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日本サルトル学会会報第48号 [会報]

Bulletin de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes N°48 Octobre 2016
日本サルトル学会会報              第48号 2016年 10月

研究例会のお知らせ

第37回研究例会が以下の通り開催されましたのでご報告申し上げます。
今回は韓国のサルトル研究会との合同企画により、国際シンポジウムの形式で開催となりました。多くの方にご来場頂き感謝申し上げます。発表・質疑はすべてフランス語で行われました。

第37回研究例会
日本サルトル学会・韓国サルトル研究会共同開催
37ème congrès de l'Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
co-organisé avec le Groupe Coréen d'Etudes Sartriennes

Journée d’études internationale : « Actualité de Jean-Paul Sartre »
「サルトルの今日性」
Date : le samedi 16 juillet 2016 日時:2016年7月16日(土)
Lieu : Rikkyo University Ikebukuro campus, Bâtiment 7, 7205
場所:立教大学 池袋キャンパス 7205教室(7号館)


13:30-15:45 Première partie 第1部 
Modérateur : Nao Sawada (Univ. Rikkyo) 司会:澤田直(立教大学)

Eun-Ha OH (Incheon National University) 오은하 吳銀河(仁川大学校)
« Comment Sartre a-t-il exploité le complexe d’œdipe? »
「サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか」
Débatteur : Hiroyuki Midorikawa(Univ. du Tohoku)
コメンテーター:翠川博之(東北大学)

吳銀河氏の発表「「ある指導者の幼年時代」における“籐の杖”の二場面(サルトルはいかにしてエディプス・コンプレックスを利用したか)」は、短編小説の分析を通じて、サルトルによる精神分析の批判的活用を論じたものである。この短編は、これまでにもGeneviève IdtやJean-François Louetteによる優れた研究が明らかにしてきたように、フロイトの精神分析理論及びその当時流布していたイメージを作品のなかに取り入れており、サルトルが如何に精神分析に関心を抱き、かつ批判的な視点を持っていたかを明らかにするものである。吳氏の発表では、一貫して他者に対する受動的態度を示している本作の主人公リュシアン・フルーリエが(表題の示すように)「指導者」へと成長を遂げてゆく過程において、エディプス・コンプレックスが活用されていることが指摘される。とりわけ、(精神分析においてしばしば男性性の象徴とされる)杖が登場する二場面を詳細に分析しながら、リュシアンが自らを「男」とし「父」に同一化することがコンプレックスを克服するプロセスと同期していることが明示された。このように精神分析的テーマを巧みに取り込みながら、精神分析そのものが家族制度を基本単位とする社会・階級構造の再生産に寄与するものであることを露わにすることで、サルトルはライヒ、ドゥルーズ、ラカン、ジジェク等に先立って欲望と政治の関係性を浮かび上がらせているのだと吳氏は結論付ける。まさしく、コンプレックスの克服がファシズムの誕生と結び付けられるのが本短編の「不気味さ」であり、近年もこれを原作とする映画("The childfood of a leader” 邦題『シークレット・オブ・モンスター』)が製作されたことからも、そのアクチュアリティは見逃されるべきではない。本発表は、その作品の内的構造を詳らかに解きほぐしたものとして、大勢の関心を惹くものであろう。(関大聡)


Akihide NEGI (doctorant à l’Université de Paris IV) 根木英昭(パリ第四大学博士課程)
« Sartre athée, mais quel athée ? : repenser la critique sartrienne de Dieu »
「無神論者サルトル、だがいかなる無神論者か? ――サルトルの神批判を再考する」
Débatteur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 
コメンテーター:鈴木正道(法政大学)

