体化過程を考察するにあたり、言語の対象指示作用よりも、その非伝達的側面である物質性契機の重要性を強調していることが指摘された。論文はそのうえで、こうした議論の背景に、サルトルにおける「記号/イマージュ(散文/詩)」の二元論が孕む両義性があること、よって「ポエジー」の問題とは「文学」一般のそれに他ならないことを明らかとする。そして、こうした両義性の起源が、フッサール現象学における記号とイマージュの区別の両義性にまで遡ること、さらに、それが「志向の差異」と「程度/本性の差異」をめぐる現象学のより根本的な(そして生産的でもある)両義性に関わることもまた示された。続く考察は、文学言語をめぐる以上の議論が、対他関係の文脈においては「コミュニケーションのアポリア」、すなわち、他者の眼差しによる作品客体化の要請と、対他存在の相剋的性格に由来するその必然的挫折として再解釈可能であることを示し、サルトルがこの新たな文脈において「ポエジー」を「ナルシシスム」、つまりは他者に向けられた「瞞着」として再定義していることを確認した。
第三部においては、以上に構造解明された芸術的営為が持つ倫理的射程が検討される。論文はまず、これまでに見た「ポエジー」としての芸術創造に、(多少の振幅を伴いつつも)サルトルが自らの倫理論を重ね合わせている点を指摘する。そのうえで、明示的説明を与えられていないこうした美学と倫理との接続が、芸術的営為のもつ、「人間的実存」の「証言」を通じた「弁人論(anthropodicée)」としての倫理性――人間的条件を拒絶し神たろうとする企てである芸術創造が、人間的条件の不可能性(即自/対自、偶然性/自由、対自/対他の解決不可能な矛盾)ゆえに、拒否された当の人間的条件の自己意識化と表現、そしてその擁護へと反転すること――として、整合的に解釈されうることを明らかとした。続く考察は、以上に再構成された美学-倫理体系と『弁証法的理性批判』との対照を通じ、芸術創造における「自己意識化」の概念が、「批判的経験の批判」において弁証法的全体化の第一の可知性を形成するとされた「了解」概念と他のものではないこと、よって本体系における芸術の倫理性が、「〈歴史〉の運動」つまりは「弁証法的理性」の「批判」としてのそれへと延長されうることを示した。そして最後に、それまで言語芸術を中心に検討されてきた以上の思索が、『ネクラソフ』を始めとする戯曲作品、さらにはティントレット論などの美術批評にも見いだされること、したがって再構築された体系が、詩学のみならずサルトルの美学-倫理論一般として妥当することが示された。

発表後の質疑では、最初に特定質問者の水野浩二氏より報告者に質問が寄せられた。水野氏の質問は、「美」と「モラル」との関係をめぐるサルトルの様々な発言の関係、また、「総合なき矛盾」たる「回転装置(tourniquet)」の観念を踏まえたうえでの、サルトル哲学における「弁証法」の位置付け、さらには「瞞着」とサルトル思想との関係についてなど多岐にわたるものであり、発表者はそれぞれ、「モラル」という語がその時々に持つ意味を区別しつつサルトル思想の展開を通時的に整理する必要性(「美」と「モラル」の関係)、「全体化するものなき全体化」としての『批判』の弁証法と「回転装置」とを、ひとまずは区別して考えるところから出発する必要(「弁証法」について)、また、しばしばサルトルにおいて「瞞着」が「透明性」と表裏をなしているゆえ、それは必ずしもそのまま「非本来性」と同一視できるものではない(「瞞着」について)、といった観点から応答を行った。続く一般質疑では、本論考の鍵語のひとつである「挫折」を考察するにあたって、サルトルが1927-8年に翻訳に参加したヤスパース『精神病理学総論』が持つ重要性の指摘、さらに、サルトルにおける「救済(salut)」をめぐるデリダの論考(『パピエ・マシン』所収)についてどう考えるかといった質問が出た。発表者は後者の問いに対し、今回再構築された体系においても文学とその倫理的「機能」とが不可分とされている以上、そこにある種の「救済」思想の回帰を見て取ることは可能かもしれないが、他方サルトルの文学実践(とりわけ文体レベルの実践)は、こうした思想にのみ還元されるものではないはずだとの視点から応答を行った。
以上、質疑においては博士論文で直接に扱われたテーマには限定されない幅広い角度から活発に質問が寄せられ、議論は盛況であった。発表者としてはとりわけ、一か月弱という短い準備期間で論文の根幹に関わる貴重な数々の問いを準備してくださった水野先生に、この場を借り、あらためて深謝申し上げたい。(文責:根木昭英)


16 :30-18 :15 提題者:森功次 Norihide Mori(司会:生方淳子、特定質問者:永井玲衣) 「前期サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」

