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第31回研究例会のお知らせ・発表要旨 [研究例会のお知らせ]

●研究例会のお知らせ
 先にお知らせした第31回研究例会ですが、発表者お二方の発表要旨がそろいましたので、あらためて以下の通りご案内申し上げます。多数の皆様のご参加をお待ちしております。

日時:12月7日(土) 13:30~17:00
会場:関西学院大学大阪梅田キャンパスK.G.ハブスクウェア大阪 13階・11号室(※)
アクセスマップ(http://www.kwansei.ac.jp/kg_hub/access/index.html)

受付開始  13:00
研究発表1 13:30~14:30
「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
発表者:赤阪辰太郎(大阪大学大学院)
司会:鈴木正道(法政大学)
(要旨は下記)

研究発表2 14:40~15:40
「ラカンの/とサルトル」
発表者:番場 寛(大谷大学)
司 会:澤田直(立教大学)

合 評 会 16:00~16:50
清 眞人 『サルトルの誕生 ニーチェの継承者にして対決者』 (藤原書店、2012年)
司会:生方淳子(国士舘大学)

懇 親 会  17:30 (会場近くの店を予定しております。)

本会は非会員の方の聴講を歓迎致します。事前の申し込み等は一切不要です。当日、直接会場へおこし下さい。聴講は無料です。

発表要旨

赤阪辰太郎「読書における共感と距離 『文学とは何か』を中心として」
 本発表は、サルトルが1940年代の著作において、読書行為を問題とする際に用いるrecul esthéthique概念を中心的に扱う。発表者は、この概念が読者と文学作品とのあいだにあらかじめ設定される距離を意味するのではなく、距離の発生を問題化する際に導入された概念である、と主張する。
 上の主張を、以下の2つの観点からの考察を通じて裏付けする。①読書行為における共感sympathieについてのサルトルの議論を参照する。発表者は、サルトルのいう共感を、作品の信憑という水準から、作品から適切な距離をとりながら作品について評価を下しうる立場へと移り変わることで到達できるものであると主張するだろう。この移行の過程にrecul esthéthiqueが関連する。②『存在と無』において用いられるrecul néantisantが静的な距離ではなく、距離を発生させるという意味で動的な概念であることを示し、両概念の共通点と違いを明確化する。そのなかで、サルトルがreculという語にもたせた含意を明らかにする。
 発表の後半では、戦前の著作である『想像力の問題』と戦後に刊行された『文学とは何か』に見られる論述の差異に着目し、読書行為の構造についての共通点を指摘すると同時に、読書を通じて出会う対象について差異があることを示し、サルトルの読書行為論の発展の過程を辿る。

番場寛「ラカンと/のサルトル」
 本発表は、ラカンがサルトルからいかに理論的影響を受けながらも、共にフロイトの精神分析という点では、むしろ相容れない二人の理論的特徴を際立たせることである。
 サルトルの唱える「実存的精神分析」とは「フロイト的無意識」を認めないと断言しているという点でいわゆる精神分析とは矛盾しているがそれにも拘わらず、かれがフロイト理論に執着するのはなぜなのであろうか?
 サルトルは『情動論粗描』においての結論は、意識のうちにはすでに象徴するものと象徴されるもの、シニフィアンとシニフィエが含まれているとみなし、それを「了解compréhension」と呼び、「心的因果性」を完全に否定するのだが、ラカンにおいてはその因果性こそ理論の支柱をなす。
 サルトルは依頼された仕事とはいえ『フロイト』というシナリオにおいては、登場人物に、「抑圧」や「転移」などフロイトの基本概念を忠実に言わせていることに驚かされる。
 フロイトを引き継いだラカン理論において重要な概念が「転移」であるが、分析において被分析者が自己の過去の秘密を知る過程においてもサルトルは、それは「無意識」ではないと主張する。
 「実存的精神分析」の実践の一つとして『家の馬鹿息子』を読むことができるが、そこにおいてもフロイト的「無意識的抑圧」という概念ではなく、「意図的」な「選択」という概念によって説明している。また、この著作においては、サルトル自身がラカンに言及している箇所が見られる。サルトルが引き合いに出している箇所は現在のところ発見できていないが、彼がラカンを意識していたことは分かる。
 では、ラカンはサルトルの理論をどのように理解し、それをどのように自らのものとし、さらにそれを元に自己の理論を発展させていったのかを、「狂気に対する考え方」「眼差しと眼」「不安の原因」「欲望」「二つの存在欠如」という点に注目して、二人の理論の類似点と差異を明らかにしたい。
ラカンはサルトルの「眼差しと目の分裂」は認めながらも、自分を見つめている眼差しとは主体自身の無意識であると主張し、その無意識にあるものを「対象a」と設定する。
 サルトルにおいては「存在欠如」が「欲望」の源泉とされたが、「人間の欲望は<他者Autre>の欲望である」と断言するラカンにとっての「他者」とは「シニフィアンの宝庫」である。この両者の「他者」概念の違いは「主体」概念の違いにおいても顕著である。「あるシニフィアンはもう一つの別のシニフィアンに対し主体を代理表象するreprésenter」と定義するラカンにとって、主体とはシニフィアンの連鎖の効果として生じる存在なのである。
「無」を前にした実存が覚えるものとして「不安」を捉えたのに対し、ラカンにとっては、「欠如」の意識である「欲望」にとっての必要条件である「欠如」がなくなることが「不安」を引き起こすという論理である。ラカンによれば、その不安を引き起こす対象は「モノ La Chose」 であり、「対象a」とも呼ばれるものである。 
 サルトルが『存在と無』で「欠如したもの」としての「ねばねばしたものle visqueux」にラカンの「対象a」の概念に繋がる側面も見ることができるように思える。
 また、デリダ『真理の配達人』でのラカンの精神分析の批判は、サルトルが一貫して否定し続けた「フロイト的無意識」への批判とも繋がるのではないかと思える。
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