本発表は、根木氏がパリ第4大学に提出した博士論文の一部に基づく。無神論的実存主義を展開したと言われるサルトルの議論の道筋を『存在と無』、『倫理学ノート』など複数の著作から明らかにしようとする試みである。
 神は「存在論的」かつ「認識論的」な意味ですべての「根拠」であり、「自己原因」である。ただし意識存在として何かの原因であるには、すでにある偶然の存在を無化することによらなければならないが、すべての存在に先立つべき存在がすでにある存在を無化するというのは矛盾である。これがサルトルによる、神の概念批判である。根木氏が指摘するに、自己原因としての神という概念は、多分に伝統的なキリスト教の考えに沿ったものであるが、サルトルはあくまでもこれを、偶然の存在が意識存在よりも以前に存在するという自分の考えに結びつけて扱う。そもそもサルトルは自己原因という言葉を、神にも自由である人間意識にも使っている。こうしてサルトルの考える意識存在としての神はいかにも人間的な概念であると言える。
 あまり扱われていないが重要なテーマを分かりやすくまとめた好発表だった。会場からは昨年オクスフォードで同様の発表があったので参考にしてはどうかとの提案があった。「神たらんとする」人間という、確かにサルトルの要となる問題系の解明を支えるはずの主題である。(鈴木正道)


Kwang-Bai BYUN (Hankuk University of Foreign Studies) 변광배 邊光培(韓国外国語大学校)
« Sartre, philosophe des médias? » 
「メディアの哲学者? サルトル」    
Débatteur : Atsuko Ubukata (Univ. Kokushikan) 
コメンテーター:生方淳子(国士舘大学)

今や日常生活に浸透したSNS。そのユビキタス的性格と利用者の相互性を『弁証法的理性批判』で描かれる溶融集団の特性と比較して論じるという意表を突く発表だったが、精緻な論証に裏付けられ説得的で刺激的だった。
氏はまず、サルトルを「メディアの哲学者」と呼べるかという問いを立て、彼が大戦直後から常にマスコミの目にさらされ、またそれを利用してきたことに着目する。しかし、メディアの哲学者と言えるとすればこのような意味においてではないと明言、考察を『批判』の集団論へと進めていく。集列と溶融集団との区別を確認した後、この理論ではラジオ・テレビの視聴者が互いに隔てられ間接的な集列をなすとされているものの、現代においてSNSの利用者は相互性で結ばれた溶融集団へと変貌し共同実践によって社会の流れを変えうると指摘する。韓国におけるその実例に依拠しつつ、現代のメディア環境にも適用可能な概念を提供したサルトルは「メディアの哲学者」であると氏は結論づける。
安易な比較にとどまらず、用意周到に議論した点には感心させられたが、より多くの具体例を挙げて、『批判』で語られる「友愛=テロル」同様の危険がSNSにも潜むことまで踏み込む時間がなかったのが少々惜しまれた。(生方淳子)


16:00-17:30 Deuxième partie 第2部
Modérateur : Masamichi Suzuki (Univ. Hosei) 司会:鈴木正道(法政大学)

Nao SAWADA (Univ. Rikkyo) 澤田直(立教大学)
« Sartre et l’Italie : autour du biographique »
「サルトルとイタリア----伝記的なものをめぐって」

サルトルにとってイタリアとは、旅行の行き先であっただけでなく、現地の知識人と交流する場であり、そこで作品を生み出す場でもあった。サルトル自身が個人的に深くかかわった場所として、イタリアは伝記的著作の生成において重要な役割を果たしたのではないか、というのが澤田直氏による発表の出発点となる問いかけである。
 澤田氏はまずティントレットに関するテキスト「ヴェニスの幽閉者」に注目し、画家の人生の転換点となるできごとや家族との関係性が特筆される点において、のちの著作である『家の馬鹿息子』と共通する伝記的側面への関心が見いだされることを指摘する。その上で、サルトルはティントレットの作品を単に画家の人生の投影されたものとしてではなく、その中で画家の人生が全体化されるものとして捉えていたと論じている。
 続いて『主体性とは何か』というタイトルで邦訳も刊行された1961年のローマでの講演に焦点が当てられる。この講演においてサルトルは、主体性の形成において伝記的な「できごと」の果たす役割の重要性を論じるために、ミシェル・レリスをめぐる挿話を紹介、分析している。サルトルの論によると、主体性は個人がある「できごと」を全体化・再全体化する過程を繰り返す中で形成されるものである。サルトルが作家や芸術家の伝記的側面を重視するのは、そのためであると澤田氏は強調する。
 以上を踏まえ、サルトルの重視する伝記性の意義は以下の3点に要約されると結論づける。①動的な主体と静的な環境をつなぐ ②作品と人生を仲介し解釈を促す ③新しい人文社会的な分析方法になりうる
 本発表は、サルトルの一連の伝記的な著作の背景を探るだけでなく、作家あるいは芸術家の伝記的要素に関するアプローチとしてサルトルの方法の有用性を示した点において、興味深いものであった。(中田麻理)