 例会の後半部では私の博士論文「前記サルトルの芸術哲学――想像力・独自性・道徳」(東京大学、2015年)の合評会を開催して頂いた。まず冒頭で2-30分ほど私が博士論文の概要と要点を説明した。
私の博士論文は、サルトルの主に初期から『聖ジュネ』までの哲学的文献を読み解きつつ、そこから示されるサルトルの芸術論を読み解いていく、というものである。読解の中心となる著作は、第一章が『想像力の問題』、第二章が『存在と無』(とその前後の著作)、第三章が『文学とは何か』、第四章が『倫理学ノート』、第五章が『聖ジュネ』なっており、お分かりの通り、博論の章構成は、読み解く著作の時代順となっている。考察を通じてサルトル思想の年代ごとの変化を明らかにしていくというのも、本博論の副次的な狙いであった。
博論概要の説明の後、討論に移った。特定質問者は上智大学の永井玲衣氏にお引き受け頂いた。
永井氏からは、主に6点の質問を頂いた。私の理解した限りで(かなり雑駁に)質問をまとめると、質問は概ね以下の6点である。

1.『存在と無』から『倫理学ノート』にかけての思想の変化とはどのような変化だったのか
2.サルトルの文学観における「道徳」と「美的経験」との(やや複雑な)関係は結局どういうものなのか 
3.なぜ他者を個性的な人間として承認せねばならないのか
4.サルトルの倫理学と状況倫理とは何が違うのか
5.サルトルとアメリカ(プラグマティズム)の関係について。
6.(森の読解から出てくる)サルトルの文学は「公衆」の形成につながるものなのか

かなり予想外かつ良質な質問が続いたので、私もその場でいろいろと考えてしまい、あまりうまく受け答えができなかった。とりわけ4や5の質問については、ほとんど答えることはできず、反省点は多い。今後のための重要な検討課題を与えられたと思っている。
その後、質疑をフロアに開き、他の方々からも批判や意見を多数頂いた。とりわけここでも議論の中心になったのは、『道徳論ノート』の時期、サルトルの中にはどのような変化があったのか、という点だったかと思う。応答の中でわたしは、〈「純粋な反省」についてのサルトルの考え方が、瞬間的な反省から時間的なスパンのある反省へと大きく変化している〉というひとつの私見を述べたが、この点についても確固たるテクスト的証拠を出すことはできなかった。これも今後の課題として受け止めさせて頂きたい。
 今回の例会を機に、私の博論はResearchmap上で全文公開されている(https://goo.gl/BB7MKA)。今後も博論を書籍化するつもりは(少なくとも現時点では)ないので、私の考えが変わらないかぎり、ひとまず公開されつづけるだろう(そのうち東京大学のリポジトリにもupされると思う)。私が行った読解の妥当さはさておき、博論ではほぼすべての引用部分には原文を付してあるので、少なくとも資料的価値はあると思う。前記の哲学的著作を読み解く際の一材料として利用して頂ければ幸いだ。もちろん、厳しいご批判、ご意見はいつでも歓迎している。
 最後にひとつ謝辞を述べておきたい。この博論を仕上げるまでの数年間に、私はこの日本サルトル学会で幾度も発表の機会を与えて頂いた。その場で(もしくは打ち上げの場で)会員・来場者・パネリストの方々と行った討論は、この博論の様々なところで活かされている。この場を借りて、改めて御礼申し上げたい。(森功次)


サルトル関連文献
・ 加藤誠之「定時制高校の実践に学ぶ生徒指導 : 自由と遊びに関するサルトルの思索を手掛かりとして」『人間関係学研究』21(1)、2016年12月、pp. 51-61.
・ 李先瑞「野間宏の文学におけるサルトルの実存主義思想の受容」『アジア・文化・歴史』(4)、2016年12月、pp. 19-34.
・ 北見秀司「サルトル(1905-1980)と戦後 (特集 戦後70年と世界文学)」『世界文学』(124)、2016年12月、pp. 18-28.
・ 翠川博之/生方淳子/澤田直「生誕111年 J.-P. サルトル再読  実存主義を遠く離れて」『Cahier』19号(日本フランス語フランス文学会)mars 2017

サルトル関連情報
 サルトルの養女、アルレット・エルカイム=サルトル(1935年生まれ)さんが2016年9月16日に亡くなりました。Cahiers pour une moraleを皮切りに、サルトルの遺稿の出版を一手に行ってきただけでなく、新たな校訂版なども手がけ、サルトル研究の新たなステージを可能にした彼女の貢献は長く記憶に留められるべきものでしょう。国際サルトル学会GESなどの公の場所に顔を見せることは稀でしたが、多くのサルトル研究者がさまざまな形でお世話になりました。ご逝去に関しては長いあいだ公開されていませんでしたが、現在ではネット上でもこの情報が出ています。遺体はモンパルナス墓地に埋葬されたとのことです(« Bataille à huis clos pour l'héritage de Sartre », Le Canard enchaîné, no 5036,‎ 3 mai 2017, p. 4.)
 アルレットさんが編集中のGallimard 社からの新しいSituations集は、今後も続けて刊行の予定だそうです。サルトルの遺稿をはじめ、その他の遺品の今後の行方についてはいまのところ分かっていません。
 アルレット・エルカイム=サルトルさんのご冥福を心よりお祈りします。


☆ 次回の例会は2017年7月15日を予定しています。

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