Young-Rae JI (Korea University) 지영래 池英來(高麗大学)
« L'esthétique et la temporalité dans La Nausée de J.-P. Sartre »
「サルトルの『嘔吐』における美学と時間性」
Débatteur : Manabu Kurokawa (Univ. Aoyama-gakuin)
コメンテーター:黒川学(青山学院大学)

池英來氏の発表では、『嘔吐』におけるexistenceの問題が真正面から論じられた。氏は、まずサルトル最初の哲学的探求である「偶然性」が形作られていく過程をミディ手帳のメモ、アロンとボーヴォワールの証言、デュピュイ手帳などから丁寧にたどった後、偶然性/必然性の対立に、existence/êtreの対立を重ねていく。もちろんマロニエの根を前にしてのexistenceの開示は、偶然性の発見でもある。一方この書でのêtre は、プラトン的イデア界に属するものを意味する。必然的存在である音楽、「冒険の気持ち」というテーマは『イマジネール』における美の非現実性の議論に繋がっていくことが示される。さらに、ロカンタンが生きる、持続を欠いた瞬間は、『存在と無』における対自の時間性の議論へと繋がっていくことが指摘された。
全てにわたって『嘔吐』を織りなす諸テーマに通暁した氏の学識の深さが示された発表であったが、最後にサプライズが用意されていた。『嘔吐』の邦訳書の一節が比較検討され、exister, existenceの日本語訳として「現存」が提案されたのである。会場からは、当日お見えであった新訳『嘔吐』の訳者、鈴木道彦会長の応対もあり、発表者にとってもこれ以上はありえない交流の実現になったと思われる。 (黒川学)

総会報告
例会の最後に、今年度の総会が開催されました。
・ 昨年度の会計報告、本年度の予算案ともに承認されました。詳細は添付の別紙をご覧ください。(句点)
・ 役員の改選について。役員の任期の2年が過ぎましたので、本年度の総会にて役員の任期更新について議論され、現在の役員がそのまま留任することが承認されました。
     会長:鈴木道彦
     代表理事:澤田直
     理事:岡村雅史、黒川学、鈴木正道、永野潤、森功次、翠川博之
     会計監査:竹本研史、水野浩二

サルトル関連文献
・ 中田平『サルトル・ボーヴォワール論』kindle、2016(1976-1981年の論文を集めたもの)
・ 森功次「戦後の実存主義と芸術」『ベルナール・ビュフェ美術館館報』2016, 5-7.

発表者募集のお知らせ
 サルトル学会では発表者を随時募集しております。発表を希望される方は、下記の連絡先までご連絡ください。なお研究例会は例年7月と12月の年2回行っております。


日本サルトル学会  AJES  Association Japonaise d’Etudes Sartriennes
〒171-8501 東京都豊島区西池袋3-34-1 澤田研究室
c/o Sawada, Rikkyo University, 3-34-1 Nishiikebukuro Toshima-ku, Tokyo, 171-8501
E-mail: ajes.office@gmail.com   Web:  http://blog.so-net.ne.jp/ajes/

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